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青年に案内されながら進むこと数分。ブナの間に見える家屋が増えて来た。そして、彼はとある一軒家の前で立ち止まった。深緋の屋根に淡黄の壁で、絵本から飛び出してきたかのようにかわいらしい家だ。家庭菜園をしているのか、花壇には野菜の名前が書かれた札がいくつか立てられている。その脇に小鳥の餌台も見える。
「ここが陽一郎さんの家です。あぁ、ほら、いらっしゃいましたよ」
老人は庭に散らばる落葉の掃除をしていた。丸眼鏡をかけたやさしそうなその顔は、まさしくあの時の命の恩人だった。青年が庭に入って行ったので、俺もそれに続く。
「陽一郎さん、こんにちは」
ゴミ袋に茶色い葉を詰め込んでいた老人が顔を上げる。
「ああ、夕ちゃんか。こんにちは。おや、一緒にいる子は……?」
「陽一郎さんにお客さんですよ」
「はて」
青年は俺に向き直ると、軽く会釈をした。顔と声がいいだけではなく、動作の一つ一つも優雅で見惚れてしまいそうだ。
「では、私はこの辺で失礼致しますね」
「あ、はい。ありがとうございました」
青年が去っていく。老人はしばらく彼の後ろ姿を見送って、「もう行ってしまうのか」と小さく呟いた。そして、改めて俺を見る。
短い白髪に、それと同じ色の髭。丸い眼鏡。間違いない、この人だ。
「はじめまして、ではなさそうだね。しかしすまんね、最近物忘れが多くて。いやあ、困った困った。どこかで会ったよねえ」
「あ、ええと。先日助けていただいた者でして」
老人はじろじろと俺の姿を観察してから、ぽんと手を叩いた。
「ああ! あの時の子かな? 確か時雨の降っていた夜だ。道路にきみが倒れていて……。そうかそうか、元気になったんだね。よかったよかった」
「その節はお世話になりました」
「車には気を付けるんだよ。そうだ、退院祝いに何かあげようかね」
「いえ、お構いなく」
老人は家の中へ入ってしまった。
お礼を言いに来ただけなのに、退院祝いなど貰っていいのだろうか。いや、駄目なわけがない。これは彼からの気持ちなのだ。それを無碍にはできないだろう。
寒風に身を縮めながら待つ。花壇の横にある餌台に目を遣ると、スズメが数羽何か穀物のようなものを突いているのが見えた。俺の視線に気が付いたらしい一羽が興味深そうにこちらを見ている。見事なふくらスズメだ。人間が近くで動いても安心して食事を続けているので、随分と人に慣れていることが分かる。スズメ達はここの常連で、餌場を用意してくれる老人のことを信用しているのかもしれない。
「やあ、お待たせ」
スズメの観察をしていると、しばらくしてカゴを手にした老人が外に出てきた。
「こんなものしかないけど」
差し出されたカゴに入っていたのは木苺だった。
「ラズベリーだよ。……食べられるかな?」
「食べます! ありがとうございます!」
赤くてきらきらした木苺を見た瞬間、貰ってしまっていいのだろうかという疑問は見事に吹き飛んでしまった。誘惑に勝てない俺死んでくれ。
「ははは、おいしいかい?」
「はいっ、すっごく美味いです!」
「よかったよかった。気が向いたらいつでもおいで」
「はいっ」
木苺を頬張りながら、俺は勢いに任せて返事をした。
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