番外編(過去):書庫番と小さな客人

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番外編(過去):書庫番と小さな客人

 侍従長の石英は、かつて書庫番だった。  城の書庫番は、存外忙しい。書架ごとの管理はもちろんのこと、歴史や動植物学者たちが書き綴ったものを、日々確認し手入れを行う。また、時折城下に赴いて、流行りものの本を見繕うこともある。  石英を訪れるのは、高官から下級官吏、使用人まで様々だ。人々は書物だけではなく、石英の知恵を借りに来ることも多い。  数日前から、石英が勤めている書庫に、新しい客人が増えた。 「翡翠。よく来たね」  普段から書庫に入り浸りで、城の中のことには興味がほとんどない石英でも、彼のことは知っていた。  白銀の柔らかな髪と、宝玉を思わせる、翡翠色の美しい大きな瞳。年端のいかぬ子どもだが、将来が楽しみだと誰しもが思うだろう、整った顔立ちをしている。こんなにも可愛らしい子なのに、考えのない者たちは「できそこない」だとか「白の神子のなりぞこない」と呼んでいると耳に挟み、石英は心を痛めていた。  永久に続くかと思われたこの国の、盤石であったはずの、王。  その本性は神獣であり、不老不死ともいわれてきたが、ここにきて王が弱り始めていた。王の伴侶となりえる、『白の神子』――その存在だけが、王とこの国を救うのだという。  そこで無理やり担ぎ出されたのが、翡翠だった。だが、めずらしい白銀の髪を持つ少年ですら『白の神子』には、なりえなかった。  小さな田舎の村出身だという少年は、故郷に帰りたがっている。しかし、『白の神子の偽者』として万が一にでも名乗り出ることを危惧してなのか、少年が故郷に戻してもらえそうな雰囲気は一切ない。それだけではなく、まだ幼い少年を、周囲の大人たちはおのれの不安で持って、押し潰そうとしているようにも見えた。  書庫に顔を出す時の少年は、顔を俯けたりせず、いつも真面目な顔でやってきた。 *** 「今日は随分と難しい本を読んでいるな、翡翠」    少年がやってくるのは、他の人間たちがほとんどこない昼餉の時間であることが多い。今日も本を一冊、小さな手に取ると、長机の端っこで本を読み始めた。まだまだ、無邪気に笑っても許される年頃の子どもだ。しかし、石英が穏やかに声をかけても、向けられるのは、この人間は自分を罵倒しないだろうかという怯えの眼差しだった。それにもまた心を痛めつつ根気強く石英が話しかけていると、少しして少年は、はにかみながら俯いてしまった。 「あの……じつは、絵だけ見ていて」 「絵だけ? ――ああ」  なるほど、と石英は頷いた。  少年が見ているのは、この国に住まう野生の動物に関する文献だ。専門的な書なので、大人でも気合を入れないと読みこめないものだが、この書には動物たちの特徴をよくとらえた絵も数多く載っている。石英が問う前に、視線を下に向けたまま少年が再び口を開いた。 「おれは、字がよめないので……」  小さな声で呟かれた声を聞いて、石英は少年の傍に膝をついて座った。 「翡翠。生まれた時から字が読めて、書ける者なんていやしないんだよ。みな、先人が積み上げてきたものを誰かしらから教わるものだ。恥ずかしがることはない」  これから学べば良いと話したが、少年は恥ずかし気にするだけだった。  次の日。石英は城下で小さな子ども向けの絵本を仕入れて城に戻った。だが、いつもの時間になっても少年は現れない。石英は心配で顔見知りの使用人たちに翡翠のことを尋ねたが、少年がどこで何をしているのか、把握している人間には会えなかった。 *** 「おや」  ひょこりと現れた白銀の髪の少年に気づき、石英は安堵の笑みを浮かべた。ただでさえ、少年の扱いは不透明で、扱いに難があるのであれば書庫番で少年を引き取ると王に直訴してきたばかりだ。少年に続いて書庫に入って来た長身の男を見て、石英は目を丸くした。  人の目を惹く男だ。ほとんどの人間が髪を伸ばすこの国において、短い黒髪というのも驚きだが、髪の合間から覗く鋭い紅眼と目が合うと、城の人間と接することが多い石英ですら緊張を覚える。武官用の服に身を包んでおり、均整の取れた身体つきをしているが、威厳のある立ち姿は貴人そのものだ。これほど容姿も整っていて目立ちそうな男を、石英は今まで見かけたこともなかった。 「石英どの、今日もおじゃまして良いでしょうか」 「もちろん。ところで翡翠、後ろの方はどなたかな」  緊張を微笑でごまかしながら少年に話しかけると――翡翠は、初めて石英に照れ笑いをして見せた。 「紅玉っていいます。ひましてたから、連れてきました!」 「……お前が字を教えろというから、付いて来てやったんだろうが」  成人した者に言う台詞ではないとは石英も思ったが、紅玉という名前の男は苦笑しながら言い返している。「だって、ずっとおれにくっついてくるじゃないか!」と少年は顔を赤くしながら反論している。  そこまで彼らの会話を聞いて、紅玉という男はもしかしたら少年の世話役に選ばれたのかもしれない、と石英は思った。王には選ばれなかったものの、本物の『白の神子』が現れるまでは少年は神子の代わりとして祭祀に出ると聞いている。孤独故に泣くことも許されないだろう少年に、その手酷い役目の数々を越えられるのだろうかと心配していたのだが。 「初めまして、紅玉殿。書庫番の石英と申します。……翡翠、あそこの書架に、新しく仕入れた本を並べておいたよ。絵だけでも物語が分かるから、翡翠にも読みやすいと思う」  ぱあ、と美しい翡翠色の瞳が期待で輝いた。「教えてくれてありがとう」と礼もそこそこに、石英が指示した書架へと、もどしかしげに早足で向かっていく。紅眼の男は、ごく当然という顔で少年の後をついて行った。   やがて翡翠は一冊の絵本を選び、長机が並ぶ方へと向かった。しかし、男が選んだのはあたたかそうな陽だまりができた、窓の近くだった。  男はさっさと床に座り込んだが、少年は戸惑っている。「いすに座ろう」と話す小さな声も聞こえてきたものの、男に腕を引っ張られ、少年はすとんと男の膝の上におさまった。少年の動揺を見越したのか、男は少年が手に取った絵本を、淡々と読み始める。それは見事なまでに感情のこもっていない、棒読みだった。 「……紅玉がよんでいるのを聞いていると、ねむくなるぞ」 「そうか? 不思議だな」  そんな会話が時折聞こえてきて、石英は今日預けられたばかりの文献を確認しながらも微笑ましくなってしまった。ふわ、と小さな欠伸が聞こえる。ちらりと彼らの様子を見やると、少年が眠りかけているのが見えた。確かに、少し離れたところにいる石英ですら、男の低い声が紡ぐ、素晴らしく単調な読み上げによって現れた睡魔と戦う羽目になったのだから、まだあどけない子どもが眠りこけてもおかしくはないだろう。  男の膝の上に座ったまま、少年がやがてすっかりと寝入ってしまったところで、棒読みが止む。石英は立ち上がって彼らのところに近づくと、男は本を石英に差し出してきた。今動いたら少年を起こしてしまいそうだからだろう。石英はそのまま本を受け取ると、感心しながら口を開いた。 「貴殿はすごいな。翡翠が笑うところを、今日初めて見ました」 「……俺は三度目だ」   言葉少なに、しかしどことなく得意げに返してきた男は、少年を起こさないよう器用に自身の上衣を脱ぐと、少年の身体にかけてやった。それから、自身もまた目をとじる。書庫の中で居眠りする人間は少なくないが、ここまで堂々と午睡を取るのもめずらしい。 (明日から、賑やかになると良い)  笑うことすら忘れそうになっていた少年が、楽し気に笑う声で。   Fin.
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