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漆 夏・夕立 一
「こんにちは、時雨さんですね」
初夏、見知らぬ男に突然声をかけられた。
大きな瞳に、小さな体。どこかあざとい動作。美少女のような見かけだったが、発せられたのは明らかに男の声だった。と言っても、声変わりしたかどうかが怪しい、まだ「男の子」の声だ。「少年」にすらなっていないような声の男は、俺を見るなり近寄ってきたのだ。
短い夏を思い切り元気よく過ごそうと、ブナを始めとした植物達が枝や葉を大きく広げる中。小さな訪問者は俺の反応を待っている。木漏れ日が落ちて男の子の姿にまだら模様の影を作っていた。
幼気な男の子が俺のような不審なホームレスに話しかけるなど、そんなことはしない方がいい。周りから白い目で見られるのは俺の方なんだぞ。
俺が黙っていると、男の子はうんうんと頷いて口を開いた。
「僕は白露という者です。以前から時雨さんのことは存じ上げています」
俺のことを把握しているようだ。それどころか、白露が俺に向けているのは羨望にも似た眼差しだった。
「ぼ、ぼぼ僕の友達になってくださいっ!」
白露はあどけないような、情けないような、頼りないような、無邪気そうな、何だか複雑だけれど柔和そうな笑みを浮かべながらそう言った。
いきなり何を言い出すんだこいつは。
「ぜひ、ぜひぜひ時雨さんの力を貸していただきたく! そのお力を!」
強大な力を持つ超自然的な存在に対して祈りを捧げるかのように、白露は平伏した。その勢いに俺は思わず後退ってしまう。
「力って……俺は別に超能力者とかそういう類の者じゃないぞ」
「僕は見ての通り体も小さく、体力もないんです。このままじゃ生きていけません。ずっと、時雨さんが隣にいてくれたらと思っていたんですよ。一度でいいんです、力を貸してください」
俺の話を聞いているのだろうか。
「俺は一人暮らしの老人の脛を齧って生きてるホームレスだぞ。何を期待しているのか知らないけど、お前の望んでるような力なんてないよ」
白露はむすうっと膨れながら地団駄を踏んだ。ユキでもこんなかわいい怒り方はしない。
「だって、この辺には僕と時雨さんぐらいしかいないじゃないですか。というか、時雨さんみたいな人がおじいさんに依存してちゃダメでしょう」
俺みたいな人、か。確かにこの男の子と比べると俺は体も大きいし、膂力はあるだろう。けれど、俺だからこそ保護されるべきというようにも感じる。いや、依存は保護とは違う。違うんだ、おそらく。
「じいさんを頼りにしてるやつは他にもいるんだよ」
今のは自分を正当化しようとして出た言葉なのかもしれない。白露は不服そうに俺を見上げている。
「おまえが言う『俺の力を借りたい』っていうのも依存なんじゃないの」
「協力、です。僕が時雨さんの力を借りたいのは、協力したいからです。僕とあなたは同じでしょう?」
同じ。
……そうだな。俺とおまえは同じだ。
だからこんなにも、俺はこの男の子のことが気になっているのだ。この子の存在に気が付いてから、ずっと気になっていて仕方がない。
白露は俺の返答を待っているのか、黙って俺のことを見上げていた。まだまだ幼さの残る顔は、それでも真剣さを大いに滲ませていた。この子は本気なのだ。
答えあぐねていると、ぽつりと落ちて来た雫が俺の鼻先を濡らした。そして、大粒の雫が白露の顔面に直撃する。
「うびゃあっ」
「雨か……」
空一杯にもくもくと雲が広がっていた。ぼんやりと雲の流れを見ていると、次第に雨が激しくなってきた。
「うう、夕立ですね。……仕方ない、今日はひとまず引き揚げます」
どんどん落ちてくる雨粒が白露の体を埋め尽くさんとしていた。もう濡れていない部分を探す方が難しい。体を震わせて水滴を弾いてから、白露は踵を返した。
「また来ます」
小さな体が土砂降りの中に消えていく。
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