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壱 冬・時雨 一
車に撥ねられた。
最初は何が起こったのか分からなかった。
茂みを抜けたところでライトに照らされ、その直後、体にものすごい衝撃を受けたのだ。俺の体はいとも簡単に弾き飛ばされて、宙に舞ってから地面に叩き付けられた。アスファルトに寝転がりながら去っていく車の走行音を聞いた時、そこでようやく自分が車に撥ねられたのだということに気が付いた。
ああ、畜生、なんでこんなことに。
体の節々に痛みを覚える俺の頭に浮かんでいる景色は、もしかすると走馬灯というものなのかもしれない。両親のことが浮かんでは消え、浮かんでは消えてを繰り返していた。
母は俺が幼い頃に病に倒れ、男手ひとつでここまで育ててくれた父も、先日出先で不慮の事故に遭い命を落とした。父の亡骸を見て抱いた恐怖と悲哀を忘れられないまま家に帰った俺は、見知らぬ家族に家を占拠されているのを目撃して更に絶望した。「ここは俺の家です」と訴えても、長く留守にしていたそちらが悪いのだと一蹴りされてしまった。俺のことを嘲笑しながらクルミを齧っていた姿は今思い出しても非常に腹立たしい。そして、頼れる親戚もいなかった俺はホームレスと化した。
世の中は非常に理不尽である。
父の遺した僅かな財産も底をつき、途方に暮れた俺はつい先ほど出来心から空巣に入った。しかし、食糧などを物色しているところに家主が帰ってきてしまったのだ。立派な足を踏み鳴らしながら憤怒の形相を浮かべる家主に追い駆け回され、命からがら逃げ出した。
空巣絶対に許さん、殺す。などと言っていた家主から逃げることには成功したものの、逃げた先で車に撥ねられてしまった。
体が思うように動かない。体中が痛くてどこを負傷したのかよく分からない状態だ。安静にしていた方がいいのかもしれないが、このままここに落ちていると別の車に轢かれるだろう。轢かれたら終わりだ。ぺしゃんこにはなりたくない。
降りしきる冷たい雨に打たれながら、どうにか移動しようとばたばたもがく。すると右腕から不快な音がして、それと同時に鋭い痛みが走った。今のはさすがにヤバイ。目を遣ると、俺の右腕は変な方向に曲がったまま動かなくなっていた。
もはや笑えてきた。冬の始まりを告げる雨の中、車道に横たわりながら自嘲気味に口を歪める今の俺の姿は、傍から見るとどれだけ滑稽なのだろう。空巣なんてことをやったのがよくなかったのだろうか。それとも、逃げ出したからだろうか。それとも、よく見もせずに道路に飛び出したからだろうか。それとも、それとも……。
色々考えているうちに、意識が朦朧としてきた。
「きみ、大丈夫かい」
え?
雨が止んだ。いや、違う。誰かが、俺に傘を差し出しているんだ。
「怪我をしているのかい」
老人だった。短い白髪に、それと同じ色の髭。丸眼鏡の奥に見える目が、やさしく笑った。
「かわいそうに」
何か答えようと思ったけれど、俺の口から出たのは「うぅ……」という小さな呻き声だけだった。そこで俺の意識は途切れた。
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