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ピアノの音が好きだった。
鍵盤に触れたとき、指先から光が溢れてくるような感覚が好きだった。
ただ無心で、心の奥を満たす音を探して、奏でて、その音楽で誰かが笑ってくれたら。
こんなに幸せなことなんてない。
そう思っていた。
「ツカサん家から聴こえてくるピアノの音、俺めちゃくちゃ好きだったよ」
「ピアノは……もう弾かないって決めたから」
「なんで?」
街中で流れてくる音楽の音階を口遊む癖が治らない。無意識にメロディを指先で机に刻む癖が治らない。
そんな自分が嫌で嫌で。
この指が無くなればいいと思っていた。
───ツカサのピアノを聴いてると元気になるよ。
幸せはみんなに伝播する。
ピアノさえあれば人を笑顔にできる。
……だなんて、そんな幻想にずっと取り憑かれていたのだ。
「お母さんが倒れた時、私ね……ピアノ弾いてたんだ。馬鹿みたいに夢中になって、周りの音なんて全然聞こえてなくて……だからちっとも気付かなかった。リビングで倒れてるお母さん見つけたのも、何十分も後になってからだったの」
まだ半分残った肉まんが、どんどん冷たく硬くなっていく。そんな小さな変化を感じる事さえも、今の私には耐えがたいほど苦しい。
「でも……おばさん、今は元気そうじゃん」
「感覚がさ……無いんだって。物に触れた時の指先も、歩いた時の足裏の感触も、温かさや冷たさも。当たり前に感じるはずの感覚が、あの日からお母さんには無いんだよ」
この雪のように、記憶が溶けて無くなってしまえば。ピアノが好きだった私を、母から幸せを奪った私を、許せるだろうか。
「私がお母さんから、幸せを奪ったんだよ」
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