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写真を撮るのが好きだった。
切り取ったその世界が自分のものになる気がした。
でもある時気が付いてしまった。
「見たものを、そのまま撮れるわけじゃないんだね。」
目に泪の膜を作って光を見つめれば、光が幾重にも重なり蝶のように見える。だけどそのままシャッターを押しても撮れるのは、ただの光だ。自分に見えていた光の蝶を皆にも見せたくてシャッターを何度も押したのに、写真に蝶は現れなかった。
「自分の感じたものを表現するなら絵だって一つの手段だと思うよ。」
むしろその方が感じたものの表現には向いている。自分が見たものというのは少なからず、誰にも見えない心の影響を受けているのだから。彼女はそう言って色で光を表現した。
しかし僕にはどうしても色で光を表現することは難しかったし、光を光としてとれる写真が好きだった。現実にあった世界を切り取るのがやはり好きだったのだろう。
ご近所さんの犬の写真を撮った。彼女も僕の真似をしてシャッターを押した。同じものを撮ったのに、撮り方が違う。犬のポーズとか、仕草とか、切り取ったその瞬間も、その瞬間を切り取ろうと思った心も、角度も高さも違うのだと気が付いた。
写真はその場にあるものを映すもののはずだけど、その瞬間を切り取る行為に、確かにそれを行った人物の心は影響するのだ。
だから写真は、絵と違っていても、絵とは違う風に芸術として成り立つのだと思った。考えて見れば書というものだって、同じ文字を書いているのに芸術として成り立っているのだ。たとえ同じものでも、何かを写していても、それは芸術になる。
「詰まる所、心が入り込む余地さえあるのなら、それは芸術になりえるのではないだろうか。」
彼女は僕の言葉を聞きながら紙に線を引く。
「例えばこの一本の線にも心がこもっていれば芸術?」
見ようによってはそうだと思う。世界に心を持って生み出されるものが全て芸術で、世界を心を持って切り取るのも芸術。
「でもそれって、そこに心が込められていることが前提でしょう。」
彼女は筆をおいて僕を見た。
「あなたは何を思って世界を切り取っているの?」
「まあ、あれだ。世界には愛が溢れているってやつだね。」
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