35人が本棚に入れています
本棚に追加
前編
ざわわ、ざわわ、ざわわ。
耳を撫でていくのは自然が造り出した塩水同士がぶつかり合う爽やかな濁音。
そういえば小さい頃、貝殻を耳に当てると波の音がするって聞いて、必死でそれっぽい貝殻を探したなあ。
結局耳の中に砂をこれでもかと注ぎ込むことになって、母ちゃんにむちゃくそに怒られながら耳鼻科に連れていかれたっけ。
それ以来……いや、それまでも「男は馬鹿だ」っていうのが母ちゃんと姉ちゃんの口癖だった。
馬鹿だ馬鹿だと言われ続けて、それでもそのコードネームを返上するような立派なエピソードはなにも生み出せないまま、今に至る。
ざわわ、ざわわ……って、あれ?
これ、ほんとに波の効果音か……?
「ざわわ、ざわわ……あ、起きた」
「ぎゃわす!」
「随分な挨拶じゃのう」
真正面で、しゃがれた声が嗤った。
白い。
それに、案外若い。
「あ、あんたは一体……」
胡散臭いスーツの男が、胡散臭い笑顔を浮かべた。
眩しい。
全身を覆う白が、覚めたばかりの目を容赦なく突き刺してくる。
「わしは死神じゃ」
「死神……?」
てことは、まさかここは地獄!?
バクバクと心臓が跳ねるのを感じながら辺りを見回して、でもなんだか全然それらしくない。
青。
濃い青。
薄い青。
透きとおった青。
白と混じりあった青。
見渡す限りの青が、俺たちを取り囲んでいる。
どうやら波の音が聞こえていたのは本当らしいけど、足首を撫でる水面はゆらゆら揺らめいているだけでとても穏やかだ。
足の裏は柔らかい砂にしっかりと包み込まれていて、ここが浅瀬だと気がついた。
強い日差しは頭上で薄い布に遮られ、海面に反射した光の粒が綺麗だ。
黄金色の砂浜が目と鼻の先にあるのに、なんであえてここにパラソルをセッティングしたんだろう。
そしてなんで俺は、唐突にここにいるんだろう。
改めて目の前で場違いなリゾートチェアに腰掛けている男を見ると、薄い唇が歪んだ。
目元は陰になっていてよく見えないけれど、なんだかものすごく、
「……胡散臭い」
「なにがじゃ?」
「死神ってこう……黒尽くめで、ボロボロの布をはためかせながらもっとおどろおどろしい感じで、物騒な鎌とか担いでるもんじゃないの?」
「主が望むなら、そのような姿になってやっても良いぞ」
「えっ!」
「嘘じゃ。そんな魔法使いのような真似ができるわけなかろう」
なんだよそれ!
無駄に期待しただろ!
「ん?ちょっと待てよ。あんたが死神ってことは俺、死んだの!?」
「そうじゃ」
「え、ええ!?なんで?なんで!?」
「おかしな奴よのう。わしが死神だということは微塵も疑わぬくせに、誰しもに訪れる死は信じられぬと?」
「だ、だってさ、俺小さい頃からブロッコリーむっしゃむしゃ丸かじりできるくらいの野菜好きだし、無駄に熱血な水泳部に入ったおかげで適度な運動もしてるし、だからすこぶる健康優良児だったし、なによりまだ十代じゃん!」
「だから?」
「へ……?」
「人は欲深い。たとえ百まで生きたとしても悔いを残すものよ」
あれ、なんだか深イイ話?
さすが死神。
「さて、くだらないおしゃべりはもう終わりじゃ」
「え、もう!?」
「選べ」
目の前に差し出された手のひらには、右手に赤、左手に青い小さな丸い粒がひとつずつ乗っていた。
なんかこの光景、昔の映画で見たことがあるような、ないような。
「えっと、これは……グミ?」
「たわけ。天国か地獄、どちらにゆくか選べと言うておるのじゃ」
「え、俺が選ぶの?ていうか、そもそも選べるものなの?」
「そなたはboderlineだからの」
なんでそこだけ無駄に発音いいんだよ。
「特別に目立った良いことをしたわけでもなければ、即刻地獄に突き落とすべき極悪人でもない」
「いやでも、けっこうズバズバもの言っちゃう性格でいつも誰かを傷つけて……」
「人間生きておれば、傷つき傷つけあうのは当たり前じゃ」
あ、まただ。
深イイやつ。
「どっちが天国とか教えてもらえたりは……」
「赤か、青か」
「……しないんだ」
「さあ選ぶのじゃ、佐原親太郎」
耳を、疑った。
「あっのー……」
「どうした、選べぬのか?」
「いや、そうじゃなくて」
そもそも、
「俺、佐原親太郎じゃないんだけど……?」
「えぇ?」
「嵯峨志信。SSコンビの黒い方」
反らした親指で自分を示すと、死神の顔が真っ青になった。
なるほど、死神も血の気が引いたりするのか。
「いかん、まちごうた!」
「はあ?」
「ふたつの魂があまりに近くにおったせいで、取り憑く相手をまちごうた。ええと、マニュアルマニュアル……」
死神は、白いポケットを探り、大学ノートみたいな冊子を取り出した。
明らかにサイズ感がおかしい。
「人違いをしてしまった場合のFAQは……あ、あった!危なかった……うっかり地獄に落としておったら、それこそジ・エンドじゃったわい。主よ、顔立ちがわしのタイプ寄りでラッキーだったのう。不細工だったら即刻……」
「ちょっと待て!」
帽子の陰に隠れたまま、死神の視線が俺の輪郭を捉える。
「もしかして、本当は俺じゃなくて親太郎が死ぬはずだったってことか……?」
「そうじゃ。死神になって2019年目じゃが、こんな失態は生まれて初めてじゃわい。主の魂は今なら……うむ、今なら十二分に間に合うな。ちゃんと肉体に戻してやれる」
「いや、戻さなくていい」
「なに?」
「俺の魂を戻したら、親太郎が死ぬんだろ?それなら、戻さなくていい」
「そういうわけにもいかぬのだよ。生きとし生けるものは、この世に生を受けたその瞬間から死に向かって歩んでいくもの。佐原親太郎の寿命はもう尽きた。主にもわしにも、こればかりは変えられぬううううう!?」
「うわ、まっず!にっが!なんだこれ!?」
しかもめちゃくちゃ歯にくっつく!
「お主、いったいなにを考えて……!」
赤と青の粒をまとめて飲み込むと、死神の両手がわなわなと震えた。
「親太郎の命は渡さない。天国でも地獄でも、行き先はどっちだっていい。ただ今日死ぬのは佐原親太郎じゃない。嵯峨志信だ」
もし俺の行き先が天国だったら、きっとまた親太郎に会える。
親太郎はものすごく良いやつだ。
だから好きだったんだ。
ずっと、ずっと。
家が隣同士になったあの日からずっと。
「残念だったな、死神」
呆気にとられていた口元が、不気味なほど整った弧を描いた。
「人間とは、実に愉快よのう」
最初のコメントを投稿しよう!