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目が覚めた。ベッドの中から壁時計の時間を確認する。午前6時。外は曇っているようで、部屋のカーテンの隙間から灰色の光が漏れている。空気も冷たい。
会社に行く準備をしなければ。身体を起こすと同時に思い出す。
「今日、休みか……」
休日とはいえ一度目を覚ましたら、また眠ってしまうのが勿体無い。布団から出ることにする。掛け布団が足に絡まって、煩わしさに小さくうめき声を上げる。
立ち上がって頭を掻く。身体の温度が部屋の空気に奪われていく。首元からじわじわと冷たさが侵食してくる。エアコンを作動させてからテレビの電源も入れる。
自分の呼吸音がやたら大きく聞こえる部屋の中で、しばらく何も考えずに過ごす。分かっている。このまま過ごし続ければ、きっと何もできなくなる。それでも動けない。
ふいにスマホが振動する。確認すると、学生時代の友達からだった。小説賞をとった友達とは別の。
『俺たちの参加するライブを見にきてくれない?』
彼は学生の頃からギターをやっていた。バンドを組んでいて、それが今も続いているらしい。近日中に、複数のインディーズバンドが参加するライブがあるのだという。
行くべきだろうか。正直、あまり乗り気じゃない。一刻も早く今のスランプから脱したい。周りのことに目を向ける時間すら惜しい。
『ごめん、今回はちょっとやめておこうかな』
そう打ちかけて手が止まる。ふと、これまでのことが頭の中を巡った。
一人でずっと机に向かい続けた日々。
人付き合いが苦手で、それの言い訳として“自分には創作があるから”と思い続けてきたこと。
本当の自分は、何も持っていないこと。
『考えておくわー。いつまでに決めて欲しいとかある?』
そう返信した。
『了解!特に期限はないよ。当日来たいと思ったら来てくれれば(^^)』
帰ってきたLINEに、親指を立てた“了解”のスタンプを押してから、ソファーにスマホを放った。こういう時にすぐ行くと言えないのがきっと自分の弱い部分だ。
ソファー近くの床に座る。壁にもたれかかって右腕を額にのせる。体温を測るときのようなポーズ。腕の影で暗くなった視界の中で深呼吸をすると、少し気持ちが落ち着いた。
まっさらなノートのページに、頭に浮かんだ文字を書き込んでいく。
内容は普段のものと大差ない。新しいアイデアは浮かばない。書いても書いても、一向に変化がない。同じことばかり書き続けているせいか、考え方が凝り固まってきている。ずっと終わらないトンネルの中を進んでいるような感覚。いよいよ終わりが見えなくなってきた。
上手く書けなくなって一体どれくらい経っただろう。それすらも思い出せない。日々の仕事で疲れているだけだろうか。今眠ればまた書けるようになるだろうか。明日の自分が信用ならない。今の自分も頼りない。
ライブに誘われて4日が経った。3日後が本番。行こうという気力が湧かない。最近はただぼうっと過ごすことが多くなった。思い出したようにノートを開いても、結果は分かりきっている。身に付いたかどうかもよく分からない知識だけが増えていく。どこで使えるかも、どうやって使うかも思いつかない。
ずっと創作のことばかり考えていると、次第に普段の仕事にも影響をきたすようになった。頭の片隅にずっとモヤモヤが棲みついているせいで、細かなミスが多くなった。
「最近なんかあった? ぼうっとしてることが多くなったんじゃない?」
声の主は同僚だった。
「あー……、うん。そうかもしれない。ちょっと調子が悪くて」
「珍しいな、お前にしては。悩み事があるならいつでも相談にのるぞ」
「ありがとう、そう言って貰えると助かるわ。とりあえず自分で何とかしてみるよ」
「そっか……。まあ、無理しないようにな。今度また呑みに行こうぜ」
同僚はにかっと笑って背中をポンポンと叩いてくれる。
じゃ、と軽く手をあげて自分のデスクに戻っていく。こんな知り合いがいることがどれほどありがたいか。それと同時に、申し訳なさも顔を出す。
情けないな、仕事にまで支障をきたすとは。
デスクトップパソコンの前で伸びをする。背筋を伸ばすと同時に深呼吸。
うん、もう少し。とりあえず今は目の前の仕事を何とかしなくては。
時刻は午後4時半。街は少しだけ夕焼けのオレンジに染まり始めていた。
なんとか仕事を終わらせて帰路に着く。背中や腰が所々痛む。外の空気は凛とした冷たさを含んでいる。
どこか遠くでクラクションが鳴る。タイヤが地面を掴んで通り過ぎる音。何度も繰り返す。様々な人たちの笑い声や会話が混ざり合う。
建ち並ぶビル群の窓は、まだ明かりが灯っているところが多い。その白さは街の寒さを一層濃くしている。
冷蔵庫の中に何か食材とか残ってたっけ? 最近の曖昧な記憶のせいで思い出せない。米は炊いてあるはずだから、最悪それだけでも。いや、無理だな。ちゃんと確認しておけばよかった。息を吐くと白く染まってふっと溶けるように消えた。コートのポケットに突っ込んだ手の、皮膚に触れる感触をそれとなく感じながら歩いた。
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