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 要が足を止めたのは、先日彼が隠れていたのを、翡翠が見つけた場所だった。普段要や翡翠たちが生活している内廷側にはない、大きな木の根元に二人で腰かける。しばらくお互いに無言のまま、広々とした庭の草木が風に揺れるのを見つめていた。  要は必死に泣いているのを隠そうとしていたが、翡翠が手布を差し出すと、堪えきれなくなったらしい。要に同調したのか、あんなに綺麗に晴れ渡っていた空が、黒い雲に覆い隠されていく。荒ぶる感情を現す強い風が、翡翠たちの髪を時折激しく乱していった。やがて雨が降り出してしまったが、豊かな枝葉を持つ大きな木が雨よけになってくれた。時折、風の向きによって吹き込んできて、少しずつ二人の髪を濡らしていったけれど。 「申し訳ありませんでした。自分がしっかりと、小間使いたちを管理することがてきていれば……。もう、紅玉があの男たちを部屋から連れ出してくれたと思います。一旦、お部屋に――」 「翡翠は悪くない!」   このままでは風邪を引いてしまう。そう思い、部屋に帰るべく翡翠が口を開くと、先ほど小間使いの一人を殴った時同様に、強い口調で要が返してきた。 「……要。どこから、話を?」  また泣きそうになっている要が落ち着くのを見計らって翡翠が問うと、「最初から」と小さく要が返した。王と共に部屋に戻ってきて、扉を開けようとした時に、自分の話をしているのだと気づいて開けるのを止めた。王も中に入ろうとしたのを追い返して、入る時機を伺っていたのだという。 「僕自身のことだけなら、嫌だなって思うくらいで気にしない。けど、翡翠のことを悪く言われたら僕だって怒るよ。……お前は白の神子なんだって言われて、突然この世界に来ちゃって。でもね。この世界のことも、王さまを……琥珀さんのことも、好きになれそうな気になったのは、翡翠のおかげなんだ。翡翠が、僕にあたたかい居場所をつくってくれたから」  ようやく泣き止んだ要が、ぽつぽつと話してくれた。   「翡翠。もし、僕がこの世界に来たことで……翡翠が神子になれなかったのなら……本当にごめんなさい。でも、僕にもどうやって元の世界に帰ればいいのか、本当に分からないんだ。琥珀さんを一人にして行くのも、もうできない気がするし」  それから段々と要の言葉が勢いを失っていくのとは逆に、翡翠にようやく思考力が戻ってきた。翡翠を見上げてきた要に向かって、微笑を浮かべたままゆっくりと首を横に振る。ふと、数日前に要が何かを言いかけたことを翡翠は思い出した。もしかしたら、既にあの時には小間使いたちとの会話を、彼は聞いていたのかもしれない。これ以上、自分の主人に勘違いさせるわけにはいかなかった。 「何から話せばいいのか……でも、これだけは分かってください。俺は、要が来たから"白の神子"になれなかったんじゃない。陛下が特別な存在なのだと、もうお話しましたよね。この世界は、"三対の神獣"が在ることで、秩序が守られているのだと。黒の三頭と、それに対をなす白の三頭。彼らは生まれ変わっても、何度でも出会うそうです。そしてつがうことで、相反するお互いの力が、世界を生かす力へとなるといいます。唯一存命の"黒の獅子"――陛下だけが、”白の獅子”である貴方が来るまでずっと、一人でこの世界を支えていた」  そこまで話してから、翡翠は大木の枝葉の間から垣間見える、黒い空を見上げた。ここからはできるだけ、翡翠自身の感情を省かなくては、話せない。 「神獣は人が持ちえない強大な力を持ち、長い時を生きると言いますが、つがいがいない場合、そうとは限らなくなる――弱っていきます。陛下のご不調が、それに端を発していることを知ったこの国の偉い貴族たちは慌てて、"白の獅子"……白の神子を探し始めた。この国では、ほとんどの人間が黒か茶色い髪と瞳の色だ。俺みたいに生まれつき白い髪に緑の瞳なんてヤツは目立つ。……ほんの少しの希望にでも縋りつきたかったのでしょう。俺の故郷に、俺が帰ってきても追い払うようにってとんでもない金と引き換えに、俺は国に売られました。けれど、神獣を内に秘める者に見かけは関係ない。見かけはあくまで、本質を守るための殻みたいなものなのです」  空から要に視線を戻して、翡翠が話し続けていると、次第に要が驚いた顔になっていった。  小間使いの男たちはふつうの顔、などと言っていたが、要は外見が派手ではないというだけで、中性的な、綺麗な顔立ちをしている。彼の優しい内面が表情によく表れているせいだろう。 「白の獅子かどうかは、陛下にしか分かりません。城に連れて行かれた俺は、その日の内には陛下のところに連れて行かれました。あの時の陛下は、本当に体調が悪そうで……なのに、俺は泣いていたので、たくさんご迷惑をおかけしたと思います」  あの時のことを、翡翠は今でも鮮明に思い出すことができる。たった一人で世界を支えるということがどういうことか、今でも翡翠にはよく分からない。しかし、あの時。彼の本質である黒の獅子の姿が垣間見えてしまうほどに、王は弱っていた。それは、まだ子どもだった翡翠には恐ろしく感じた。  そっと、翡翠の手に温かなものが宿る。要が翡翠の手を握ってくれていた。 「お偉い連中は、俺を縛り付けてでも、俺と陛下が交われば、俺が神子になれるのだと思っていたらしいですけどね。二人きりになって、目が合って……すぐにはっきりと、『違う』と判じられました。部屋の隅でべそべそ泣いていた俺を陛下が頭を撫でてくれて、いつの間にかぐっすり朝まで寝てました」  殊更明るく言ってみたつもりだった。『違う』という王のあの一言が、翡翠を傷つけたことはない。しかしその後に、紅玉に出会うまでのそれ程もない間に、翡翠が晒された失望の眼差しや雑言の数々は、まだ幼かった少年の心を深く抉り、血を流させるには十分だった。  翡翠を城に連れてきた者たちは、一様に翡翠のことを名前ではなく、『なり損ない』と呼んだ。故郷に帰してくれと泣き叫んでも、翡翠はもう、元の家族の子ではなくなったとも言われた。しかし、その様子を見かねたらしい王から、こっそりと『もし神子が見つかったら、話し相手になってほしい』と言われた時から、翡翠はずっと待ち続けていた。自分が仕えるべき主が、翡翠のいる世界に現れるのを。 「だから、要は気にしなくて良いのですよ」 「……ありがとう、翡翠」  たったの、一言。要の感情がこもったその言葉が、翡翠の中に凝っていた澱みを、ゆっくりと昇華させていく。しかし、しっとりと濡れ始めた要の髪を見ながら、翡翠はいい加減切り上げ時だな、と判断した。翡翠自身は健康のつもりだが、見た目からしてか弱そうな要は風邪を引くに違いない。 「要、そろそろ戻りましょう。風邪をひいたら大変です」 「そうだね。あの……ごめん、最後に変な質問をしてもいい? 翡翠は、陛下のことがやっぱり……好き、なんだよね?」  要が沈黙すると、雨の雫が滴る音だけが聞こえた。問われたことの意味が分かりかねて、「え」と翡翠が間抜けた声を返すと、要が顔を真っ赤にした。 「ごっ、ごめん。翡翠が大切な話をしてくれた後に」  その問いは、要にとって大切なことなのではないかと気づいて、翡翠は大慌てで首を左右に振った。 「自分は、国主であられる陛下のことは尊敬しておりますが、それ以上の感情を持つだなんて畏れ多くて。城の人間たちの中にも勘違いしている者がいるようですが、陛下が俺にしたのは、頭ぽんぽんくらいですからね。それに、俺は……」  好いているのは、紅玉。勢いで本音を零しそうになった時、翡翠は己の片手に違和感を覚えた。それに気を取られているうちに、要が何かに気づき、警戒する気配を見せる。要の視線の先を辿って、翡翠も眉根を寄せた。 「こんなところにお隠れでしたか、神子様」  綺麗な、いかにも王宮仕えといった服を纏った三人の男。神子の部屋付きの小間使いたちが、猫なで声をだしながらも、追い詰められた顔で近づいてきた。それもそうだろう。王が迎え入れた、伴侶も同然の神子を侮ったのを、本人に聞かれたのだから。 「要、逃げてください!」  彼らが、兵士以外が持つことを許されていない剣を携えているのを認めて、翡翠は急いで要を立たせた。さすがに白の神子を直接傷付けるほど、馬鹿ではないと思いたい。しかし、万が一のことがあったら、翡翠一人の命では贖えないことになる。 「翡翠も一緒に逃げなきゃ!」  何とか立たせても、なかなか走り出さない要を庇いながら、翡翠は必死に男たちを睨み上げた。 「二人で逃げても、逃げ切るのは無理です。内廷の人間に助けを求めてください! お願いです。自分も、隙を見て逃げますから」  小声で、しかし強い口調で要に翡翠が告げると、ようやく頷く気配がした。走り出す神子を男たちが追うことはなく、翡翠は大きな木を背にして取り囲まれることになった。
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