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 キーボードを打っては止まる。何度同じことを繰り返したか。次第に止まっている時間の方が多くなっていく。昔は確かに楽しかったはずのことがいつの間にか苦痛になった。  頭の中の考えはまとまらないまま、時間だけを無駄遣いする。  過去のことを思い出す。  小説を書き始めたのは学生時代だ。昔から空想するのが好きで、それを文字に書き起こしたらどうなるだろうと思ったのがきっかけ。頭の中にある世界を表現するのはとても楽しかった。自分しか知らない場所がそこにはあった。現実ではあり得ない世界。  当時使っていたノートは、あっという間にたくさんの物語で埋まった。完成したそれを一部の友達に読んでもらった。みんなすごいと言った。  僕は文章を書く才能があるのではないかと思った。 「すげえ、面白いよこれ。続きとかないの?」  懐かしい記憶の中、友達の声が反響する。頭の中が音叉みたいに震える。    眠っていたらしい。あまりすっきりしていないのに、時間だけがストンと無くなった感じ。  ため息。頭をかきながら、机に突っ伏していた身体を起こす。両腕が痺れる。外は少し薄暗くなってきていて、窓の外からその色が滲んで部屋に入り込む。白色光の電気スタンドはずっとつけっぱなしのままだった。今視界に入っている明かりの中で一番明るい。それを眺めながらぼんやりする。  社会人になってからも書き続けた。学生時代より金銭的に余裕が出てきたため、小説を好きに買って読んだ。ノートパソコンも購入して、どこでも文章が書けるようにした。学生時代によくお世話になっていた図書館にも引き続き通った。  本当はこの時から薄々感づいていた。現実に。  けれどそれを隠すように、気づかないように、僕は一つの自信を頼りに動いていた。  学生時代に感じた文章を書く才能が、それだった。    キーボードで文章を打つようになってどれくらいの年月が経ったか。次第に、描いていた自分の姿からずれ始めていることに気づいた。最初は、仕事で疲れて帰ってきた日も書いていた。ほんの少しでも、指を動かし続けた。  次第に仕事が忙しくなり、書く日がまばらになっていった。残業をすることも増えた。昔のようなペースで書くことができなくなった。けれど焦りはしなかった。自分には才能がある。いざとなればいつでも本気を出せる。そう思ってうやむやにした。  そんなある日のことだった。テレビ画面にどこかで見た顔が写っていた。学生時代の友達。自分の自作小説を褒めてくれ、目を輝かせて続きを待っていてくれた。  画面の中ではカメラのシャッターを切る音と、フラッシュの点滅。数人の人物がその中心にいた。  有名な小説賞の授賞式だった。名だたる作家陣の中に彼はいた。本名で活動しているらしく、当時から変わらない雰囲気ですぐに分かった。  その日のうちに彼の小説を購入し、読んだ。興奮が冷めやらなかった。夜もあまり眠れなかった。  次の日から、それまでの生活を取り戻すようにまた書き始めた。前日の興奮を、全てキーボードに叩きつけるように。このままじゃ終われないだろと思った。居てもたってもいられなかった。  創作への熱はいつも不規則に燃え上がる。そしてふっと消える。  5日経った。あの夜の興奮が、恐ろしいほどに収まった。こんなはずではないと思い、何度も机に向かう。けれど、何も生み出せない時間が続き、やがて諦める。  窓の外はすっかり暗い。また今日も何も生み出せないまま終わるのか。  真っ黒い焦りが喉の奥で増殖する。肋骨のあたりがみしみしと蝕まれていく。黒く染まっていく。焦りの中身は空洞でできている。これが全身に広がれば広がるほど、身体の中が空っぽになる。何も考えられない泥の塊になる。  机の隅に置いたままの友達の本が部屋の中で唯一、異物に感じられる。ゆっくりと近づき、持ち上げる。右手にその重さがのしかかる。片手で持っているはずなのに、どんな鉄の塊より重い。表紙をめくる。目次。本文。文章の一部を流すように読む。適当なところまでページをめくってまた同じように読む。  ……ああ、これはダメだ。敵いっこない。同じ土俵にすら立てない。現実を目の前に叩きつけられた。それだけのことだ。いくら奮起したところでもう、変えられない。    何も書けない日々が続いた。  小説を投稿するサイトでは、変わらず様々な人が執筆を続けている。学生も社会人も主婦も、あらゆる肩書きの人たちがそこにはいる。それぞれの考え方、生き方をしてきた人たち。自分もその一人だ。  白く発光するノートパソコンの画面。眺めていても、何を書きたいのかなんて分からない。ただその世界との繋がりが断たれるのだけは嫌で、意味もなくそのままでいる。  キーボードとマウスを操作する音。時計の秒針の音も微かに聞こえる。  時間が過ぎる。何もできない。  何のために書けばいいのか、何を書きたくてここにいるのか。  とりあえず頭の中に浮かんだ言葉を羅列していっても、何の脈絡もない、意味不明な文章だけが積み重なっていく。気持ち悪い。うまく並ばない言葉が頭の中をぐちゃぐちゃにかき回していくようだ。思考なんてしているようでしていない。  今までなら一度スランプに陥っても、しばらくすればまた元に戻っていたはずなのに。  言葉が滑る。頭の中からことごとくこぼれ落ちて、粉々に崩れ去る。ああ、上手くいかない。焦りと吐き気が込み上げる。何を書いても空回っている。前に進もうと歩くほどに後退していくような感覚。このまま何も生み出せないままかもしれない。嫌な想像が頭をよぎる。弱っている時に限ってその想像は大きく膨れ上がって手がつけられなくなる。  ノートパソコンを閉じる。少し力が強くなる。呼吸をするのに精一杯で、他のことを考える余裕がない。情けなさが込み上げて大きなため息が出た。  夕飯を作るだけの気力が湧かない。買い溜めしてあるカップ麺でいいか、と、やかんに水を入れて火にかける。  きっと今日もあまり眠れない。揺れる青い火を眺めながら、頭の片隅でそう思った。
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