八月十五日

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八月十五日

この日の夜は眠り、朝の三時に起きた。  朝といっても日はのぼっておらず、いまだ世界は闇の中だ。カーテンは開かないでおいた。  雨も降っており、さすがに半袖では寒いだろうと薄手のカーディガンをはおる。あいつはよく青色のカーディガンを着ていた。残念ながらあいつの趣味とは違い、俺のカーディガンは黄色だ。ポケットに黒い石と紙片を詰め込んだ。  もう少しで死ぬのに、よくのんきに睡眠などとったものだ。そう思うが、睡眠は人間には必要不可欠の行動だ。夜通しゲームをプレイするのが日常茶飯事だから身にしみているが、睡眠をとらなかった日の翌日なんて頭が働かず体も重くなる。昔からよくそのことでチヤに怒られていた。あの頃はチヤの注意を無視してゲームに没頭していたが、今ならデメリットが分かる。最後の日をぼんやり過ごすなど御免だ。今日は死の概念が現れてから三日目。もう時間がない。  リビングでクロワッサンと牛乳を食した。食べ終わった後、必要のなくなったリビングの電気を消す。暗闇に鎮座したリビングを眺め、玄関に向かった。  降り続いた雨はやんでいた。外に出ると冷たい空気が頬を撫でてくる。まだ日が出ていないからか身震いするほど寒く、カーディガンを纏った体を自分の腕で抱きしめた。息を吸い込むと、冷えた空気が肺を満たした。  俺の後ろをずっとついてくる死の概念も口を開かなかった。道すがら、一度だけ振り返ったが、彼は静謐な獣の目を俺に向けているだけだった。  公園にたどりついて、真っ先に確認したのは時間だった。公園の時計は、ちょうど四時を示していた。  たいして広くもない公園をぶらぶら歩く。昔はこの公園も広く見えたものだが、今では新しくも広くもない、こじんまりとした寂しい場所に見えるのだった。  色のはげたシーソー。一応は整備された二台のブランコ。高さだけはある滑り台。  どれもこれも、幼かった頃は大きく見えていた。 「こんなに小さかったんだな……」  この公園に足を運んだのは中学生以来か。それこそ、チヤとここで籠城したのが最後だったかもしれない。がたがたとした質感のシーソーを撫でると、彼といたあの日が、妙に遠く感じられた。  ひどく喉が乾いた。五年前のように飲み物を持ってきてはいない。苦いコーヒーも甘い苺ミルクもここには存在していない。水飲み場へ行き、蛇口を捻った。  飲み口を上に向けて、水を飲む。夜のせいか水の温度は少し冷たい。体の中が洗浄されるような感覚が全身に広がった。  そのまま水を出しっぱなしにして、上から下に流れていく水の軌跡を眺める。一度上に湧き上がって、下へと流線を描き落ちていくさまを呆とした頭で見つめた。  蛇口をしめると、一つ、二つと水滴が落ちる。立ち尽くしている死の概念の手を掴んだ。 「どうかしたか」 「まあまあ。黙ってついてきてくれ」  そうして二人で滑り台をのぼった。子どもがのぼるには些かこの滑り台は高さがある。朝の訪れを待つ公園の全貌がよく見えた。街灯のあかりだけが浮いていて、空気は異様なほど静寂に包まれていた。 「ここに座って」  死の概念を座らせて、自分も隣に腰を下ろす。彼の手を繋いだまま巨躯に寄りかかった。彼の体温は冷たいのではなく、元々「無い」のだとはじめて気づいた。 「同胞よ」 「なんだ?」 「怖くないのか?」  断片的な言葉が、今の俺には深く刺さった。何もかもが怖かった。死の概念の存在も、あいつが忘れ去られていた事実も。 「……怖いよ」  一度声に出してしまうと、言葉が堰を切って溢れ出した。 「怖いに決まってるだろ。消えるのは怖いよ」  俺は怖かった。死の概念が現れる前から、ずっと。  死が、怖かった。  チヤがいなくなってから俺はずっと考えていた。「俺もいつかあいつの元に行くのだろう」と。あいつが消えたことで、強く死を意識した。 「あいつは言ってたよ。『奴ら』」に連れていかれるって。『奴ら』って、多分、お前と同じようなのだったんだろうな。今の俺と同じように、お前みたいな概念に見出されてたんだ。あいつもこんな気持ちだったのかな。こんな気持ちで、ずっと生きてたのかな」  あいつはどれだけ孤独だったのだろう。こんな、暗い水底にいるような息苦しさを抱えて。  俺は何もわかっちゃいなかったのだ。 「あいつは最初から最後まで、ずっとひとりだったんだ」 ひとり。その言葉を口に出したら、潤ったはずの喉がまたひりひりと乾いた。 「俺が一緒にいても、あいつはずっと」  どれだけ苦しかっただろう。どれだけ悲しかっただろう。チヤが本当はなにを考えて生きていたのかまったく分からない。 理解していたつもりだった。理解していたはずだった。だが、結局のところ誰も、俺ですらも、チヤの孤独を埋められなかった。 お前、本当はどう感じてたんだよ。俺のことをどう思ってたんだ? 今すぐ胸ぐらを掴んで問い詰めたくても、もう隣にはいないのだ。 「お前とこうしていると、ここで二人でいたことを思い出すよ」 「そうか。ここに来ていたのか」  優しい声で、彼はそう言った。  繋いでいた手を離して滑り台をおりた。時刻は四時三十分。そろそろチヤの指定した時間になる。  歩いていると、後ろから手をとられた。自分よりも遥かに大きい手に包まれると、安心した。 「どうした?」 「ふむ」  死の概念は首を傾げて、俺の手を強く握った。 「手を繋いだほうがいいと思った」 「なんだそれ」  変な発言をする彼に苦笑する。でも、悪い気はしなかった。  辿りついたのは、ツツジの木が植えられた街灯の下だった。ここで穴を掘ったことを、今なら鮮明に思い出せる。  一旦死の概念の手を離して、端に落ちている大きめの石を拾った。 「ここを掘る」 「なにかあるのか?」 「昔、ここでチヤと埋めたものがある」  石を使い、土を掘り出し始めた。街灯下の地面は、布団のように柔らかかった。 「見つからなかったらどうする」  死の概念は俺を助けるでもなく、しゃがんで俺の作業をただ見ている。土まみれになる手は、さぞかしみっともないだろう。彼の視線を感じながらも、土を掘る手は休めなかった。 「見つからなかったらそれで終わり。でも、もし見つかったら……」  爪に土が入り込む。這いつくばる虫に辟易しながらも、口と手は止まらない。 「満足できる。俺が俺でなくなっても大丈夫。チヤを思い出せなくなっても、きっと大丈夫だ」  記憶の底に、あいつをおいていくのは不安だけれど。 「そう、思うんだ」  言葉にしたら、口によく馴染んだ。  夜明けは近く、空は徐々に明るさを取り戻していった。  やがて街灯の光が消えかけたとき、ビニール袋が見えた。慌てて更に穴を掘って、慎重に引き抜く。 「おい見ろ! 見つけたぞ!」  はしゃいだが、死の概念は何も言わず、俺が引き抜いた白いビニール袋を静かに見つめるだけだった。  震える指先でビニール袋を開く。中には鮮やかな青のハンカチが入っていた。ハンカチが入っていたことで、つい安堵の息を吐いてしまう。大丈夫。きっと大丈夫だ。  立ち上がってビニール袋の重さを改めて感じ取った。確かに軽い物体が入っている重さだが、もしそれが錯覚で、実際なにも入っていなかったらどうしよう。本当に彼の存在が消えていたらどうしよう。途端に激しい恐怖が襲いかかるが、歯を食いしばってビニール袋をひっくりかえし、手のひらに乗せた。  澄んだ水の煌きをもった、小さな原石。  静かで優しいあいつの色だった。慌ててポケットに手を突っ込み、もう一つの石を取り出す。  黒い煌きの、同じような小さい原石だった。十三の夏、あいつが鞄にしまったもう片方の石は、これだったのだ。チヤは死ぬ間際に、この黒い原石を俺に託したのだ。 「なんだっけ……この石の名前」  二つの石の色がはっきりと見えた。呟くと、返答したのはいつの間にか自分の正面に立っていた死の概念だった。 「ラリマーとラブラドライトだ。黒いオーロラのような石がラブラドライト」 「へー、お前、詳しいな」  石から目を離して向き合った。彼は静寂を湛えて、そこに立っていた。  死の概念がゆっくり近づいてくる。彼の長い腕に抱かれると、やはり穏やかな気持ちになるのだった。 「なんでお前が泣いてるんだよ」  彼は泣いていないのに、そう話しかけてしまった。彼が泣いているようだったから、笑ってやった。死の概念は、泣いてなどいなかった。  彼に抱かれたまま、彼の背後にある夜明けの空を眺めていた。  紫も水色も橙色も混ざった空の色。雨は空の色を混ぜ、そして静穏な夜明けを連れてくる。  俺たちの記憶は、いつまでも色鮮やかなものなのだろう。チヤ。お前が俺の中でいつまでも鮮明であるように。 「見ろ、夜明けだ」  死の耳元で、そう囁いた。
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