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正確には帰ってきていた、だ。私が仕事から帰るとアケミは家じゅうを掃除しそしてきれいになった台所と新鮮な野菜や肉と魚で夕食を作ってくれていた。
肉じゃがにハンバーグに唐揚げ、魚の煮つけにシンプルな野菜いため、そして味噌汁が作られていた。不思議なことに中に入っている野菜は全く色が褪せていなかった。
あたたかな料理を並べながらアケミは「あら、帰ったのね。おかえりなさい。早く手を洗ってきてもう少ししたらあなたが好きな炊き込みご飯ができるから」と今までと変わらないトーンで言った。
呆然と立ち尽くす私はただただ温かい料理と久しぶりの幸せなご飯の香りを感じていた。
「あの、どうしてここに、いるんだ」
するとアケミは大きな声で笑った。心の底から楽しんでいる声。からりとした明るさを持つ声は安堵とともに奇妙な気持ちにもなるものだ。
「だってここは私の家じゃない。そりゃいるわよ。何言ってるのよ」
「でも、どうして連絡をくれなかったんだ。僕は、本当に、君が」
そこで言葉がつまった。
そして涙が込み上げてくると自分でも気が付いたと同時に、涙が頬を滑っていく。涙が込み上げるなど久しぶりだ。子供のころ以来の氷でなぞられたような冷たさだ。
「馬鹿ねぇ。何泣いてるの。私はこうして無事に帰ってきたんだからそれでいいじゃない。なんなのよ、もう。変な人」
アケミはやはり笑う。
簡単に涙を止めることはできなかったが私は席についてアケミとともに食事をした。久しぶりの二人での食事はおいしいというよりは、アケミとともにいるからうれしいという感覚の方が強く味はよくわからなかった。
食事をしている間アケミがどこにいたか、どうしていなくなったのかということは話題にならず最近のニュースや世間話をしていた。たわいもない会話だ。ほんの一時間前まではアケミがどこにいるかもわからなかったのに。昨日もこうして同じ時間を過ごしていたようだ。それくらい違和感がない優しく癒される時間だった。
食事が終わり後片付けをするとアケミは「ねぇ、ちょっとお風呂はいってきなさいよ」と言った。お風呂をすすめてくることは殆どなく私は「どうして?」と聞き返してしまった。
するとアケミは視線をずらして気まずそうにした。頬は不機嫌に紅潮している。
表情の意味は簡単に読み取れたが私はただ驚きと戸惑いを感じているだけだった。どう反応したらいいのかわからずただそこの場に呆けていた。
沈黙に耐えかねたのかアケミは顔を下げてさらに言った。「私はもうはいっているからさ」と。
焦れているような言い方。普段そういう彼女を見ていないせいか意地悪をしてしまいそうになる自分がいた。
それでもどうしたらいいのかわからず私は小さくうなづいてまるで初めてそういうことをするような心境になりながら支度をして、風呂に入った。
自分の家の風呂なのに知らない場所で体を洗っているようだった。それくらい頭が働いていなかったのだと思う。
アケミがこうもあからさまに誘ってきたことはなかった。うれしいような、あんなに心配したことがなんだか今では滑稽だったような。欲に流されようとしている自分の意思が弱いようなやるせなさも湧く。
アケミは何を欲しているのだろう。ただ単に体の欲を発散したいだけではなさそうだ。
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