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07
紅玉によって内廷に運ばれた翡翠がまっすぐに連れて行かれたのは、浴室だった。内廷には使用人たちが共同で使う浴場もあるのに、わざわざ紅玉の私室に備え付けられた浴室へと連れ込まれる。個人用にしては広々としている浴槽の中に単衣姿で押し込まれた翡翠だったが、わざわざ温かいお湯が用意されていて、驚いた。急いで誰かに用意してもらったのだろうか。
「要は無事なんだよね、……紅玉」
いつになったら、怒りが収まるのだろうか。不安になりながらも翡翠が男の名を呼ぶと、紅玉は無言のまま自身の服も脱ぎ、翡翠が押し込まれた浴槽の中に入ってくる。二人になったことで水かさが増し、大量に湯が流れていったが、紅玉はそれを気にすることもしない。
無言のまま紅玉は翡翠を浴槽の中で抱き寄せると、深く口づけてきた。単衣の襟元がはだけてしまい、裸の時よりも余計な羞恥心がある。紅玉がようやく温まってきた翡翠の鎖骨のあたりに唇で触れると、翡翠は堪え切れず身体を震わせた。
「紅玉……お、怒らないで」
「――どうして、逃げなかった? 何故助けを呼ばなかったんだ」
翡翠が弱々しい声で話しかけると、紅玉はやっと翡翠の身体をいじめるのをやめた。開口一番に、要を巻き込んでしまったことを責められると思っていた翡翠は、問われたことの意味が分からなくて目を瞬かせた。
「どうしてって……要を逃がすので精いっぱいだったんだ。二人で逃げるより、要を逃がした方が、要は安全だと考えた。連中は俺を痛めつけるのが目的だったみたいだし――ぁあッ!」
まだ話している途中なのに、首筋を少し強めに噛まれて、翡翠は声を上げた。まるで、翡翠の答えが不正解とでも言いたげである。翡翠が涙目で紅玉を見やると、紅玉は目を細めて再び翡翠の唇を奪った。舌で散々口腔内を蹂躙され、のぼせてもきたのか頭がぼうっとしてくる。
「……白の神子を逃がしてから、連中には何をされた?」
「た、大したことは、されてない。……紅玉が、すぐ来てくれたから」
口調は苛々としているのに、口づけは普段どおりの、優しいものに変わってきた。その心地よさも相まって、翡翠の目蓋が段々と重くなっていく。
「かなめ、は……」
「無事に決まっている。あれはあいつに任せておけばいいんだ。そんなことより、翡翠は自分のことを心配しろ」
ようやく紅玉が要のことを教えてくれたが、呆れたと言わんばかりだ。翡翠はどんな表情をすれば良いのか、分からなくなる。翡翠自身のことより、要の方が大事なことは紅玉だって当然分かっているし、紅玉も大切に思っているはずだ。それなのに、紅玉は時折分からないことを言う――そう思いながら、翡翠は目を閉じた。
***
紅玉の部屋で少し休んだ翡翠は、このまま寝ていろと紅玉に言われたのを頼み込み、神子の部屋へと急いでいた。怪我がないことは既に紅玉から知らされていても、この目で無事を確認したかったのだ。
「琥珀。翡翠を連れてきた」
翡翠の後ろからついてきた紅玉が、扉の前まで来て躊躇した翡翠に代わり、無遠慮に扉を開く。寝室まで進むと、いつもなら要が座っている、彼のお気に入りの場所には、腕を組んだまま座る王がいた。
紅玉と同じ黒髪だけれど、短く適当にしている紅玉とは違って、綺麗に整え結われている長い髪。琥珀色の瞳がこちらを見てくるのと、翡翠が眠っている要に気づいたのは、ほぼ同時だった。
「……っ」
「要が寝ている。今は、静かに」
あまり笑うのを見たことがない王が、苦笑を浮かべている。元気な姿でいるとばかりに思っていた要の寝姿に翡翠が動揺したのを見て、王は「落ち着きなさい」と続けた。
「興奮が強かったので、医師が落ち着かせる薬を飲ませた。今はその影響で眠っているだけだ。私はそろそろ戻らなければならない。翡翠は要が起きるまで、傍にいてやってくれ」
「……はい」
翡翠が小さく頷き返すと、王も頷いて「紅玉、行くぞ」と声をかけた。翡翠の後ろにいる男が「仕方ない」とぼやき、翡翠の髪をかき回していった。
寝室に要と二人だけになり、まだ起きる気配がない様子を見ながら、翡翠はいつ主が目を覚ましても良いようにとお茶や着替えの支度を始めた。それもすぐに準備し終えて、椅子に戻ってくるとぐっすりと眠る主の寝姿を見つめる。
(ご無事で、良かった)
紅玉に浴槽の中で言われた言葉を思い返す。もっと、良い方法があったはずだ。そもそも、以前要があの場所に隠れてしまった時に、外朝側に護衛をつけずに出てはならないと注意しておけば良かった。
(……紅玉、駆け付けてくれるのすごく早かったな)
もしかしたら、あの時には既に神子の捜索が始まっていたのかもしれない。だから、偶然紅玉があの場所の近くまで来ていたことも考えられる。こんな時にとは思うが、紅玉が駆け付けてくれたのを見た時は――嬉しかった。翡翠が小さく照れ笑いをした、その時。
「……痛い!」
それは、突然だった。左手に走った痛みに、翡翠は思わず声を出してしまった。慌てて要を見やり、それでも起きる気配がないのを確認してひと息つく。少し寝台から離れ、窓際に場所を変えてから己の左手を見て、翡翠は息を呑んだ。これは確かに翡翠の手なのに、甲から手首にかけて、墨か何かを塗りこめたのかと思うほどに、黒い痣が広がっていたのだ。
「こ、これは……、なに?」
必死に指で擦っても、痣は消えるどころか薄くなる気配すら微塵もない。指では足りず、手布で強くこすり始めたが、とうとう翡翠の肌の方が負けて血が滲んでしまった。ふと、要の右手にある白い獅子の証が遠目に映った。
(ど、どうしよう……この痣は、もしかして俺が自分のことしか考えていないから……紅玉に愛されている要が羨ましいなんて醜いことを考えたから、その罰なのか……?)
城に連れて来られる前まで住んでいた故郷の村で、幼い頃子守唄代わりに聞いた、自分の心の醜さに身体を喰われたという男の昔話を思い出した。その男は、今の翡翠と同じように身体のあちらこちらに心の醜さから染み出た黒い痣が現れ、黒い痣はやがて男の身体そのものを喰らいつくしてしまったのだと言う。要の部屋にいた、あの小間使いたちの言葉が、脳裏によみがえってくる。
(……隠さなきゃ……)
要が目を覚ます前に。そして、紅玉たちが戻ってくる前に。翡翠は慌てて手布を裂き、包帯を巻く要領で黒い痣を隠した。翡翠の醜い心をそのまま表したこの痣を、誰にも見られるわけにはいかなかった。怖かったのだ。
「翡翠、入るぞ」
先ほど、王と一緒に部屋を出て行ってそれほども経っていないのに、紅玉の声がして翡翠は肩を震わせた。一番、見られたくない相手が来てしまった。ばれませんようにと、ただそれだけを祈る。
「石英が交代するそうだ。……顔色が悪いな。早く部屋に戻った方が良い」
後ろにいる侍従長の石英が見ている中、眉根を寄せた紅玉が、さっさと翡翠を抱き上げようとした。翡翠が隠している痣がばれたら、紅玉はもう、こんな風に親しく接してくれることもなくなるのだろうか。軽蔑、されてしまうのだろうか。醜い心を隠したまま、消えなければ。そんな考えが、翡翠の中に浮かんだ。
「俺はもう大丈夫。一人で戻れるから。侍従長にも、ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありません」
「翡翠?」
石英が「気にしなくて良い」と返すのと、紅玉が怪訝そうに問いかけてくるのが被った。長い袖から左の手が零れないように気を付けながら、翡翠が身体を捩らせて紅玉の腕から逃れる。
「ごめんなさい……」
醜い心で、貴方達の傍にいて本当にごめんなさい。一度暗い思考に囚われると、ここまで落ちていくものなのだと、翡翠はこの時初めて知るのだった。
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