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おめでとうと医師は言ったが、退院しても俺には行く場所がない。戻ることのできる家もなく、共に暮らす者もいない。食事と居場所の保証されていた入院生活から一転、再びホームレスと化した。
病院から続くのは初めて歩く道だった。しかし、父と共に暮らしていたところからはさほど遠くないらしく、ブナの林を切り開いて道路が走る様には見覚えがあった。ほとんど葉の散ったブナが冷たい風に晒されている。
しばらく道なりに進んでいると、時雨の降る夜に車に激突したあの場所へ辿り着いた。道路脇の林の奥に空巣に入った家が見えるから、おそらくこの辺りだ。家から恐ろしい家主が覗いているように感じられて、俺はその場を逃げるように離れた。
あそこが現場ならば、あの時通りかかった老人の家もこの近くではないだろうか。雨の降る暗い夜道を老人が遠出するとは思えない。助けてくれてありがとう。そうお礼を言いたい。
ブナの中にちらほらと家屋が見えた。農家があるらしく畑の広がる部分も見える。
「あ……あのう、すいません」
俺は近くを通りかかった若い男に声をかける。全身を黒で統一した格好で、見るからに怪しいが他に人がいなかったので仕方ない。立ち止まった男は物珍しそうに俺を見て、小さく首を傾げた。
整った顔の美青年である。漆を塗り込めたような瞳がとても魅力的で、その黒に人を惹きつける魔性の力を秘めているように見えた。
「何か?」
呼び止められたことに対して彼は疑問を口にする。その言葉を乗せた声も耳を擽る程よい低音だった。低すぎず、高すぎず、心地いい。
「え、ええと、あの……」
父が死んでから人とまともに会話をしていないからか、なかなか言葉が出てこなかった。声をかけておいて用件を言わない俺のことを、青年は怪訝そうに見ている。
「私に何か御用でしょうか」
頑張れ頑張れと心の中で自分に声をかけながら、口を開く。
「あ、あのぉっ、この辺りに、おじいさんは住んでいますかっ」
残念なことに、俺の口から出たのは見事にひっくり返った声だった。青年は目を丸くして俺をじっと見る。そんなに不思議そうに見ないでくれ。いっそのこと大笑いしてくれた方がマシだ。
「……どのようなおじいさんでしょうか。おじいさん、たくさん住んでいらっしゃいますよ?」
ふふっ、と小さく笑ってから青年は訊いて来た。馬鹿にされている感じはしない。自然と零れた、といった感じか。
俺はわざとらしく咳ばらいをして、姿勢を正す。
「丸い眼鏡のおじいさん……のはず? 白髪で、髭がある」
「丸眼鏡」
青年はすうっと目を細めた。夜の闇のような漆黒の瞳に、吸い込まれそうになる。
「……陽一郎さんのことかな」
「その人の家どこですか教えてください!」
思わず詰め寄ると、青年はおっかなびっくりという様子で俺から少し退いた。
「ええ、いいですけど……」
そう言いながらも視線はどこか中空を彷徨っている。不審者を案内してもいいのだろうかと考えているようだった。青年は怪しい黒ずくめだが、俺も似たような格好である。整った顔には胡乱な目がはめ込まれている。
「俺は怪しい者ではありません!」
「は、はあ……?」
余計怪しまれたような気がする。引き気味に俺のことを見て、空を見上げ、諦めたように息を吐く。「分かりました」と小さく呟くと、青年は歩き出した。数歩進んだところで振り向く。
「こちらですよ」
いい人だなあ。俺が抱いたのは、そんな単純な感想である。一見人を寄せ付けないような黒ずくめだが、その中身は丁寧で親切な紳士だった。
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