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弐 冬・時雨 二
老人が近くの病院に運んでくれたおかげで、俺は一命を取り留めた、らしい。断言できないのは、一連の経緯は医師に知らされたことだからである。俺自身が見たわけではないので真実とは言い切れない。ただ、医師が嘘をついても特に利益はないと思われるため事実なのだろう。俺のことを病院に託すと老人はすぐに去って行ったそうだ。俺が目を覚ました時、老人の姿はそこにはなかった。
そうして、病院で数週間が過ぎた。
動けないくらい痛い。と泣き出しそうなレベルで苦しんでいた俺だったが、自分が感じていたよりも傷は浅かったようである。雪がちらつき始める頃には自由に動けるようになっていた。
しかし右腕だけは別である。動かすことはできたが、動作には痛みが伴った。おかしく捻じ曲がっていたのが元通りになっただけ幸いだろうか。そんな右腕を庇いながら、病室をうろつく。
さて、困ったことになった。
俺は金を持っていない。この病院に対して、誰が俺の治療費及び入院費を払うのだろう。運んでくれた老人だろうか。いや、彼ではないだろう。彼は俺を病院まで運んだだけだ。それでは、俺のことを撥ねた車の運転手だろうか。しかし、どこの誰だか分からない。轢き逃げなのだ。
悶々としていると、病室に医師が入ってきた。
「やあ、こんにちは。体の調子はどうだい」
片手を挙げ、医師は笑顔で挨拶する。
「……どうも」
「うんうん、元気そうだね」
俺の右腕を掴み、優しく動かす。痛みに思わず悲鳴を上げると、医師は「ごめんごめん」と言って笑った。
軽い印象を受ける若い医師だが、腕は確かなようだった。他の入院患者の話によると、この地域では彼が随分と重宝されているとのことである。
俺の体の状態を確認し終えると、医師は小さく頷いた。
「動きに問題はないみたいだ。そろそろ退院しても大丈夫そうだね」
「あの、俺所持金が……」
「また様子を見に来るから」
外来の患者が来たようで、看護師から声がかかった。廊下に飛び出していった医師には、おそらく俺の言葉は届いていない。
どうしたものかな。と横になった俺に向かって、棚の上に座っていた猫のぬいぐるみも困ったような表情を浮かべていた。
金を払わなくてはいけない。しかし俺の手元にはその金がない。あるわけがなかった。この場合、どうすればいいのだろう。俺のことを撥ねた運転手を探して払わせるのが正しいのだろうか。仮にそうだとして、探す手立てはどこにもない。最悪の場合、体で払えと言われて新薬開発の実験台にでもされてしまうのかもしれない。
懊悩している間に時間は過ぎて行って、退院の日がやって来た。
「退院おめでとう!」
病室に入って来た医師はそう言うと、問答無用で俺のことを病院の外へ連れ出した。隣に立つ看護師もにこにこ笑っているだけで、二人共金の話は全くしてこない。
「おだいじに」
「車には気を付けてくださいね」
「ああ、はい、ありがとうござ……ええ?」
タダでいいのか?
医師と看護師は病院の中に戻ってしまい、玄関の前にはぽかんと口を開ける間抜け面の男が一人取り残された。ドアの脇に置かれた、看板を抱えた犬の置物が屈託のない笑顔でこちらを見ている。タダでいいのか。お前の笑顔を信じよう。
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