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番外編(過去):約束事
「ここが、紅玉のおへや?」
大きな翡翠色の瞳がまん丸くなる。
獣同然に、見えない檻の中にいた己のを見つけたのが、この子どもだった。
最初に出会った時。その子どもは泣き喚いて、あれこれと言いがかりのような文句をつけてきた。それもその時だけで、落ち着いてみれば存外言葉数は少ないらしい。
ふわふわとした白銀の髪も、今日は整えられている。
まだ年端もいかない子どもなのに、城の中では感情をなるべく抑え込むようにしているのがすぐに分かった。
「狭くて驚いたか? 」
ようやく見つけた己の片割れと話をしたくて、黒獅子に己の部屋を用意させたのだが――。
「せまくないよ。本がね、おへやの中にあるなあって思って」
「ああ?」
それは、黒獅子が己への嫌がらせで部屋に置いた小さな書架のことだ。かつては手慰みに人の書いた軍記ものを読んだこともあったが、ただ字を追うだけで何とも思わなかった。己に、人に似た情感を求める方が間違いなのだ。
「もしかして、紅玉って……字がよめる?」
「読めるし、書けるな。これでも……」
己の名のもとに国を縛る言の葉を綴ったことすら、かつてはあったのだ。
国といっても、もはや廃墟すら砂塵の底に消えただろうが――そんな馬鹿げたことを思い出してしまい苦笑すると、子どもの柔らかな髪をかき混ぜる。「せっかく、部屋におじゃまするから、ちゃんと髪をまとめてもらったのに……! 」と子どもが文句を言ってきた。
しかし、唇を尖らせながらも、期待に満ちた表情で見てくる。
「おれ、字がよめるようになりたいんだ。おしえてって言ったら、めいわく?」
そう言って小首を傾げながらも見上げてきた生き物に、思わず柔らかな髪を撫でていた手が止まった。
「迷惑かどうかは、報酬次第だな。……お前は、俺に何を与えられる? 」
子どもの必死な様子に、少し意地悪めいたことを言った。「ほうしゅう……」と、翡翠と名乗った子どもが真剣に考え始める。あれこれと考えながら表情が変わるのが、面白い。
それから、子どもは何かを思いついたようだ。
「あのっ、しゅっせばらいでお願いします! おれが大きくなったら、ちゃんとお返しするから」
「出世……? 」
できなくてもちゃんとお返しするから、と懸命に言い連ねてくる
「ええと、今できるのはお歌とか、くだものをしぼるとか……」
子どもは、真面目な顔をして指を折り始めている。そのいじらしい様子に、とうとう耐えかねて笑いながら小さな身体を抱え上げると「わあ」と少年が驚きの声を上げた。
「承知した。お前が一人前になるまで待つとしよう――我が一対殿」
「ふえも。れんしゅうしているから、ちょっとまっててくれる?」
この部屋に来るまでの間は、ずっと澄ました顔をしていたのに。己にだけ見せてくる、年相応のかお。
「ここで練習すれば良いだろう。楽士程とはいかないが、分からぬところは教えてやれる」
気づけばそう返していた。
それから、子どもはまた驚いた風に綺麗な翡翠色の瞳を丸くして――「ありがとう」と小さな声で告げると、花が綻ぶように、笑った。
Fin.
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