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 冬の朝の空気。まぶたを閉じていて視界がまだ暗闇の中にいるうちに、嗅覚だけで朝が来たことを理解する。  いつものルーティンを淡々とこなしていく。何一つ変わらない朝。ずっとこうして生きていくのだろうかと思うと少し虚しくなる。  ふとよぎる思考を、ふっ、と、よくわからない掛け声で吹き飛ばす。  いつもより少し早く家を出た。夜とは違う冷たさの空気だ。これはこれでいいかもしれない。  人間にすっかり慣れてしまった小さな鳥たちが、ととと、とまばらな通行人を避けていく。空は淡い水色。そこに、微かに金糸のような日の光が混じっている。  靴の底から伝わってくる地面の感触も普段よりも硬い気がする。朝の温度に固まってしまったかのようだ。  その温度が少しずつ溶け出して、街がいつものように動き出したちょうどその頃、会社に到着した。タイムカードを押してからいつもの席まで向かう。朝起きた後のルーティンの中に組み込まれている感じだ。普段と違うのは早く出社してきたこと。  いつもより人口密度が低い。いつも通っているのとは別の場所に来たのでは、と錯覚する。  新鮮だ。今までこんな風に行動したことがなかったから余計にそう思うのかもしれない。  パソコンを起動する。気怠そうに動き出す。しょうがない、やりますか。といった具合だ。  小説のことが頭の隅によぎる。小さく息を吐いて、とりあえず置いておくことにする。ずっとそのことを考えすぎて疲れてしまった。  そう考えたものの、やはりというべきか、時々は思い出す。忘れているわけではなく、ただ端に置いてあるだけなのだと、改めて思う。  それでも昼までの仕事をこなして休憩に入る。窓から見える外の景色はすっかり活気付いている。スマホで電話をしながら歩く会社員。寒さに腕を抱えながら行列に並ぶOL。コーヒーを売っている移動販売車も見かける。その全てがミニチュアのように小さい。  朝のうちに作っておいた冷凍食品のオンパレードみたいな弁当を取り出す。結局冷蔵庫の中にはそれなりに食品があった。この弁当は冷凍庫に余っていたものを入れた。そのまま入れておけば、昼にはいい塩梅になるやつだ。  弁当箱の蓋を開けて食べようとした時、後頭部の上から声が聞こえた。 「やあやあ」  振り返ると昨日の同僚だった。 「いやー、昨日よりは調子が良さそうでよかった、よかった」  彼はコンビニで買ってきたらしいサンドウィッチをかじりながら大袈裟な声でそう言った。 「そんなに酷かった? 俺」 「うん、酷かった酷かった。何か顔が少し白かった気がする。この牛乳ぐらい」  言いながら200mlの牛乳パックをすすっている。 「そんな白かった?」 「うん、お化粧でもしてきたのかと」 「そんなわけあるかい」 「お歯黒でも塗ってるのかと」 「そんなわけあるかい」  いつもは昼休憩以外の15分休憩の時に話すぐらいだ。それを昼休憩にもきてくれるのは、ふざけながらも気にかけてくれているのだろう。 「とりあえず大丈夫そうでよかった。喋り相手がいないと今度は俺が真っ白になるから……」  少し沈黙。 「お歯黒、どこかに売ってるかな……」 「化粧する気満々かよ」  午後からはあっと言う間に時間が過ぎた。モヤモヤも少し晴れたような気がした。何よりふざけた話ができるのはありがたかった。  夜の温度は少し濃く、鮮やかな匂いがした。  帰宅してテレビをつけると、小説賞を取ったあの友達がインタビューを受けていた。番組の特集だった。    それでは続けて、◯◯さんが小説を書き始めた原点について教えていただけますか?  そうですね……。一番最初は、小学校の頃だったと思います。当時、学校に小説を書いてくる友達がいて。みんなでそれを読ませてもらっていたんですよ。  へえ、それはオリジナルの?  はい。そうなんです。しかもすごく独特な世界観で、それがまた面白かった。ずっと覚えているんです。その時の感情というか、興奮というか。  それが小説を書き始めたきっかけなんですか?  きっかけ、というか、僕の中に持ち続けていた大切な記憶ですねぇ。これからも忘れられないと思います。  心臓が激しく脈打った。  小説を書いてくる友達。大切な記憶。  ──大切な記憶。  自分の中で何かが切り替わる音が鳴った。  頭の隅に置きっ放しにしていたものが動く。小説を書くこと。今までずっとやってきたこと。  やらないと。やっぱりこのままじゃ駄目だ。  机に向かう。転がっているボールペンを掴み、電気スタンドの明かりをつける。ノートのページをめくる。全身の血液が少しずつ熱を帯びていく。やる。やってやる。  指先に力が入る。新しいページにペン先が触れる。  書ける。  力が加わる。  書く。  指先が震える。  絶対。  全身の筋肉がぎこちなく震える。  書け……る。  感情が一気に膨れあがって、急速に萎んでいくのが分かった。  脱力。上がった温度が、何事もなかったかのように空気に溶け出してしまう。  書けない。  一向に筆が進まない。  ため息と共に気力すら吐き出してしまった。悔しさや焦燥感すら感じない。何かを生み出せる気が全くしない。ああ、駄目だなこの感じは。ストンと腑に落ちてしまった。結局これだ。そうだよ。最初から分かっていた。分かっていたはずなのに。  僕はきっと、創作に向いていない。
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