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「靴ひもは右足から結びますね。スタートラインに立ってから、右足から靴ひもをチェックして、それから体を揺らして深呼吸二回かな。あとは自分の出番の前にバナナを食べる。好きなんだよね、バナナ」
「走る前なのに?」
「もちろんそれは考えて食べますよ」
そう言うと先輩は机の前に歩いていった。無造作に置かれたバナナを見つめて数秒、一つを手に取った。皮をむいて一口かじる。美味しいのか、先輩の顔にかすかに笑みが浮かぶ。
「バナナはエネルギー効率が良いし、甘くて美味い。俺、甘党だからさ。日頃スイーツを控えている分、バナナぐらいは、な」
先輩は食べ終えるとバナナの皮をゴミ箱に捨てた。
競技の時間も迫ってきたので、僕たちは先輩に激励の言葉を贈って控室を後にした。先輩の出る千五百まではまだ少し時間がある。
観客席に戻った僕たちは他の競技を見ながら時間を潰した。
そしていよいよ始まるというときだった。アナウンスで先輩の棄権が告げられたのだ。
「えっ! どういうこと? 棄権って、さっきまで元気だったのに」
「におうなぁ」
「それって……」
「何か起きたんだろう。貴之くん、控室に行ってみよう」
僕たちは駆け出した。控室前にいた人に叔父さんは尋ねる。
「村本選手が棄権って、何があったの?」
「ああ。彼、急に腹痛を起こしまして」
「そうか。ありがとう」
叔父さんは納得できない顔で控室に入っていった。僕もその後を追う。
「さっきまで元気そうだったのに。悪いものでも食べたのかな?」
「そんなわけないだろ。大会前なんだから気をつけるはずさ」
「じゃあ……」
叔父さんは控室をぐるっと見渡す。数人の選手が明らかに不審な目で叔父さんを見ている。僕は皆さんに頭を下げながら、叔父さんの肘をつつく。
「叔父さんは、この棄権が仕組まれたことだと?」
「まぁねぇ。彼がこの競技場に来てから口にしたものは……。たぶん水筒の中身とバナナぐらいかなぁ」
叔父さんの顔つきが探偵へと変わる。予感はしていたが、まさか本当に当たってしまうなんて。貧乏探偵の居るところに事件有り。僕はため息をつきつつも、彼の背中を見つめていると、
「あった、これだな」
叔父さんの手には一本の水筒が握られていた。それを意味深な笑みとともに僕の方へと差し出してくる。ま、まさか……!
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