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八月十三日
八月十三日
チヤが姿を消して、もうすぐ一年が経とうとしている。
チヤは誰にも理由を言わず、突然いなくなった。葬式にすら呼ばれなかった俺はそれ以来パソコンの画面を見つめる時間が更に多くなった。空調機で整えられた気温は、夏の暑さを自分に忘れさせた。
パソコンの画面から発されるブルーライトが目にしみる。けれどコントローラーを動かす手は止めない。黒い髪に眼鏡をかけた男性キャラクターがプレイヤーの俺に話しかけてくる。
なんでかなあ。
チヤは死んだのに。いなくなってしまったのに。世界は何一つとして変わらない。皆、チヤの存在などはじめからなかったかのようにふるまう。
恐ろしかった。怖かった。
こうして死んだ人は記憶からなくなっていくのだと悟った。
薄情者め。チヤも母さんも、みんな薄情なんだ。
彼そっくりなNPCを見て、余計な感情を思い出してしまう。このゲームはアンインストールしなくちゃな。
彼から逃げるようにゲームを終了させ、やっとコントローラーを机の上に置いた。
チヤが死んだ頃のことは、あまり覚えていない。
覚えているのは、胸に空いた喪失感。そして狼狽した俺を糾弾する、周囲の冷めた目だった。
スマートフォンの画面を見ると、時間はちょうど十一時。止まったままの目覚まし時計と同じ時刻を示していた。
日光を遮断するカーテンは長く閉じられたままだった。
誰もチヤを気にかけないのなら、俺が喪に服す。黒い服を着て、暗い部屋で過ごす。それだけだ。
ああ、あまり思い出さないようにしなくては。
彼のことを、思い出さないようにしないと。
青い画面は、ひたすら無機質に周囲を照らす。死んだ後の世界とは、もしかするとパソコンの画面のような世界なのかもしれない。
さー、
ヘッドフォンに塞がれた世界は、砂嵐のようなノイズに満ちていた。
暫し無言で、画面を眺めていた。彼を思い出すといつもぼんやりとしてしまう。そして嗚咽が出て苦しくなり、布団にこもってしまう。最近はそんなことも減ったが、まるで彼の死を忘れていくようで、たまらなく恐ろしいのだった。
「……よし!」
あまり悶々と考えていてもしかたがない。爽快なゲームでもやって気分転換しよう。
違うゲームソフトを立ち上げ、コントローラーを再び構えたときだった。
ゆらりと。
光を遮断した部屋の中、視界の端。薄っぺらい闇が一瞬揺らいだ。
まるで水彩絵の具を混ぜ合わせたような歪みが、空間に発生した。
ぎょっとして部屋の中央を見る。
空間の歪みなどなく、ただ虚ろな空気があるだけだった。
散らばった漫画と、廊下へ繋がるドア。
動悸のやまない胸をおさえ、再びパソコンの画面に視線を移した。
すぐ近くに、「それ」はいた。
自分の耳元、動いたらすぐ触れてしまいそうな距離に。静寂と暗鬱を携えた「なにか」が、自分をじっ、と見ているのだった。
視線を外すことなく、まっすぐに。
途端に、背筋に虫が這うような寒気に襲われる。空調はちょうどいい気温を保持してくれていたのに、急激に寒くなる。
さっき見たときはいなかったのに、すぐ近く、視界の端にいる。
コントローラーを持った手が震えた。
ヘッドフォン越しにも聞こえる、静寂の音。
腹の底から沸き上がってくる恐怖が、体を硬直させた。確認しなければいけないのに、体はひとつとして動かない。だが、確認しなければいけないという使命感が不自然に芽生えてくるのだった。
何も変化がなかったら、それでいい。散らばった漫画があるだけなら、それでいい。
恐る恐る、視界の右端へ顔を向けた。
「うわっ」
そんな得体の知れない存在が、自分のすぐ横で背筋を伸ばして立っていた。
思わず声をあげて椅子をひっくり返し転倒した。がん、と背中が壁にあたり息ができなくなる。心臓のあたりが痛い。ヘッドフォンのコードがぶつ、と激しい音を立てて抜けた。耳にかけていたヘッドフォンは厄介な重さとなって肩にずり落ちる。無線のコントローラーが床に転がった。
薄暗い闇の中でもくっきりと形づいた暗黒は、立ち姿だけは人の真似をしていた。圧倒的な黒を引っ提げ、そいつは当たり前のように立っている。
黒の燕尾服を着た闇は、体躯だけは人間と似た構造をしていたが、頭部はヤギともヒツジともライオンともつかない生き物だった。呼吸音さえ聞こえず、物質としての厚みしか再現していない様子は、まるで飾り物のようだ。
黒く翳る得体の知れない生き物は、無感動な目で見つめてきた。底冷えする黒い目は暗くて広くておぞましい。だが、純粋な闇だけを凝縮した生き物からまったく目が離せなかった。
離してはいけないと、警告音が脳に響いていた。
なんだお前は!? いつこの部屋に入ってきた!?
唇が震えてしまい、そうやって問いかけることもできなかった。息は胸でつっかえ、上手に吐き出せない。
静かに狂った空間で、それの頭が僅かに動いた。
「汝を迎えにきた」
その声が発端だった。
「うわあああああああああああああああああああああああああああ」
今まで出したこともない絶叫が肺を満たした。声を発し慣れていない喉ががらがらとひしゃげる。壁を蹴って立ち上がり、もつれる足で部屋のドアをぶち開けた。
崩れるように階段を駆け下り、母のいるリビングへ転がりこむ。ヘッドフォンのコードが足に絡みつくが、投げ捨てる余裕はなかった。
リビングのドアを閉めると、母が怪訝な顔をしてこちらを見ていた。テレビ画面には母の好きな韓流ドラマが流れていた。
「一体どうしたの。大慌てで走ってきて」
「母さん……!」
いかにも日常を体現した母を見て、一気に汗が噴き出した。閉めたドアに背を預け、震える膝を叩く。一度強く目を瞑った。
さっきのは一体なんだったのだろう。
剥製の鹿を被ったような奇妙な頭部だったが、体は人間だった。家族にあんな悪趣味ないたずらを仕掛ける人はいない。そもそも、人間にあのような造形の仮面をつくることは可能なのだろうか。
襲いくる不安感に息を深く吐き出し、再度目を開けた。
目の前に、それはいた。
ひゅ、と喉が鳴った。ドアを開けてもいないのに、この生き物はどこから入ってきたのだろう。
凝視しているそれは、今にも口づけされそうなほどの至近距離で自分を見下ろしている。
百九十はあるだろうか。思いのほか長身だが、ゆえに圧を感じる。逃げたかったが、後ろは既にドアが塞いでおり、どうすることもできなかった。
こんな異質なものが入り込んできているのに、母は何も見えていないとでも言うようにこちらへ近づいてくる。
「ちょっと、どうしたの」
「来るな、母さん!」
「なに、遅めの反抗期?」
母は更に顔の皺を濃くして、むっと睨みつけてくる。のんきな母をこの生き物から遠ざけようと、俺は叫んだ。
「来るな母さん、危ない!」
「何が危ないの?」
「どう見たって危ないだろこんなの! 見えてないのか!?」
母は首を傾げ、今度は心配そうな顔をする。そこで俺は自分の言ったことを頭の中で反芻した。俺は今なんと言った?
「まさか……見えてないのか?」
自分を見下ろしているそれに視線を移して恐る恐る尋ねると、それは機械仕掛けの人形のようにこくりと頷いた。
「死に愛されたモノしか、死は見えぬ」
「……要するに?」
「その人間に、我は見えない」
どうやら人間の言葉は理解しているらしい。内容を噛み砕いて話してくれた。途端に全身から力が抜け、ずるずると床に腰を下ろす。それは不思議そうにまばたきした。
どうやらそれが見えていない母は、訝しげに問いかけてくる。
「どうしたのあんた……とうとうおかしくなった?」
「あ、ああ……いや、なんでもない。うたた寝したら夢見てさ、ちょっと怖くなっただけだから」
「そう? それならいいけど」
声はみっともなく震えていたが、どうにか体裁を取り繕う。少々疑念の目を俺に向けながらも、母はキッチンに向かった。なんとかごまかせたようだ。
「それよりあんた、今年はどうすんの?」
母は自分用のコーヒーをつくりながら訪ねてくる。香ばしい豆の香りに拍子抜けして、返答が遅れた。
「今年?」
「今日本家に行ってくるけど」
「あ、ああ……」
変わらず俺のすぐ傍で佇んでいるそれに意識を向けながら、なんとか返答する。
「今年は行かないよ」
「そう。別にいいけど、あんたもそろそろ踏ん切りつけなさいよ。いつまでもニートでいられないでしょ?」
そう言われ、思わず顔が引きつる。外になんて出る気はないが、母の言うことももっともだ。だが、外に出るといつも思い出してしまうのだ。隣にいたあいつのことを。
できる限り笑って見せたが、俺は上手に笑えていただろうか。
怪物じみたそれを視界に入れて、これからどうすればいいのか頭を抱えたくなった。
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