31人が本棚に入れています
本棚に追加
伍 春・淡雪 二
雪が溶け、俺達の暮らす星影市にも遅い桜の季節がやってきた。
そんな大型連休のある日。
「トマトはこの辺りでいいかな」
「いいんじゃないか?」
軍手を履き、小さなスコップを手にしたじいさんの質問に俺は答える。同じようなやりとりをこの十数分の間に数回繰り返している。何種類植えるつもりなのだろう。
種蒔きをしているじいさんを見守っていると、車のエンジン音が近付いて来た。その音に、気が付くと自分の体が震えていた。エンジンの音、タイヤの音、クラクションの音。車の音を聞くと恐怖を覚えてしまうのだ。跳ねられた時の衝撃が体に蘇ってくるようだった。心の中では克服をしたつもりだが、体はまだあの痛みを忘れていない。
札幌ナンバーの普通自動車が家の前に停まった。たくさん荷物が積めそうな、四角い形をしたメタリックグリーンの車である。正月にもこの車がここに来たのを覚えている。
ドアが開くと、壮年の男が降りて来た。
「晴彦か」
じいさんが顔を上げる。
じいさんの息子さんである晴彦さん。札幌で先生をしているらしいが、詳しいことは俺は知らない。奥さんがいて、娘さんと息子さんが一人ずつ。姉の方はおとなしめのいい子で好感が持てる。ところが弟の方は俺のことを追い駆け回してきたので正直苦手だ。悲しいホームレスのことを眩しい笑顔で追わないでくれ。
「どうしたんだい、今日は一人かい」
「親父、決めてくれたか?」
「だからその話はなかったことにしただろう」
顔を顰めて、じいさんは作業に戻る。
「なんでだよ、そのほうが絶対いいって。こんな田舎で孤独死したくないだろ? な、一緒に札幌で暮らそう。毎日孫の笑顔も見られるぞ」
正月に来た時もこの話をしていた。
じいさんは一人暮らしである。窓の外から家の中を眺めていると、仏間があることが確認できる。いつから一人なのかは知らないし、訊くつもりもない。晴彦さんを含めて三人の子供がいるが、三人とも独立して久しい。ご近所との関係は良好で交流もあるが、行き付く先は孤独な最期なのではと晴彦さんは心配しているのだ。
しかし、自分の生まれた地であり、育った地であり、愛する人と出会った地であり、子供達と暮らした地である星影を離れるつもりはないとじいさんは誘いを一蹴りした。
また来たということは、諦めるつもりはないのだろう。晴彦さんはじいさんの背中に向かって声をかけ続けている。
「なあ親父」
「儂はここから離れんよ。ここに骨を埋める覚悟で暮らしているからな。ここで、花や野菜の世話をし、やって来る鳥や動物を眺めるのが、儂の生きがいなんだ。……今日はもう帰れ」
静かな喋り方だったが、底知れぬ威圧感が漂っていた。いつも穏やかな分、こういう時はより怖く感じる。
じいさんは一つ奥の花壇へと移動して作業の続きを始めた。
「分からず屋! 馬鹿親父!」
晴彦さんの罵声が聞こえているのかいないのか、じいさんはさっきにも増して黙々と野菜の種を蒔いている。
「ったく、わざわざ答え聞きに来たのによ……。ん?」
傍らで話を聞いていた俺の存在に気が付いた晴彦さんは、見下すように俺を見た。
「なんだ、お前まだいたのかこんなところに。こんなじじいのところじゃなくて、お前にはもっといい住処があるだろうに、物好きな奴だな」
「いい住処があればここにはいない」
「親父、もし考えが変わったらいつでも言ってくれよ。迎えに来るからさ」
じいさんは答えない。晴彦さんは晴彦さんなりにじいさんを思ってのことなのだ。しかしじいさんはじいさんでここを気に入っている。親子関係という物は難しいな。俺は父と言い合いになることなどほとんどなかったため、少し羨ましく思ってしまうのだが。
無言を貫くじいさんに深い溜息をついて、晴彦さんは車に乗り込む。
「じゃあな親父、またみんなで来るから」
鍵が差し込まれ、鳴り始めた車のエンジン音に体が震えた。そこに車があることも、人が乗ったことも、鍵が刺さったことも分かっている。それでも耐えることはできなかった。
もう一度「じゃあな」と言ってから、晴彦さんはアクセルを踏んだ。ブナの緑に混ざりながらメタリックグリーンの箱が遠ざかっていく。
最初のコメントを投稿しよう!