肆 春・淡雪 一

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 じいさんの元気がないのと同様に、ユキも目に見えて元気がなかった。最初の頃は「全然平気だし? 元気だし?」と大丈夫ではない状態を披露していたが、今は「日々がつまらない」と言い出しそうなくらい大丈夫ではない状態になってしまっている。つまりずっと大丈夫ではないのだ。  窓辺に歩み寄ると、ユキは俺の気配に気が付いて顔を上げた。部屋の中に見える机の上には様々な大きさや厚さの本が積まれている。今日買いに行った、お姉さんが高校で使うという教科書だろうか。 「時雨、あんた夕さんのこと最近見た?」 「あの日以来見てねえよ。何回訊くんだその質問」 「あーあ……。もう諦めるしかないのかなあ」  くりくりしたかわいい目を伏せて、ユキは首を振る。いつも通りに窓から顔を出したこいつを、いつも通りに眺めているだけでいいのだろうか。  俺はひどく不器用な男である。先程じいさんを前にした時もそうだった。相手の気持ちを分かろうとするのは難しい。慰めるのも難しい。しかし、それでも、自分の思っていることはある程度分かっているつもりだ。  雪解けの水が屋根から壁を伝って流れている。ぽたぽたと落ちて行く雫を眺めているうちに、俺は自分の内側が熱くなってきているように感じていた。  じいさんの裏庭に住み始めたばかりの頃、声をかけて来た隣家の娘に俺は心を撃たれてしまった。すぐに彼女の視線の先に黒ずくめを見付けて、自分の気持ちに蓋をした。そもそも、俺とユキは全然違う。だから釣り合うはずなんてないのに。それでも、かわいい、愛おしい、という感情がふつふつと湧き上がってくる。  窓枠を越えて、そっと抱きしめてやろうか。  待て、時雨。何を考えているんだ。なんて大胆なことをしようというのだ俺は。  衝動に身を任せるな、と自分に言い聞かせる。しかし、ユキが小さく震えたのを見た次の瞬間、体が勝手に動いていた。 「えっ、ちょっ、えぇっ?」  ユキの体が強張るのが分かった。しかし、拒絶の意思は感じられない。俺はユキを抱きしめる。 「ユキ、俺じゃダメか」 「何よいきなり……。無理よ、だって、立場が違い過ぎる……。夕さんもあんたも、結局は二人とも――」 「ユキー、ごはんー」  お姉さんの声が聞こえて、ユキは口を閉じた。俺はユキから飛び退く。 「え、えと、ごめん、いきなりこんな……」  ユキはふるふると首を振った。 「ユキー、ごはんだよー」  お姉さんが部屋に入ってきた。にこにこと笑顔をユキに向けていたが、俺を見つけるとその顔が少し怪訝そうに歪む。夕さんのように追い払われてしまうだろうか。抱きしめた時のユキのように、自分の体が強張っていた。 「あなた、おじいちゃんのとこによく来てる子でしょ」 「お、お姉さん、違うんだ何もやましいことはない。俺は何もしていない」  お姉さんは窓枠に手を乗せた。しかし、俺を追い払うことはしなかった。このまま窓辺にいても構わないということだろうか。 「あなたはいいの、あいつとは違うし。それにほら、あなたってさ……。まあ、ユキに変なことしたら許さないけどね」 「分かってる」 「……よく見ると結構かっこいいんだね」 「どうも」 「ユキ、おいで」  お姉さんが部屋を出ていく。ユキもそれに続く。部屋を出る直前に少しだけ俺の方を振り向いたが、恥ずかしそうに顔を伏せてさっさと出ていってしまった。
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