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02
「また……流されてしまった……」
どんなに疲れていても、翡翠がいつもの起床時間を寝過ごすことはない。普段どおりに目が覚めると、自室に移動させられていたことに、すぐに気づいた。
紅玉は微妙に律儀なところがあり、翡翠が行為の後に疲れて寝てしまっても、身体を清拭してくれる。今日も気怠さは残るものの、身体はさっぱりとしていて、卸したての寝間着を着せられていた。
少しだけぼうっとしてから、今日やるべき仕事を頭の中で整理していく。一応、翡翠が不利になることをする男ではないので、昨日、あの後が休みだと言っていたのは本当だろう。どちらにしろ、昨日は要の部屋には戻れなかったので問題もないのだが、自室に戻ってからの仕事もある。昨日やる予定だったことを思い返しながら、紅玉に会ったら文句を言おうと翡翠は己の心に誓う。痛む腰を宥めつつ、手早く寝間着から着替えて、翡翠は要の部屋へと向かった。
今の翡翠の主な仕事は、『白の神子』の世話をすること。翡翠たちの知らない世界から来た要に、この世界や、この国のことを教えるのも仕事だ。要から離れている時間には、要の勉強のための資料を集めたり、他の使用人と打ち合わせすることもある。決して表に出るような、華やかな仕事ではない。それでも要の性質が穏やかなのもあって、要の世話を焼くのは楽しい。
「――失礼します」
翡翠が扉を控えめにノックすると、要ではない者の声が応えて、扉が開かれた。白の神子にはこの部屋と、続きの寝室との二部屋が与えられている。部屋の中に要の姿は見当たらなかった。要はまだ、寝ているらしい。
神子に仕える専属の、位も与えられた正式な侍従は、翡翠一人だけだ。だが、神子の部屋を整えたりする使用人は複数いて、こうして白の神子の部屋に、主人以外の人間がいるのはおかしなことではない。
他に使用人がいるのは当たり前のことなのだが、翡翠は部屋の中で銘々に好きなことをしている男たちを見て、うんざりとした。
「翡翠、今日も早いね」
「あれ、真っ白い髪だからおじいさんが来たのかと思った」
クスクスとした笑い声を立てながら、翡翠より背の高い男たちが少年を取り囲んできた。彼らは自邸から通ってきているのだが、ご丁寧に化粧を施し、今日も香水の匂いを漂わせている。
翡翠は内心、この男たちのことが苦手だ。笑顔でお互いを褒めあうことしか言わないかと思えば、時折意地悪い本性をちらつかせてくることもある。そういうのを目の当たりにするたびに、疲弊する。
翡翠は男たちから「可愛くない」と言われる表情のままで、挨拶を返した。大きな反応をしなければ、大抵男たちは鼻で笑い、翡翠を小突いてくるだけで終わることが多い。なるべく、要のために時間を使いたくて、翡翠は心の中に浮かぶ男たちへの文句をすべて噛み殺した。
この城で小間使いと呼ばれている彼らは、侍従として官位を持っている翡翠とは立場が異なる。小間使いは仕える主が限定された、私的な使用人で、大抵、低級貴族か大商人の子息が貴人に仕えることが多い。
この国は王が頂点として権力を持っているが、王の独裁を防ぐためにある程度、王と繋がりのない貴族たちにも役割が振られている。商人たちはそれぞれ、これと思う貴族たちに取り入り、身分の低い貴族たちよりも余程いい暮らしをしていた。
王が私利私欲に走らないこの国は、とても幸せなのだと他の大陸から来る者たちは言う。大きな国になればなるほど、王は代を重ねるごとに政治から離れていき、欲のために貴族や商人たちが政治に乗り出して、国が壊れていくのだと。
翡翠のような、王の名で官位を拝し何の後ろ盾もない庶民出の者たちにとっても、王はたった一本しかない柱だった。この世界で最も高名な神の一柱。その化身と言われる、長命な王。そんな彼の命にも有限があるのだと知らされたのは、翡翠がまだ声変わりをする前のことだった。
「いっそ、髪を染めたらどう? 白の神子の侍従さま」
「あれっ? 侍従さまだったんだー! 僕は白の神子のなり損ないって聞かされていたよ」
翡翠は無言のまま彼らの輪を通り抜けた。飽きもせず毎日同じ話をして、手がすっかりと止まっている彼らに代わって神子の部屋の掃除を始める。本来は小間使いの彼らの仕事なのだが、もうとっくに清掃を終えていなければならないのに、王に愛された神子の寝覚めが遅いことを逆手にとって、彼らはいつも好き勝手をしていた。
最初のうちは翡翠も注意をしていたが、元々庶民出の翡翠が何かを言うことは、彼らの尊厳とやらをいたく傷つけるらしい。官位は翡翠の方が上であっても、彼らの背後にいる親や親戚たちは、この城で寝起きしている他の使用人たちよりも身分が上であることがほとんどだ。その上、翡翠たち庶民出の者たちには馬鹿にした態度を取るのに、身分が高い者へは態度を変えるので、たちが悪い。
翡翠も、与えられた仕事を全うしようともしない彼らを、どうにかできたらとは思っている。しかし、ここで諍いを起こして白の神子の傍から――要の傍にいられなくなるのは、もっと嫌だった。
要の傍で働くことが、翡翠にとっての存在意義になりつつあるからだ。純粋に要の人格の良さといったものの他に、翡翠に押された『できそこない』という烙印を、要の世話に没頭することで忘れることができるからでもあった。
「そういえば翡翠って、白の神子候補ってことでわざわざここに連れてこられたんだろう? やっぱり顔なのかね。そんな奴がホンモノの神子の傍仕えって、なんか怖いよなあ」
嘲笑が、起きた。
そんなに笑っていたら要の目が覚めてしまう。さすがに注意をしようと翡翠が振り向くと、無遠慮に扉が開かれて、長身の男がぬっと姿を現した。
「おい、小間使い共。飯ができたって厨番から伝言だぞ。……なんで俺が伝言役なんだ」
憮然として、けれど紅い瞳がどこか笑いを含んでいる男の精悍な顔を見て、散々お喋りに華を咲かせていた連中が、ぎょっとした顔になる。しかし、それも一瞬のことだった。顔を出した男が紅玉だと気づくと、化粧でのっぺりとしている顔に、先ほどとはまったく種類の違う微笑を浮かべて紅玉を取り囲んだ。
「紅玉さまっ、今日はお早いのですね! 紅玉さまの伝言ならいくらでも聞きたいです。ぜひ毎日、神子の部屋に顔を見せて下さいませ」
わらわらと紅玉の手や服の裾をつかみ、あっという間に部屋から出て行く。ようやく部屋に静けさが戻り、翡翠は息をゆっくりと吐き出すことが出来た。
翡翠自身が忘れようとしている過去のことを、古傷を抉るようにしつこく蒸し返されるのは、翡翠だって辛いし苦しい。その度に、あの時感じた心の痛みが蘇るのを、小間使いの男たちには理解もできないだろうが。
「翡翠。ごめんね、今日も寝坊しちゃって……」
「おはようございます、要さま。まだ寝ていても良かったのに……うるさくありませんでしたか? 申し訳ありません」
嵐が去った気持ちの翡翠は、微笑を返した。まだ廊下から賑やかな声が聞こえてくるのを、要は不思議そうに目を細めて聞いている。こういう時、彼を守らなくては、と翡翠は思う。
「要さま、御髪を梳かしましょう。寝癖がついていては、陛下に笑われます」
「翡翠こそ、また髪がふわふわって跳ねているよ。翡翠の髪の色、こっちでもめずらしい色なんだってね。綺麗だし、格好いい」
微笑んだ要が、翡翠の髪に触れてくる。この城で、触れるほど翡翠に親しく接してくるのは紅玉くらいだったので、翡翠は思わず硬直した。紅玉とは身体の関係があるといっても、人とじゃれ合うことには慣れていないのだ。
「あっ、ごめん……嫌だった?」
「ちが……あの、髪のことなんて褒められたことなかったから、驚いただけなんです。俺は要……さまの髪の方がきれいだと思います」
慌てて返事をしようとして、つい敬称を忘れそうになり、翡翠は余計に慌ててしまう。こちらを見ている要に気づいて、動揺しながら言い直すと、要が可笑しそうに笑った。
「僕のこと、呼び捨てにして欲しい。僕だって、翡翠のこと呼び捨てにしているもの」
「しかし……」
だめだ、と翡翠が言う気配を察知してか、僅かに要の雰囲気が変わったことに気づき、「……陛下がいらっしゃらない時だけですよ」と付け加える。
ここで翡翠が否定したら、彼が更に孤独感を募らせるのではないかと考えたのだ。今は紅玉がいるけれど、小さい頃城に連れて来られてから紅玉に出会うまで、翡翠は孤独だった。神子として勝手に期待され、『外れ』だったことが明らかになった時――人々は翡翠を腫れ物のように扱ったからだ。
ある日突然城に連れて来られるまで、翡翠は小さな村で生活をしていた。親も兄弟もごくごく普通の羊飼いをしており、翡翠もそこで自分の人生を終えると思っていた。そこにやって来た城からの使者が、翡翠の小さいけれど幸せな世界を、壊したのだ。
外れだと分かってからも、翡翠が故郷に戻ることは許されず、度々逃げ出しては庭の隅で泣いていた。そこで偶然紅玉と出会って、ようやく会話できる相手を得られた。しかし、まったく見も知らぬ世界からこの世界に運ばれてしまった要にとって、彼が味わっている孤独感はきっと、あの時の翡翠のものより酷いのだろうと考えている。白の神子の友人になんて、大層なことはもちろん翡翠も考えてはいない――けれど、彼の孤独が少しでも薄まるのなら、と思った。
「あの、翡翠。さっきのことなんだけど……」
「さっき?」
不意に、要が翡翠に何かを聞こうとしてきた。
さっき、というのがどの時のことだったのか分からず、翡翠が問い返そうとしたところで、扉をノックする音が聞こえた。
「白の神子様、お食事をお持ちしました。翡翠様もこちらでお召し上がりになられますわね」
いつもと変わらない笑顔を浮かべて、女中たちが食事を用意し始める。愛想よく話しかけてくる女中に、要が精一杯になっているのを見ながら、翡翠も女中たちの手伝いをする。
要の聞きたかったことが分かったのは、数日後のことだった。
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