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毎朝鏡を覗くが、一度として同じ形だったことがない。どこかしら一部が、反逆者として、変な癖になって残っている。
私の願望を、なかなか素直に聞かない頑固者。朝は素直に従ったとしても、お天気次第で、夕方には、自由奔放にうねり捻じれているじゃじゃ馬。
それが私の髪である。
持ち主ですら、うまく御せない髪を、毎月のように面倒を見てくれるようになったのは、銀座のとある美容室のベテランスタイリストIさんだった。
それまで、殆どの美容師さんが、癖毛の私に「あんまり短くしない方が、髪の重みでボリュームが抑えられて扱いやすいですよ」と勧めてきた。だけど、Iさんは、短めのボブにしたいと言った私を否定せず、「はい」と、短く応え、広がりは抑えつつも、イメージ通りの短めに仕上げてくれた。何より、本人ですら持て余して、無理目のお願いをしたのに、否定も断りもせず、あっさりと私の髪を御してくれたプロの仕事に、ぐっと来た。それまで美容室ジプシーだった私が、以来、浮気一つせず、5年以上彼のところに通っていた。
Iさんは、少しシャギーの入った長髪で、見るからに「若い頃は相当モテてました!」という世慣れた風情の優男だった。女性のお客さんを不快にさせない程度にうっすら煙草の匂いをさせ、いつもシャツの胸元のボタンは3つぐらい開いていたが、接客では全く「オラオラ感」を出さず、口数も少な目だった。
Iさんと私が長い間「美容師と客」の関係を出なかったのに、そのバランスが崩れたのは、私が、彼に女の弱みを見せたからだと思う。
長年ストレートパーマの黒髪だった私が、初めてカラーを入れ、ウェーブのパーマをかけたい、と、Iさんに言ったら、軽く驚いた顔をしたが、さすがの客商売で、何も訊かなかった。具体的にどんな髪型にしたいのか、雑誌の写真をみながら、イメージを合わせ、淡々と施術の準備を進めた。
「私、最近失恋したんですよ…。奴、とんでもない女たらしでした…。深く嵌まる前にわかって、良かったんですけどね」語るに落ちるとは、まさにこのことだ。
自分の声が、思った以上に震えていることに、私は動揺した。同時に、失恋の痛みが鮮烈に胸を抉る。やばい泣きそう。涙が零れないよう、ぐっと奥歯を噛み締めて目線をあげると、鏡越しにIさんと目が合った。
「そうだったんだ…。じゃ、今日、もっといい女にしてあげるね」
彼は、私を慰めるような優しい声と、裏腹の強い目線で、私を見詰めて来た。
「シャンプー台へどうぞ」
彼の言葉で、私が立ち上がって歩き始めたら、顔馴染みの若い男性アシスタントが、シャンプーを引き受けようと、いつものように近寄ってきた。意外だったのは、彼が、アシスタントを手で制し、シャンプーまで自分でしてくれたことだった。
彼は、アシスタントにカラーの塗り方を指示して、ほかのお客さんの施術のために、途中で席を外した。アシスタントは、やや興奮気味に私に話しかけてきた。「Iさんが自分でシャンプーまでするなんて、滅多にないですよ!しかも、こんな凝ったカラー、僕がお手伝いした中では、無いんじゃないかなぁ。ナオさんは、Iさんの大事なお客様なんですねぇ」
私は、曖昧に笑ってごまかした。
少し明るい髪色は軽いグラデーションで立体感を出して、緩いウェーブを掛けた私は、以前よりも女らしく、柔らかく見えた。彼が掛けてくれた魔法。
お店を出るときにエレベーターまでIさんがお見送りしてくれるのはいつものことだけど、自然な感じで初めて携帯の番号とメールアドレスを訊かれて、思わず素直に教えてしまったのは、魔法の続きだったのだろうか。「この後予定ある?ご飯行こう。店が終わったら連絡するから」と、店内のほかのスタッフには聞こえないくらいの小声で囁かれた。
お店の人と会うのはお互い気まずいので、少し離れた駅で、彼と待ち合わせて、居酒屋に入った。
「なんで女たらしの元彼がいいの?そいつしか見てないから、『この人じゃないと』って、思い込んでるんじゃない?他の男とも付き合ってみたらいいのに。元彼も、色んな女にフラフラしてんでしょ?だったら、その人だけに縛られる必要ないよね。俺じゃダメ?試してみてよ」彼は、少し首を傾けて、私の顔を覗きながら、その手を、私の手に重ねた。
言葉だけを文字にしたら少し乱暴そうだけど、彼の声と瞳は、思いのほか真剣だった。そして、私の手を握る彼の手は、優しくて、温かかった。
弱っている今の私には、温かい男の腕が必要だ。そう自分に言い訳して、彼の家についていった。
「バツイチ独り身なもんで、殺風景でごめんね」
ゴルフのキャディバッグやら、ボディボードやら、遊び人っぽい道具がたくさん転がっている。美容師らしかったのは洗面化粧台だ。立派な鋏が何本も大事そうに収納されており、業務用のドライヤーもあった。鏝まである。こりゃあ、元彼に負けない女たらしかも・・・。
そんなことをぐるぐる考えながら、シャワーを浴びて寝室に戻ったら、下着姿でベッドに腰かけた彼に手招きされ、私は、彼の腕や膝の間に挟まるように座った。
彼は、私を背中から一度軽く抱きしめた。それから、手を、私の耳の横あたりから、髪に差し込んだ。髪をゆっくり梳きながら持ち上げ、首筋を唇でなぞる。頭皮や、首の後ろ側の肌が、こんなに気持ち良いなんて、知らなかった。私は、快感に震え、小さく悲鳴を上げた。
お店でカットしてもらう時とは、まるで違う。熱っぽいけど細やかな指の動き。普段の接客では、女性のお客さんに不快感や色気を感じさせないように、相当神経を使っているんだと思った。そして、毎日女性の髪に触っているからこそ、女性の皮膚感覚に鋭敏になるんだろう。私の髪をなるべくアシスタントに触らせたくなかった気持ちが何となく分かった。
彼が、私の後頭部の特定のエリアを指先でなぞる。円を描くように。そして上下に。焦らすようにゆっくりと。「ここ。ナオちゃんの髪、ここの癖が強いんだよ。知ってた?」
その指先があまりに艶めかしくて、震える息を吐きながら、肌を粟立たせ、私は喘ぐように答える。
「ううん、知らない」
彼は、自分の方を向かせるよう、私の身体を回転させ、少し得意げな笑みを浮かべて、私に口付けた。何度も角度を変えながらキスして、まるでシャンプー台に乗せるかのように、私の頭を支えながら、そうっとベッドに私の身体を横たえた。
髪だけでなく、彼の愛撫は、とても手慣れていてうまかった。そして、身体の扱い方がすごく丁寧だ。私の腕や脚を動かす時も、お姫様のように優しく扱ってくれる。女の身体は、ある点を一定の強さで刺激すれば気持ち良くなるというような、単純なものではない。リズムとか、テンポもすごく大事だ。彼の醸し出す空気が私を落ち着かせてくれたのだろう。彼とは初めて肌を重ねたのに、私は、自分でも驚くほどすんなりオーガズムに達した。
彼の部屋で朝を迎え、駅まで送ってもらった。私が「それじゃ」と口を開きかけた時、彼が、昨夜と同じように首を傾げて、聞いてきた。
「どうだった?元彼と、俺と、どっちが良かった?」おどけた口調で何気ない風を装っているが、目は真剣だった。
この時点で、私は、覚悟を決めていた。だから、敢えて訊いた。「セックスって意味?」
「うん」
「それは、Iさん」躊躇わず答えた。
「じゃあ、俺と付き合う?」
やっぱりそう来たか。そして、訊かれる前から、というか、彼の腕の中で絶頂を迎えた瞬間に気づいてしまった答えを、正直に告げた。
「ごめん。私、やっぱりまだ元彼が好きみたい。Iさんとは付き合えない」
「・・・そっか」Iさんは、軽く傷ついたような顔をしたが、いつもの営業スマイルに戻って、「もし、気が変わったら、その時は俺と付き合ってよ」と言い残し、踵を返して、来た道を戻って行った。
私ですら、どういう性質なのか把握できてなく、コントロールもできない癖っ毛を、5年以上も見事に御し、一晩で私の性感まで御したIさんだが、私の心だけは捕まえることができなかった。
「彼氏にしちゃいけない職業」トップ3の一角を占める美容師ですら、手に負えないのだから、私は、髪はじゃじゃ馬だけど、心は暴れ馬なのかもしれない。この先の自分の恋愛に対し一抹の不安を感じながら、私は、こんなに素敵にしてもらった髪型を、今後、誰に面倒を見てもらえば良いのだろう、と考えていた。
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