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「ごめんなさい、紅玉さん……」 「何を謝る?」   要は意を決して男に話しかけてみたものの、壁に背を預け、無表情のまま立っていた男は、要の声掛けに微かに面倒そうな表情をした。炎に似た紅を宿す眼差しは、何度見ても少年の胸底を騒がせる。  翡翠が一緒にいる時は平気なのに、翡翠が傍にいない時は、何度となくこの黒い髪と紅い瞳を持った青年のことが、要には怖く思うことがあった。  要をこの世界に呼んだというこの国の王――琥珀も、最初のうちは何を考えているのか分からず、怖い存在だった。  けれど、その手の感情には少々疎い要にもようやく分かってきたほどに、琥珀は要の心に添おうと努力をしてくれていることが分かる。この国の王は冷静で英知に富んでいるのに、優しさとかそういう感情を表現をすることには、とても不器用だった。  自分を必要としてくれていること。それだけは要にも十分に伝わったし、それが伝わってからは要は琥珀を怖く思うことはなくなったけれど、今、要の目の前にいる男は――別だ。  男は要に対し、威圧的なわけではない。むしろ礼儀正しく接してくれて、心強い人物だと思う。いつも笑っているように見えるのだが、男の目は笑わずに冷酷な様を呈しているのを垣間見る時がある。  しかし、この世界で琥珀と同じかそれ以上に要が頼りにしている、翡翠という少年の傍に来ると、変わるのだ。驚くほどの正確さで青年はあの冷酷さを隠し切ってしまう。  何度も男が他の兵士たちや城の者たちと笑いあう姿を見ているのに、それが彼の本性ではないと感じていた。あえて言うなら、同族嫌悪、なのかもしれない。 「……紅玉、要が怯えている。少しはその禍々しい気を抑えてくれ」 「怯えている? そんな風には見えないけどな」  無言であることが多い琥珀と、派手でどんな人間でも引きつけてしまうような紅玉。正反対としか思えない彼らの関係がただの主従には思えなくて、要は助けを求めるように琥珀へと視線を向けた。一方、琥珀も彼らに近づくと、今まで寒々しいほどに開いていた彼らの距離を埋めるように真ん中へと立つ。  数人の神官たちと、王や神子を世話するために特別に選ばれた者たち以外には余計な者がいない神殿では、朝と晩に行われる禊が済めば後は大抵自由にできる。この儀式が、伴侶となる者とゆっくり語らう時間もない王のために設けられた休暇のための口実であるとは、要はここに来るまで知らなかった。  だからこそ、警護のために駆り出された紅玉に申し訳ない気持ちで謝ったのだが、琥珀と要の前での男は、空虚だった。 「陛下、王宮より急ぎの報せが参りましたが」 「通せ」  王や貴族たちは、急ぎの手紙のやり取りには鳥を使う。愛らしい姿の鳥が飛び込んでくると、真っ先に琥珀の腕に止まった。今までの空気を知らないとばかりに、銜えていた封書を床に落とすと暢気にさえずり始める。琥珀が飼っているこの鳥がただの鳥ではないことを知ったのもつい最近のことだ。  無表情なままで封書を拾い上げた琥珀は、報せを読み始めてすぐに、軽く眉根を寄せた。それから、急ぎの用件が書かれた紙を紅玉へと手渡す。主であるはずの琥珀に向かって鋭い一瞥を投げてから、紅玉は面倒だと言わんばかりの緩慢な仕草で、手紙を受け取った。 「翡翠が、内廷を離れて街に向かったそうだ。城を出ようとしていたらしい」 「……何?」  紅玉の態度が一変した。受け取った手紙を流し読みしてから、俊敏な動作で石造りの窓辺に一気に駆け寄り、ここからは遠い王宮や王都の方へと注意を向け始めた。そうして、青年は何かを探り当てたのだろうか。  急に、琥珀が要の手を引いてきた。それにつられて要も後退ったところで、強烈な突風が突如として窓から吹き込んできた。 「……紅玉さん、危ない!」  思わぬ突風に目をとじてしまった要が、目を開いた次の瞬間に見たのは、黒い髪の青年が窓枠に足をかけているところだった。いくら武官として優秀な彼であっても、ここは地上から数十メートルはあるだろう高い崖の上に造られているのだ。そんなところから飛び降りてしまったら、どんな超人でもただでは済まない。そう思って手を差し伸べようとした要の肩を、琥珀が強く引きとめた。 「琥珀さん! 紅玉さんが……!」 「大丈夫だ」  次には目を覆いたくなる光景が待っているのだろうと思っていた要の前で、異変は起きた。再び襲ってきた風が、まるで黒髪の青年の全てを――男の、人としての"皮"すらも剥がすように、姿を変えていく。 「……トラ?」  真っ白な毛並みに刻まれた、要にも元の世界で見慣れた動物の紋様。  大きな体躯を、音もなく窓から外へと向かって滑らせたその生き物の背には、要がもといた世界の彼らにはない、大きな双翼がついていた。必死な表情で見上げてきた要に、琥珀が苦笑を返してきた。 「行くしかあるまいな。翡翠に万が一のことがあってあれが暴れたら、世界の一端が壊れてしまう」  先ほど紅玉が変じた時とは違い、要の頬を優しい風が吹きすぎていくと、たった今までこの国の王が立っていたところには琥珀色の瞳をした、黒いたてがみを持つ獅子がいた。その背にも、先ほどの白虎に勝るとも劣らない立派な対翼が生えている。  要より一歩か二歩、先に獅子が歩き出したところで要はその背に縋りついていた。 「僕も、行きます」  琥珀色の瞳は了解と言わんばかりに瞬き、背中に乗るよう少年に示してくる。そうして飛び出した獅子の背中から見下ろした世界は、要が知るどの景色よりもずっと、美しかった。
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