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13
「翡翠たち、うまくいくといいけど。紅玉さんは優しいし、きっと大丈夫だよね?」
「優しい……あれが?」
宿屋を出てから、要は琥珀と連れ立って街中を歩いていた。二人とも動きやすい服装だったのもあって、存外街に溶け込めている。街行く人々も、まさかこんなところに王がいるとは思わないだろう。
先ほどの騒ぎはすっかりと落ち着き、日常が戻っている。はじめて見る出店のもの珍しさに、心が躍るのを何とか抑えつけながら、要は隣を歩く寡黙な王へと話しかけた。のんびりとしていて良いのだろうかとは思ったが、今の彼は休暇中なのだと考えることにする。
今まで見たこともないくらいに、翡翠が動揺していた。そして、紅玉が見せた怒りの気配。要には、彼らの関係がうまくいくように、と願うことしかできない。
紅玉は翡翠のことを好いているのだろうし、翡翠自身も今思い返せば紅玉のことをずっと気にしていたと思う。いつだって最低限の一線を誰に対しても引いている翡翠が、唯一無遠慮に接していたのが紅玉ただ一人だったからだ。
しかし、要がそんな心の祈りを口にすると、琥珀はめずらしく眉根を寄せ、要の言葉の一部を疑問の形で返してきた。常日頃、琥珀は穏やかな口調で要に話しかけてくれるのに、今はどこか荒々しさを感じる。
「だってこの間、僕や翡翠のことを悪く言ってたあの人たちに囲まれた時も、紅玉さんが直ぐに助けに来てくれたし……いつも僕たちのこと、細かいことでも気にかけてくれるよ?」
「……」
琥珀が眉根を寄せるのを不思議そうに見上げていると、店と店の合間にある小さな公園のようなところへと誘われた。街の人々も涼んでいて、ゆったりとした時が流れている。座るにはちょうどよさそうな、大きな石を見つけると、琥珀はそこに座るよう要を促した。要が素直に従って石の上に座ると、端整な顔をした王の唇から、小さな嘆息が漏れた。
「少し昔の……要がこの世界に来るよりも前の話を、しても良いだろうか」
「もちろん」
どうして先ほどから琥珀の様子が少しおかしいのか。その理由を教えてもらえるのだろうと要は背を正した。穏やかな琥珀色の瞳が要を見つめてきてかと思うと、過去を思い返しているのか、うっすらと目を細める。
「翡翠からはもう聞いたようだが――翡翠は、諸国の争乱によって"気"が落ちていた私のために、無理やり故郷から連れだされた。私がそれを知らされたのは、以前大臣の筆頭を務めていた男が、私の寝室まで翡翠を連れてきた時だった」
琥珀――黒いたてがみを持つ雄々しい獅子を本性に持つ彼は、この世界を守るための一柱なのだという言葉を、琥珀の話を聞きながら要は思い出していた。人々が争いを起こせば、それは琥珀にも影響を与えるものらしい。
琥珀が口にすることはないが、『痛み』や『苦しみ』を、要が来るまで彼はずっと一人で耐え続けていたのだという。
「翡翠は、何一つ悪くない。だが、私の選びし相手ではなかった――それだけだ。大臣や貴族たちに告げ、幼かった翡翠を故郷の村にすぐ帰すつもりだった。どれ程大臣たちが反対しても、それくらいのことはしてやりたかったが……紅玉が、それを留めた。そうして、時が過ぎてから翡翠を詰り、嘲笑った者は少しずつ、城の中から姿を消していった。私が問い詰めても、何も言わないし、あれが何かをしたという証も残ってはいないが」
「こ、紅玉さんって、いったい……」
要の前で、白い翼を広げて飛び去った白虎。琥珀同様に、あれが紅玉の本性なのだろうと思う。しかし、彼は一体何者なのだろうか。要が混乱しているのを見て取り、琥珀は苦笑を浮かべた。
「見た目だけは、美しい純白の毛並みをしているが。あれこそがこの世界に混沌を招く元凶だ。あれが面倒臭がらずに人心を掌握し、再び国を興して剣を持てば、もう誰にも抑えることはできないだろう。『白』の獣は、己の番いとなる『黒』の獣がいなければただ牙を剥き、滅ぼすだけの存在となる」
混沌である彼が逃げ出さないように、本当の名を奪いこの国に縛り付けていた、と琥珀が続ける。
この世界にとって混沌というのが、どういう存在なのか。要にははっきりとは分からなかったが、ひどく恐ろしいものなのだろう、ということだけは分かった。
「そして翡翠は、混沌――紅玉の、唯一の『良心』だ。つまり、対の相手だということ。翡翠に現れたあの黒い痣だが、本来なら『黒』の獣にその証が現れることはない。対とはいえ順列があり、『黒』を持つ方が上であるからだ。しかし、私にも翡翠が『黒』の獣であることを気づかせず、少しずつゆっくりと毒を注ぎ込むように、力尽くで自分のものである証を刻み付けていったんだ。翡翠が己への想いを言葉にしようとしたら、一気に現れるように」
要の知っている紅玉とはまるで別人だ。要はただ目を瞬かせることしかできない。だが、確かに琥珀は先刻言っていたはずだ。
(翡翠に万が一のことがあって、アレが暴れたら世界の一端が壊れてしまう……って、そういうことだったのか)
ようやく意味が分かってきた要が、息を飲みこんだ。
「精々、翡翠に飽きられないように努力してもらうしかないだろうな、"混沌"殿には」
「……そ、うだね……」
世界が違う、と何度となく思ってきた要ではあったが、今日ほど違うと思ったことはなかった。
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