「赤いくちづけ」

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 私の目の前にはけだものがいる。  男は快感と充足感に満たされた目で私を見下ろしていた。その目は幾度となく見てきた。だが慣れることはなく、嫌悪感と恐怖でしかない。  男は口角を上げ、私の方に手を伸ばしてきた。逃げる私を追う男。逃げても無駄なことは分かっている。それでも本能で体が動いてしまうのだ。  捕まりそうになった私は逆に男の足にすがりついた、ごめんなさいと何度もつぶやきながら。男はあっという間にいら立ちの表情へと変わる。  まずい!  私は急いで足から離れ、ひれ伏した。逆らわない、私はあなたの言うことを何でも聞く、そんな意思表示。男は満足気な顔で足を差し出してきた。あぁ、服従の意を示せという事か。  私はためらわずにその御足にくちづけをする。赤いキスマークが甲に刻まれた。  愛の無い、白々しいだけの赤い印。  男は一つ鼻で笑うと、寝室へと戻っていった。  あと何度、こんなことをしなくてはならないのだろうか。  絶望に打ちひしがれる私。どれくらいの時間がたっただろうか。私の耳に大きな物音が届いた。急いで寝室へと駆けあがる。  目の前に広がる光景に私は思わず笑みを浮かべた。  もがき苦しむ男。助けを求める手は誰にも届かず宙をさまよう。  私は男を見下ろした。  ああ、あなたはこんな気持ちで私を見下ろしていたのか。これはさぞ快感だったろう。  笑う私を見る男の目が、先ほどとは打って変わって恐怖の色に染まる。だがそれもほんのわずか。次第に瞳からは色が失われ、無へとなり果てる。これでもう、あんな目を見なくて済む。  さぁここからがスタートだ。  私は頬を叩き気合を入れる。今から私は突如夫を亡くし、悲しみに打ちひしがれる妻だ。計画に不備はないはず。欺き、証拠も残さない、完全犯罪を成し遂げようではないか。 ※  ※  ※  夫が寝室で倒れていると救急に連絡、救急隊員が不審死を疑い、すぐに警察がやってきた。今自宅は大勢の捜査員でごった返している。自室で泣き伏す私のそばに、夫の友人の弁護士がいる。私が呼んだのだ、困ったことがあればと名刺をもらっていたから。 「大丈夫ですか、奥さん?」 「……はい。すみません、急に連絡したりして。こういうときどうしていいか分からなくて。弁護士さんなら力になってくれるかなと思ったんです」 「ええ、大丈夫ですよ」
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