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「ここにいたのか。逃げ足が速いな」  足の速さは負けないつもりだったのに、持久力となると体力が違いすぎた。獣人たちは総じて体力が普通の人間たちよりも優れているという噂は本当だったのだと、こんなところで知る羽目になる。袋小路になっていることにも気づかず、翡翠は自分でも情けなく思う程、あっさりと奥まで追い込まれてしまっていた。  いつもならもっと走り続けられるはずなのに、ついこの間まで臥せっていたせいか思ったよりも早く息が上がってしまい、これ以上走ることもできなかった。何より、あの黒い痣がある辺りが酷く痛む。   「……ッ、こっちに来るな!」 「冗談言うなよ。無防備にうろついていた、お前が悪い。安心しろよ、ちょっと味見したら、すぐにお前を欲しがる輩共がいるところに連れて行ってやる。こんなとこをうろついてるってことは、どうせもうお前に用事がある奴はいないんだろうよ」  諦めきれずにもがくのを、上から無理やり押さえつけられる。哂いながら。獣人の男が翡翠の口元に己の指を近づけてきた。それに思いっきり噛みついたが、返ってきたのは――笑い声だった。 「威勢だけはいいな、お前。知っているか? そういう奴程、屈してしまったら、その相手にはもう逆らえなくなるんだ」  翡翠の両の腕を、片腕一本で封じ込めてしまった男は満足げに喉を鳴らすのが聞こえた。恐怖を与えるためか、殊更ゆっくりと、翡翠の着ていた服に爪を立てて引き裂いてくる。 「なんだ? 笑ってやがる」  男の声色が、変わった。『屈してしまった相手には、もう逆らえない』――本当にその通りだと翡翠は思う。だから、紅玉以外には、絶対に屈せない。鋭そうな爪に首を引き裂かれても、絶対にだ。 「このガキ! おい、誰かそのガキを捕まえろ!!」  翡翠を押し倒していた男の股座を思いっきり蹴り上げ、相手の拘束が緩んだ。その隙に、握りしめた道端の砂を男の目に向かって投げつけ、翡翠は再び走り出す。  だが。全身を侵すように黒い痣から痛みが広がっていき、そう離れていないところで転ぶと、後ろから楽しげに野次を飛ばしていた元小間使いの男たちが、翡翠の周囲を取り囲んでいくのが分かった。 「あーあ、汚いねえ」  嘲笑う声。大きく襲った痛みに思わず呻くと、背後から髪を掴まれて地面へと押しつけられる。頬が砂で擦れるのと共に口の中に入り込んで、なんとも言えず気持ちの悪い感触がした。 「いい気味だ。どうせ神子サマに尻尾を振って、自分の都合のいい様にしようとしたんだろう? あー怖い怖い。そんな奴はとっとと消しておくのが世界のためってね」 「ちゃんと説明すれば陛下も分かってくれるはずだし……ぼく達は、悪いこと何もしていないんですよぉーって。ほらほら、助けてって言うなら、今のうちだよ?」  本当に勝手なことばかりを男たちは喚く。ふと、翡翠の脳裏に浮かんだのは――紅玉の顔だった。  痣に、飲み込まれていく手。それを一度だけ握り締めてから、翡翠は自身の髪を掴んでいた男の腕を引っ張り込み、精一杯の力で地面へと押し付けた。   (――助けてなんて言えるか!)  カナメの傍についていてくれ、と言ったこの口で言えるわけがない。 「~~~~~~コイツ!!」  男たちの目つきが変わった――その時。  それは、今まで聞いたことのないような、猛々しい咆哮だった。そちらへと顔を向けた翡翠の視界に映ったのは、白い双翼――それを背に戴いた、白い、雄々しい虎の姿。  虎は真っ直ぐに翡翠の傍に降り立つと、突然現れた大きな獣に悲鳴を上げ、逃げ惑う男たちを易々と引きずり倒していく。そこにあるのは、ただただ暴力による支配だった。  最後の一人を鋭い爪が生え揃った前足を掛けて地面へと叩き伏せてから、白い獣は、わずかではあるが血のしぶきを浴びた顔をゆっくりと振るう。そうして、翡翠を見てきた。その白い毛並みについてしまった血と同じくらい紅い、瞳で。 「……紅玉?」  初めて出会った時から変わることのない、力強い真紅の瞳。白い獣は人の言葉を介さないのか、一言も発することなく翡翠に近づいてきた。それでも、不思議と恐怖は感じない。すり寄せられる大きな虎の、首のあたりを抱きしめていると、その温かさに、勝手に涙が溢れて翡翠は戸惑う。  言葉はないけれど、『無事で良かった』と言われた気がした。
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