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「……ああ、おいしかった!」  ミツユキさんはナプキンで上品に口元を拭うと、ナプキンよりも白い大粒の歯を見せて笑った。 「よかった。気に入っていただけました?」  あたしも精いっぱい上品な笑顔で応じる。  翌日の昼、会社のロビーでミツヒコさんと待ち合わせ、忘れていった定期入れを受け取ると、とっておきのイタリアンに連れて行った。丸の内のビル街を眼下に収める窓際の席を、朝一番で予約しておいたのだ。 「最高でしたよ。それに眺めもいい。毎日通ってる街だけど、こうして見ると東京も悪くないですよね」  ミツユキさんは眩しそうに外を眺めて、ウエイトレスが運んで来た食後のコーヒーをゆっくり味わっている。  会社のロビーで改めて交わした彼の名刺には、専務という肩書が記されていた。まだ二十代で専務。だが驚くようなことではない。後で知ったことだが、これには裏があった。  美奈子の父親は丸の内にオフィスを構える商社のオーナー社長。その娘と結婚したおかげで、冴えないメーカーの平社員から転職し、一気に義父の会社の重役になったのだ。  ひとえに妻の七光り。いや、義父の七光りだった。  しかも肩書は専務でも、実質的にはほとんど仕事なんかないお飾り。見栄えがいい以外さしたる取り柄を持ってないから、せいぜいゴルフや宴会の接待要員に駆り出されるくらいなのだ。そのため、昼食を終えても彼には特別重要な予定などなく、もう午後一時を過ぎたのにのんびりコーヒーを味わっていられるというわけだ。一方あたしも実はその日有休を取っていたから、お昼の後、オフィスに戻る必要はなかった。  いや、ないように体を空けておいたのだ。 「いい天気ですね。土曜日のゲリラ豪雨とは打って変わって」  ミツユキさんが言うように、夏の空は抜けるように青くて、太陽は残酷なほど輝いていた。 「一昨日は本当に失礼しました」あたしは俯いて、殊勝な声で嘘をつく。「あんなに酔ってしまうなんて、初めてで」  ミツユキさんの視線が、慌てたように窓外の風景から移って来るのが、見なくてもわかる。 「いやいや、あなたを恐縮させるために天気のことを言ったんじゃないんですよ。単純に、ほんといい天気だなって」 「そうですね、ほんとにいいお天気」あたしはまだ彼の視線を受け止めず、気を引くように鎌をかける。男と女の視線のゲーム。「会社にいるなんてもったいないぐらい」  少しの沈黙。彼がスプーンでコーヒーをかき回す。  そして、彼が言う。 「一昨日……」  あたしはまだ自分の手元を見ている。 「ぼくもすごく楽しかった。あんな風に一緒にはしゃいでくれる女性は素敵ですよ」 「そんな……」 「美奈子は冷静なタイプだから、決して酔ったりはしません。少なくとも、ぼくの前ではね」  あたしはゆっくり顔を上げ、こちらにまっすぐ向かっているミツユキさんの視線に自分の視線を絡ませた。  三十分後、あたしたちは、視線だけでなく、さまざまなものを絡ませ合うことになる。手とか、脚とか、舌とか。  あたしにはそれがわかっていた。  事実、レストランを出ると、そのままタクシーに乗って、二人は夏の午後の東京に消えたのだ。  それからあたしたちは、三年間を待った。  その間に、美奈子は父親に田園調布の豪邸を買ってもらった。もちろん、名義は自分だ。その他、絵画や宝石など、いろんなものを手に入れた。彼女の資産が肥え太るのを、あたしたちは飼育する家畜が肥え太るのを待つように、待った。  もちろん、ミツユキの相続分を増やすために。  いくら彼があたし好みのイケメンでも、元の冴えない平社員に戻ってしまうなら、美奈子の後釜に座る意味がない。  だから、ミツユキに相続権のある資産が十分に出来てから、美奈子に去ってもらわねばならないのだ。  去るって、どこから?  もちろん。この世から。  そうして、二人が出会って三年目の夏、機は熟した。  この夏ミツユキは、ヨットを買うだろう。いや、もちろん、美奈子を通じて義父に買わせるのだけど。  そして、美奈子はそのヨットの甲板から海に落ちるだろう。  その時乗り合わせているのは、夫であるミツユキ一人だろう。  彼は妻を助けるために、あらゆる手立てを講じたが、いずれも失敗に終わり、彼女は太平洋の藻屑と消えた、と語るだろう。  しかし美奈子が海に落ちれば、ゆっくりシャンパンを開け、一人静かに祝杯を挙げるだけで、浮き輪ひとつ投げてはやらないだろう。  やがて、ミツユキの心の傷が癒えたと誰もが納得する頃に、あたしたちは婚約するだろう。  それでも彼は、最初の妻の法事にはきちんと出席するだろう。  彼の新しいフィアンセとして、また美奈子の旧友として、あたしも同行するだろう。  そして既に同棲している家に帰ると、あたしは美奈子の写真を掲げ、ミツユキの構えるスマホに向かって、誇らしげにVサインをするだろう。  その左手の薬指には、彼から贈られたダイヤモンドのエンゲージ・リングが、燦然と輝いていることだろう。  え? どうしてそんなに確信が持てるのかって?  その間にミツユキが心変わりするかも知れないって?  まだ新婚の時に、妻の学友と浮気した男じゃないかって?  ふふふ、そんなこと絶対にないのを、あたしは知っている。  その証拠は、あたしが違和感を覚えた、あのスマホの写真。黒の服を着て、真珠のネックレスをして、左手の薬指に指輪をして、笑っていたあたしの写真。  黒のフォーマルは、結婚式とは限らない、法事にも着るものだ。  だとすれば、美奈子の写真を掲げていたわけは、彼女がもう故人になっていたからではないか。  そして、左手の薬指に煌めくといえば、婚約指輪以外に考えられない。  あたしもまあ、いろんな男とつきあったけど、でも、婚約指輪をもらったことはない。だからあの写真を見た時、あんなに違和感を感じたのだ。それまでずっと空いていた左手の薬指が、初めてふさがっていたから。  そう考えていけば、写真の意味は明らかだ。美奈子に感謝するように彼女の写真を持って、喪服を着て、婚約しているあたし。それなら、指輪の贈り主は決まっている。  写真が写すのは普通、過去だけど、あの写真だけは、違ったのだ。なんとあれは、未来を写していたのだ。  あたしがミツユキとランチの約束をするのを平然と聞き流していた美奈子への怒りと嫉妬、そしてミツユキへの欲情と、前夜の醜態に対する羞恥心。そうした複雑な感情のほとばしりが時空を歪めたのか、あたしなんかには理由も原因もわかりっこないし、別に知りたいとも思わないけど、とにかく、あの時、スマホはあたしに未来を見せてくれたのだった。  だから、丸の内でランチをした時、あたしは二人がその後どうなるかが初めからわかっていた。彼を大胆に誘惑できたのもそのためだ、  そうしてミツユキとあたしは、いまもベッドに横たわって、これから買うことになるヨットのカタログを幸福に眺めている。  ホテルの窓には真夏の青空が広がり、ゲリラ豪雨を予感させる黒い雲が、ビル群の向こうからわらわらと立ち上がっていた。                               (了)
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