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俺から口を離すと、ユキは叫び声を上げて部屋を回り出した。
しばらくして、ようやく窓辺に戻ってくるとそっと俺に寄り添う。小さくて、柔らかくて、温かい。
「ユキ。俺はおまえのことが好きで、おまえもそうなんだと思う」
「うん」
「でも、俺達が辿り着けるのはここまでだ。これ以上は進めない」
「分かってる」
「それに、おまえは何だって好きになる。そうだろ?」
小さな体が身じろぎをした。
「そ、そうかもしれないけど、一番は時雨よ。たぶん」
「たぶん」
「努力します」
寄り添っているととても幸せな気分になってくるが、ユキが執拗に口を重ねて来ようとするので一旦距離を置いた。名残惜しそうにこちらに口を向けてくるので、もう一歩下がる。
「おまえの気持ちを知れてよかった。じゃあ、ほら、じいさんがもしも札幌へ行ったら、俺はおまえのところの世話になる」
「ナチュラルに依存生活続けるって言ってるの分かってる? ダメ男のままじゃないの。傍にいてくれるのは、嬉しいけど……」
「そこは俺も努力する」
「……札幌かぁ。ね、ね、少し憧れない?」
ユキはきらきらと目を輝かせた。大きな目にたくさんの光が満ちていて、言葉の中に大いに期待が膨れ上がっていることが見て取れる。
晴彦さんの住んでいる札幌市。北海道で一番人間がいる街だという程度の知識しか俺にはなかった。高いビルや大きな会社があるとかないとか、じいさんの見ているテレビでちらりと情報を入れることしかできないからである。星影で暮らすのならば、星影のことさえ分かっていれば十分だ。
「俺は別に」
「そっかあ。あたし、夕さんに都会の話何回か聞いたことあるんだけど、都会ってすごいのよ。旭川とか、函館とか」
「……夕さんに?」
俺が訊ねると、ユキは虚を突かれたように目を丸くした。
「あれ? 聞いてないの? 夕さんって、もともと都会の人なのよ。昔は別の名前だったらしいけど」
それを聞いて、俺の頭に蘇ったのはテレビのニュースだった。都市部で相次ぐ、カラスのゴミ漁り。あの時は都会暮らしは大変そうだなという感想しか抱かなかったが、知り合いが都会で暮らしていたことがあると聞けばまた別の感想が出てくる。穏やかで紳士的な夕さんも、あの修羅場を潜って生きていたということだろうか。意外とワイルドな一面もあるのかもしれないな。
カラスを追い駆け回していたおじさんの姿が頭の中で回った。
「都会行ってみたいなあ」
「行けばいいだろ」
行きたいなら行けばいい。思わず出てしまった言葉に、ユキは膨れた。まずい、と自分の発言の配慮の無さに気が付いたが時すでに遅し。
ユキは行けない。都会には。
「無理。無理よ。あたしはここから離れられないもの。知ってるでしょ」
「すまない」
「この家であたしは生きなければいけないの。その点あんたは自由じゃない。なのに、ずっとおじいちゃんのお世話になって、外を知らない。おじいちゃんがいなくなればあたしの家に来るって言う。まるでカゴの中の小鳥」
「俺はカゴになんか入ってない」
「ものの例えでしょ、バカね」
会話はそこで途切れてしまった。普段は気にしない素振りをしているが、家から離れることができないという自分の状態を実は気にしているのだ。傷付けただろうか。
若干怒っているようにも見えたが、ユキは窓辺に佇む俺を追い払うことはせず、目を閉じてかわいらしいメロディーを口ずさみ始めた。俺はユキの歌が好きだ。
そのあとしばらく、俺はユキの歌声に耳を傾けていた。風に乗って流れていく彼女の声が、まるで塔に閉じ込められた悲しい姫君の歌にも聞こえたのはおそらく気のせいではないだろう。
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