神の眠る島

1/1
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
新幹線のぞみの車窓から富士山が見える。 「富士は 晴れたり 日本晴れ」 昔に何処かで聞いたことのある、そんな言葉が自然に口から出た。 しかし、気分は、そんな晴れやかなものではなく、隣に座っている怜子さんの気持ちを考えると、これから何を、どう探れば良いものかと途方に暮れていたのである。 怜子さんと言うのは、僕の友人の婚約者だった人だ。 「何か、手掛かりが、広島にあると思うの。ごめんなさい、私のお願いに付き合ってくれて。でも、こんな変な話、相談できる人は、平山さんしかいなくて。」 そう言って、力無い笑顔を見せた。 友人の婚約者だったと、過去形なのは、1ヶ月半前に、友人の匠は自殺したからだ。 しかも、怜子さんと婚約をして、1週間も経たない時だった。 普通なら、幸せいっぱいの時期だろう。 それを自殺しなきゃいけないなんて、その理由は、いくら考えても思いつかない。 その理由に、故郷の広島が関係しているのではと、直観的に怜子さんは考えている。 なので、怜子さんに頼まれて、今回、匠の四十九日の法事に合わせて、僕も怜子さんと広島に向かうことにしたのだ。 自殺の理由を探りにだ。 「まあ、余り力まずに行きましょう。怜子さんは、何か思い当たることが広島にあるのかな。」 「いえ、思い当たるというか、匠さんが打ち明けてくれたんだけれど、変な宗教に憑りつかれていたの。」 「変な宗教?」 「ええ、犬神様と言ってたわ。広島にいたころから犬神様を祀っていたらしいの。」 「犬神様、、、聞いたことがあるな。いや、匠からじゃなくて、僕は、大学で民俗学を専攻していたんですよ。うん、聞いたことがある。」 「私、正直、気持ち悪かったんだけれど、やっぱり匠さんが好きで、それは、仕方ないと目をつぶることにしたのね。でも、婚約の報告に一人で広島に行って、東京に帰ってからの匠さんは、その犬神様を止めちゃったんです。ご本尊みたいなのを捨てちゃった。それに、余り喋らなくなったんです。きっと、広島で何かあったのよ。そう思うの。」 「広島に行ってから様子がおかしかったんだね。それに、犬神様か。うん、そこに何かあるかもしれないね。」 犬神様なんて、普段では聞くことのない言葉だ。 僕も、資料でしか見たことが無い。 匠の死を探る目的ではあるが、犬神様について調べてみたくなっていた。 匠には、少し悪いが、ワクワクとした気持ちを感じていたのだ。 「はい、駅弁。ありきたりのシウマイ弁当ですけど。」 怜子さんが、僕に駅弁の1つを手渡してくれた。 「シウマイ弁当はね、冷めても美味しいように作られてるんですって。」 そう怜子さんが言ったが、僕は生返事を返しただけだった。 僕は大阪生まれなので、焼売とか豚まんと言ったら、やっぱり551の味が身体に沁み込んでいるのだ。 あれは、新幹線で食うには、はた迷惑なほどクサイが、やっぱり美味い。 「あ、551の方が美味しいって思ってるんでしょ。匠さんも、いつも、そう言ってた。」そう言って、笑って見せた。 「どうかな。」また生返事で答える。 弁当を食べ終わった頃、車両の後部から、黒いスーツを着た50歳ぐらいの男性が歩いて来て、僕と怜子さんに声を掛けた。 「失礼だが、あなたは、匠の四十九日に行く怜子さんですね。」 「ええ、すいません、あなたは、、、。」 「ああ、私は、いや、匠の親戚のものですよ。これから四十九日の法要に行くんですよ。しかし、匠君は、残念でしたね。たぶん、鬱病か何かだったんだろう。本当にバカだよ。」 「でも、どうしても納得がいかないんです。」怜子さんが、男の上から目線の態度に、やや苛立った調子で答える。 「もう忘れなさい。匠の事も、今までの事も、すべてね。そして、法事が終わったら、すぐに東京へ帰ることだ。広島には、不吉な悪魔が住んでいる。長居は無用だよ。」 「でも、私、匠さんの事を忘れることは出来ません。」 「ダメだ。法事が終わったら、すぐに帰りなさい。それがあなたの為だ。匠君の死を追求すると、不吉なことが起こる。それと、あなたも同じだ。匠君の事は、忘れることだ。」 と、僕を指さした。 そして、また後部座席に戻って行った。 おかしい。 実におかしい。 どうして、僕と怜子さんだと判ったんだ。 会話が聞こえる距離でもない。 「あの人、本当に匠さんの親戚かしら。何か、すごく高圧的だったよね。」 「いや、何か、おかしい。だって、どうして、僕たちが、匠の法事に向かっているって分かったんだ。それに、怜子さんの名前も知っていたよね。」 「気持ち悪いわ。やっぱり広島に、何かあるのよ。」 「うん、何かあるね。それにしては、不自然な何かだな。あの男のカバン広島に法事に行くようなカバンじゃなかった。薄っぺらいビジネス用のカバンだ。スーツのピンバッチを裏返しに付けていただろう。さっきまで、どこかのオフィスで働いていたようにも見える。」 もう一度、男を見てみたくなって、立ち上がって後を振り返ったが、僕たちの車両には、そんな男はいなかった。 実に、おかしい。 別の車両に座っていたなら、この座席に僕たちがいることも知らない筈である。 それを、わざわざ、僕たちに話しかけるために、別の車両から歩いてきたのだろうか。 或いは、尾行されているのか。 漠然と、そんな思いを抱いていた。 事の始まりは、3ヶ月ほど前の事になる。 急に会わないかと、匠からメールが来たのだ。 匠とは、京都大学で同じ学部の同級生だ。 僕は、大阪生まれで、そのまま地元で受験をして、まあ試験の為の努力はしたが、たまたま京都大学に入ることが出来た。 その後、東京に出て、今は週刊誌の記者をしている。 匠は、広島で生まれて、受験を機に京都へ出て来たのだ。 そして、卒業後、東京で外食チェーン店に入社して、今は役員だ。 わずか30歳にして、役員とは、随分と出世街道を猛スピードで駆け上がっているのだけれど、見た目は、どちらかというと、おっとりしているタイプで、僕もまさか、役員にまで上り詰めるとは思ってもいなかった。 ただ、何かとラッキーな男で、ここぞというタイミングでは、必ず勝ち組に入っているのだ。 そんな匠から、誘われて、馴染みの居酒屋に行くと、既に怜子さんと隣同士に座っていて、匠は嬉しそうに話をしていた。 「よう、久しぶりだね。」声を掛けたが、匠は怜子さんに話をするのに夢中で、僕には気が付いていない。 「ちょっと、匠さん。」そう言って、怜子さんが、僕が来ていることを匠に教えた。 「あ、ごめん。気が付かなかったよ。」 匠は、僕が座る前に、「彼女なんだ。」と怜子さんを紹介した。 僕は、匠一人で待っていると思ったので、少し戸惑ったが、そこは1分も経たないうちに、学生時代の会話にタイムスリップした。 東京へ出て来たころは、しょっちゅう会って飲み歩いたものだが、ここ半年は、合う機会がなかった。 まさか、彼女が出来ていたとは、びっくりだ。 とはいうものの、今日は目出度い日に違いない。 「実は、結婚を前提に付き合っているんだ。」 匠は、打ち明けたが、何かハッキリとしない表情である。 「どうした。幸せ絶頂の時なのに、何か引っかかってる表情だなあ。」 「はは、いや。今度さ、彼女の両親に挨拶に行くんだ。それを考えたら、緊張しちゃってさ。」 「バカ野郎。なんだ、そんなことか。」 「やっぱり、あれかな。『怜子さんをお嫁さんに下さい。』なんて、言わなきゃいけないのかな。あれは、どうも苦手なんだな。嫌だなあ。」 「大丈夫よ。匠さんは、性格も良いし、仕事も頑張ってるし。だって、今度、社長になるんだもん。お父さんだって、ビックリすると思うよ。30歳で社長だなんて。」 そう怜子さんが言った。 「おいおい、お前、社長になるの?そりゃ、スゴイじゃないか。いや、結婚の挨拶なんて、そんな話、どうでもいいよ。その社長の話聞かせろよ。」 「いや、たまたまなんだ。たまたま、次期社長候補のライバル的な役員が、会社に損害を出しちゃって、そのカバーを僕がしたんだ。そしたら、会長も僕を気に入ってくれたみたいでさ。会長と奥さんで、株の半分を持ってるからね。もう、鶴の一声っていうんかな。すぐに決まっちゃったんだ。」 「いやいやいや。それは奇蹟だよ。どうして匠は、そんな運がいいんだ。」 「さあ、どうなんだろう。」 「いや、どうなんだろうって、大学受験の時だって、途中で気分が悪くなって、保健室で寝てただろう。でも、京都大学に合格したよね。同じ試験会場だったから、印象に残ってるんだ。」 「ああ、そんなことあったね。まあ、たまたまだろう。」 「いやいやいや、それに、就職した時だって、たまたま内定した人が、別の会社に鞍替えして、補欠だった匠が入社することになったよね。あれも、たまたまっていうのか。」 「うん、たまたまだろう。もう、いいじゃないか、そんな話。」 「それに、トントン拍子で、今は、社長だ。スゴイじゃないか。これを運と言わずして何と言うんだ。」 「実力かもですよ。」横から、怜子さんが、嬉しそうに答えた。 「じゃ、匠が、こんな綺麗な彼女をゲットしたのも、たまたまか。」 そう笑いながら聞いたら、「いや、これは、必然だろう。僕たちは、巡り合う運命だったんだ。」と匠が嬉しそうに言って、最後に「ねーっ。」と、身体を斜めにしながら、怜子さんを見た。 怜子さんも、嬉しそうに、「たまたまかもよ。」と言って、悪戯っぽく笑った。 「まあ、ふたりでイチャイチャしてるといいよ。その内、僕も、可愛い彼女を見つけるもんね。」そう言って、ジョッキの底に残った2センチのビールを飲み干した。 しかし、思い起こして考えると、匠は、実に運がいいのだ。 何かあると、必ず、ライバルが落ちていったり、ラッキーなことが起こる。 この僕には、そんなこと起こった試しがないもんなあ。 お父さんの許可が出たら、結婚するつもりだという。 「結婚が決まったら、連絡するよ。結婚式には出てくれるよな。」 「ああ、でも社長に渡す祝儀の金額って、どんなだ。いや、それは無視して、友人としての祝儀を持って行くぞ。言っとくけど、僕は、金はないぞ。」 「期待してまーす。」怜子さんが笑った。 奥さんにするなら、明るい子がいい。 匠は、素敵な女性を見つけたものだ。 少しばかり、羨ましい気持ちになった。 そんなことがあった。 今でも、あの時の、匠の嬉しそうな顔が目に浮かぶよ。 そして、今、僕は怜子さんと、広島に向かっている。 新幹線の座席でドアの上の電光掲示板の広告を見ながら、当時の事を、思いだしていた。 あれから、3ヶ月しか経っていないのに、僕と怜子さんは、匠の四十九日の為に、こうやって、新幹線で広島に向かっている。 人間の死とは、こんなに身近なものだったのか。 新大阪に着いたら、結構な人が降りて行った。 そんな前方の車両の自動ドアの向こうに、男がいた。 いや、別に新幹線だから、男が乗っていたって不思議ではない。 でも、男は、どうも、こっちを観察しているように見えるのだ。 指定席なのに、席に座ることもしないで、ドアの向こう側に立っているのだ。 新大阪で、乗客が降りて行った後に、数秒の間、ドアが開いている時間に、ただじっと、こっちを見ていたのだ。 さっきの声を掛けて来た男ではない。 でも、同じ黒のスーツで、やっぱりペタンコのビジネス用の黒のバッグを持っている。 ドアが閉まったら、もう男を観察することはできなくなった。 しかし、あのペタンコのバッグには、何が入っているのだろうか。 いや、そんなことは、どうだってよいのである。 ただ、前の車両からも、僕たちを監視している人がいるのかもしれないと、またもや、漠然と感じていたのである。 「しかし、匠が、犬神様を祀っていたとは、それは知らなかったなあ。まあ、あれは、人に隠れてやることだからな。でも、匠の出世ぶりをみたら、ひょっとして、犬神様もいるのかもしれないと思っちゃうな。」 「あの、犬神様って、どんな宗教なんですか。」そう怜子さんが聞いてきた。 「いや、僕も、実際には見たことが無い。でも、聞いたところによると、あれは、生きた犬を殺して、その頭をご本尊にするんだ。勿論、そんな残酷なことは、昔の世界でも許されることじゃない。だから、人に隠れて信仰するんだ。でなきゃ、村八分にされるそうだよ。」 「犬を殺すの?わたしも詳しくは教えてもらってないの。匠さん、ひとりで部屋にこもってお祀りしていたから。」 「まあ、匠も、それは話しづらかったんだろうな。犬神様はね、自分の飼っている犬を、山の中に埋めるんだ。穴を掘ってね、そこから頭だけを出して、全身埋めちゃうんだ。それで、何日もエサを与えないで放っておくんだ。それで、犬もお腹が減って、もう死にそうってときに、目の前に美味しそうなご馳走をポンと置くんだ。すると、犬は大喜びで食べようとするよね。その時に、バサッと首をはねるそうなんだ。残酷だよね。それで、胴体の方は、そのまま土に埋めて、その上に祠を立てる。それで、頭は家に持って帰って、御本尊にしてお祭りするそうだ。」 「嫌だあ。匠さん、そんなことしてたんだ。でも、話を聞いたとき、父親に反発してきた気持ちもあって、匠さんの犬神様も許してあげようと思ったのね。実は、父親は、動物愛護団体のスタッフでね。ペットだけじゃなくて、牛とか豚も、殺しちゃいけないってほど、熱心な人だったの。だから、基本的に、うちは菜食になっていったのね。でも、高校生になったら、みんなでハンバーガーとか食べに行くでしょ。ハンバーガーって、肉じゃない。あれもダメって言われてたの。だから、いつも親と喧嘩してたの。今は、一人暮らしだから、ハンバーガーも食べ放題だけれどね。」 「そうなんだ。だから、匠のやつ、お父さんに結婚の報告に行くの嫌がってたのかな。」 「いいえ、お父さんには、犬神様の話はしないでおこうって決めてたから、それが原因じゃないわ。普通に、お父さんが怖かったのよ。意外と、小心者なのよね。ふふ。」怜子さんは、匠の思い出話になると、少し目尻が下がった。 匠を失った悲しみも、少し薄れているのだろうか。 いや、薄れる筈はないだろうけれど、死んだことを現実の事として受け止められるようになってきたのかもしれない。 「でも、匠さん。本当に、犬を殺したのかしら。そんな匠さん、想像できないわ。」 「まあ、広島で殺したんなら、誰かに、無理やりやらされたんだろう。」 僕も、匠が自らすすんでやったとは思えない。 或いは、匠の実家にその理由があるのかもしれないな。 「あの、平山さん。実は、もう1つ、自殺の原因じゃないかと疑ってることがあるの。匠さんのおじさんって、田部総理だってご存知でした?」 「ああ、学生時代に、その話題になって、お前も将来は、総理かなんて冗談で話してたんだ。でも、普段は、交流もないらしいから、ほとんどお互いに知らないそうだよ。親同士は、たまに会って食事をしたりしているそうだけれど。」 「私も聞いたときは、びっくりしちゃった。匠さんが、田部総理の親戚だなんて。でも、そう、全然、繋がりはなかったんです。でも、ある時、総理の知り合いと言う人が、匠さんに連絡をとってきたらしいの。始め聞いたとき、ウソでしょって思ったんだけれど、どうも本当らしいの。なんでも、匠を、田部総理の後継者にしたいみたいのよ。ウソみたいでしょ。それで、政界入りをするようにって。」 「ええっ。匠が政界に?それは、無理だろう。政治家向きじゃない。」 「そうよね。私も、そう思ったの。」 「でも、かなり強く誘われてたみたいなのよ。」 「でも、匠の出世ぶりを見ていると、政治家でもやっていけるのかもしれないな。」 「それは、絶対に無理よ。それに、私は、反対だった。だって、今のままで十分じゃない。」 「匠は、どう言ってたんだ。」 「あまり乗り気じゃなかった。」 「そうだろうな。」 「でも、あまりに強く勧められるんで、だんだん、やってみようかなんて、そんなことも考えだしていたみたいなの。ある時、僕が政治家になったら嫌か?なんて、聞いてきたもの。」 「それで、怜子さんは、何て答えたの。」 「匠さんが、やりたいなら、それでもいいって、答えたわ。だって、匠さんが、やりたいなら仕方ないでしょ。匠さんの、やりたいようにさせてあげたかったの。でも、それが間違いだったのかな。そのせいで、匠さんが、自殺しなきゃいけなくなったんじゃないかな。」 「どうして、そう思うの。」 「匠さんが、広島に、婚約の報告に行ったでしょ。その時に、実は、匠さん、田部総理と会ってるのよ。広島で。田部総理も広島出身でね。ひょっとしたら、そっちの方がメインだったのかもしれないわ。だって、婚約の報告だったら、私も、一緒に行こうって、誘うでしょ。でも、1人で広島に行った。婚約の報告もあったけれど、実は、広島で、田部総理に会うのが目的だったのかもって思いだしたの。」 「ふーん。面白い話だな。いや、ごめん、面白いって言ったのは、話としてだよ。しかし、匠が、総理ね。想像できないな。でも、どうして、匠なんだろう。他に、もっと後継者がいるんじゃないだろうか。」 「田部総理には、子供がいないらしいわ。だから、親戚の匠さんに目を付けたんじゃないかな。」 「そうかあ。」 そんな話は、匠からも聞いていていなかった。 子供がいないから、後継者を、親戚の匠にという流れは、解らないでもない。しかし、他に親戚はいなかったのかな。それに、政治なんて、特殊な世界だ。もっと政治に詳しい人を育てて行くっていうことを考えなかったのだろうか。 「匠が、、、総理。匠が、、総理、匠が総理。」 と呪文のように唱えながら、匠が広島に行った時の事を考えていた。 怜子さんの言う通り、田部総理との接点に、何か原因があるのかもしれない。 いずれにしても、広島に着いてからだ。 広島駅から、まずはホテルに荷物を預けに行く。 駅前から路面電車に乗って、紙屋町まで移動して、ビジネスホテルにチェックインした。 「匠のご両親に会いに行く前に、お昼ご飯でも食べましょう。」そう怜子さんを誘った。 「広島と言えば、、、、何かな。」 「お好み焼きとか、牡蠣とか、もみじ饅頭?他に何かあるかな。」 そんなことを話しながら歩いていると、むさしという、おむすびとうどんのお店があったので、入ることにした。 僕と怜子さんは、おむすびに、うどんのセット。 それに、鶏のから揚げを1つ取って、シェアすることにした。 料理が運ばれて、まず、最初に鶏のから揚げを取ろうと箸を伸ばしたら、怜子さんも、同じように唐揚げに箸を伸ばした。 2人の箸の距離が、触れてはいないが、わずか2センチほどになった時、ドキリとする僕の感情の動きを、僕自身が誰よりも驚いた。 友人の元婚約者、それも、友人が亡くなったばかりだというのに、その彼女にドキリとしたのである。 不謹慎極まりない。 しかし、改めて怜子さんを見ると、今流行りのテカテカとした艶のあるリップクリームじゃなくて、マット調の地味な暗いピンクのルージュが、むしろ、唇の肌合いを強調していて、どうにも色気を感じる。 薄化粧の下から、ほんの少し感じられる皮膚の質感から、目を離すことができなくなってしまった。 それにしても、どういう神経をしているのかと、自分自身を疑うが、確かに、彼女を友人の元婚約者という存在を、どこかに隠して、怜子さんを見ているのである。 果たして、匠も、こんな感情で、怜子さんを見つめていたのだろうか。 いや、もっと先を見つめていたに違いない。 これから始まる結婚生活に、楽しい新婚時代や、子供が出来て、バタバタと慣れない子育てをして、やがて二人で老後を送る。 そんな将来を見つめていたに違いないのである。 その匠が、死んでしまった。 将来なんて、先のことなど見ないで、僕の様に、目の前の女性だけを見つめる方が正解かもしれないぞ、そう死んだ匠に言ってやりたい気になった。 こんな綺麗な女性を置き去りにして、死んでしまうなんて、どうかしているよ、匠。 「おむすびと、うどんのセットって、最強だね。」と怜子さんが、ビックリするぐらい明るく言った。 「炭水化物ばっかりだね。」そう答えて、2人で笑った。 あの世の匠が、今の僕と怜子さんの会話を聞いていたら、或いは、嫉妬しただろうか。 そう思いながら、天井を見上げた。 天井を見上げては見たが、果たして、あの世は、上の方にあるものなのだろうか。 ひとり首をひねって、また、うどんをすする。 それを見て、怜子さんが、吹き出しそうに笑った。 僕は、その怜子さんの笑う姿を見ていたが、その視線の先で、うどんをすすっている男を見て、おどろいた。 あの新幹線の新大阪駅で、車両の自動ドアの向こうに立っていた男だ。 立って、じっとこちらを見ていた男が、今、同じ店で、うどんをすすっている。 僕たちは、つけられていたのだろうか。 いや、どっちが先に、この店に入ったんだ。 それにしても、これは偶然じゃない筈だ。 少し動揺しながら男を見ていたら、男がこっちを見て、そして、また下を向いて、ニヤリと笑ったようだった。 「どうしたの?」怜子さんが、不審そうに聞いた。 「いや、新幹線で、僕たちを自動ドアの向こうから見ていた男がいる。しかも、こっちを見て、意味ありげに笑ったんだ。」 「えっ、何か、怖いわ。」と、後ろを振り返ろうとしたのを止める。 「見ない方がいい。兎に角、何か変だ。やっぱり、匠と田部総理に関係しているのかもしれない。どうみたって、普通の人じゃない。総理の秘書とか、或いは、陰で動いている人物のような気がするな。兎に角、早く食べて、この店を出よう。」 奇妙な昼食を終えたら、僕たちは、広島駅に戻り、宮島口の匠の両親に会いに行った。 明日の四十九日の法事の前に、会っておきたかったのだ。 古くからありそうな木造の一軒家のチャイムを押すと、匠の母親が出て来た。 「よく来てくれたわね。あなたが、怜子さんね。会いたかったわ。」 怜子さんは、何も言わずに頭を下げた。 「僕は、匠君の友人で、平山と言います。葬式には出席できなかったので、明日の法事に来させていただきました。」 「ええ、怜子さんから聞いているわ。」 6畳の居間に通されて待っていると、父親も出て来て、座卓に両手をつきながら、足をかばって、横座りをした。 「あ、君たちも、足をくずしなさい。わしも、足が悪くてな、こんな座り方で失礼するけん。」 父親は、まだ60代だと思われるが、日焼けのせいか皮膚も皺だらけで、どうみたって10歳は老けてみえた。 「わざわざ家にまで来てくれて、ありがとうな。あなたが怜子さんか。綺麗な人じゃないか。こんな綺麗な人を残して死んでしまうなんて、ほんとに、あいつは、どうなっとるんじゃ。」 「本当に、まだ信じられないんです。お父さんも、大丈夫ですか?お疲れになってないですか。」 「まあ、ちょっとは落ち着いてきたか。死んだと聞いたときは、びっくりしたけどな。でも、死んでしまったんじゃ、もう仕方がない。」 僕は、すぐにでも父親と母親に、匠の広島に帰って来た時の話を聞きだしたかった。 「お父さん、実は、勿論、今回の目的は、匠君の四十九日なんですが、どうして、匠君が自殺したのか、それを知りたくて、やってきたんです。なんでも、この広島に来てから、様子がおかしかったっていうので。」 「まあ、それには、あまり触れない方が良いかもしれないな。」しゃべりたくないという表情で、首を振った。 「やっぱり、この広島に何かあるんですか。田部総理が原因ですか。」 僕は、矢継ぎ早に父親に質問したが、父親は両手を組んだまま、下を向いてしまった。 「遠くまで、ありがとうね。疲れたでしょう。」と、母親が氷をコップ一杯に入れたコーラを持って来た。 「あのう、匠さんの自殺について、何か思い当たることはないですか。」怜子さんが、母親に聞いた。 母親は、ちょっと父親の顔を見て、「あんまり変なことを言うと、他の人に迷惑がかかるかもしれんしね。あまり考えないようにしているのよ。それにしても、こんな綺麗な婚約者がいたのにね。」そう言って、ハンカチで目元を押さえた。 「あのう、匠君が、広島で、田部総理に会っていたというのは、御存じですか。」 事実を1つずつ確認して行くべきだろう。 「ああ、会ったのは知ってるよ。本家の田部んとこは、子供がおらんからな。匠を自分の後継者にしようと考えとったんやろ。ちょうど、匠が死ぬ1か月ぐらい前に、そんな話をしよったわ。養子にしたいって言ってたのう。」 「田部総理の養子ですか。」 「養子縁組して、政界入りをさせるつもりだったようだ。あそこも跡取りがいないからなあ。」 「それで、匠君は、どうしようと思ってたんでしょうね。」 「さあ、どうなんだか。わしらは、養子に行っても、実の親子であることは変わりないもんでな。匠に任せるっちゅうことで、あまり話は突っ込んでしなかったんや。匠は、どう思ってたかは、それは解らんなあ。」 「そうですか。その田部総理が、今回の匠君の自殺に関係しているとは考えられないでしょうか。」 そう言うと、父親は、またもや、聞かれたくないのか、腕組みをして上を向いた。 やはり、父親も、田部総理との関係が、自殺に関係していると感じているのかもしれない。 何か、確信があるのか、或いは、漠然と感じているだけなのか。 「実は、田部総理との関係が、匠君の自殺に関係しているんじゃないかと、考えているんです。何か、知っていることがあったら、教えて貰えませんか。」 確かに、田部総理との関係が、直接的ではないにしろ、何かあるのではと思えて仕方がない。 父親は、黙っている。 「或いは、匠君は、広島で田部総理に会って、養子縁組の話と、後継者になる話をしている筈なんです。確信はないですが、そう考えるのが自然だ。でなきゃ、総理が匠君と会う理由が見つからないんです。」 「うーん。そうかもしれないな。だけど、どんな話したか聞いてないからな。」 そんな進まない会話を聞いていた怜子は、2人の会話に、もどかしさを感じたのだろう。 少し強い口調で言った。 「お父さん、お母さん。私は、本当に匠さんが、どうして自殺しなければいけなかったか知りたいんです。どんなことでもいいんです。小さなことでも、気が付いたことがあったら、教えてください。お願いします。」 言った後に、拝むように頭を下げた。 「怜子さん、ごめんなさい。あたしたちも、知っていることは少ないのよ。匠が広島に帰って来たのは、怜子さんと婚約したいっていう話をすることだったのよ。帰って来て、その日の晩御飯の時に、匠から聞かされた時は、本当にビックリしたわ。でも、話を聞いて、本当に良かったと喜んでいたのよ。本当よ。それで、次の日に、匠が田部の本家に話をしに行くって出て行ったの。田部本家っていうのは、田部総理の実家の事なのよ。今はもう、おじいちゃんの寅蔵さんも、おばあちゃんのタエさんも亡くなってるから、たぶん、話をしたのは、信ちゃんだと思うわ。信ちゃんっていうのは、今の田部総理の事ね。昔は、みんな信ちゃんて呼んでたわ。でも、そういえば、帰って来てからは、言われてみれば暗い表情だった気もするわ。」 と、お母さんが、申し訳なさそうに話をしだした。 「もう、よせ。終わったんだ。」 父親は、話を止めようとしたが、母親は続けた。 「いいじゃないの。本当は、匠の嫁になってた人なのよ。言ったら、家族みたいなものでしょ。少しぐらい話してもいいじゃないの。本当に、信ちゃんと会ったことが、自殺の原因だったのかしら。信ちゃんはね、今は総理で、そりゃ力のある人だけれど、総理になる前もね、田部家の長男だから、このあたりでは、かなりの力を持ってたの。だから、無理難題を言う事ぐらい平気な人なの。匠に無理難題を押し付けても、納得できる話よ。」 「さっき言ってた養子縁組の話は、すすまなかったんですか。」 「ええ、その時は、匠が嫌がってたので、断ったの。」 「でも、匠さん、田部総理に、政界に入って、後継者になることを持ちかけられてたみたいなんです。それで、匠さん、広島に行ったみたいなんです。」 「やっぱり、そうだったのね。でも、それと自殺と、関係あるのかしら。」 「そうですよね。別に断ればいいだの話ですもんね。」 怜子も、話に行き詰ったようで、考え込んでしまった。 匠は、本当は、どう思っていたのだろう。 仮に、政界入りをするために、養子になれと、田部総理に提案されたとする。 もちろん、結論を出す権利は、匠にある筈だ。 もし、嫌なら、断ればいい。 いや、そもそも、田部総理に会わなければ良いだけの話だ。 じゃ、田部総理の後継者になってみようかと思ったのだろうか。 匠の性格から、政界なんて柄に合わないことは、匠自身が知っている筈だ。 でも、匠の今までの順調な人生を振り返ってみると、或いは、これから政界に入ったとしても、このまま順調に出世していくかもしれないと考えても不思議はない。 今の年で、社長にまで出世したんだ。 見た目も、性格も、そんな風に見えないんだけれど、何故か順調に出生してきた。 じゃ、政界入りを考えたとする。 そう仮定すれば、田部総理に会ったという匠の行動も素直に頷ける。 そこで、どういう話をしたかだ。 田部総理が出した条件は、田部総理の養子になることだろう。 本家の血筋が絶えることを恐れただろう。 実際には、田部信之助の血筋じゃないけれど、兄弟の息子なら、同じ血が流れていると言えなくもない。 それに、田部の本家から、総理大臣を続けて輩出させたかったのかもしれない。 それには、田部家の血の系譜が繋がる匠しかいなかったのだろう。 しかし、田部家の養子になることが、嫌だったのなら、そこでも断ることが出来る筈じゃないか。 政界入りを諦めることになるかもしれないが、自殺する原因には、繋がらない。 だったら、そこで他に何か、総理から提案のようなものがあったはずだ。 それを聞いたら、後には引けなくなる何かがあったはずなのだ。 しかも、相当なものであったに違いない。 聞いたら後には引けない何か。 いくら考えても、思いつかないでいた。 僕は、一度、匠の家系を整理する必要があると思った。 「あのう、匠君の家系は、どうなってるんですか。匠にとって、田部総理は、おじさんだと聞きましたけど。」 すると、お母さんは、残っていたコーラを最後まで飲み切って話し出した。 「そうね、何から話しをしようかしら。匠の親は、私たちでしょ。あたしは和子ね。それで、この人は、三男。三男だから、みつおって、単純でしょ。」そう言って、少し笑った。 すると、お父さんが、「あまり深入りすると、エライことになるぞ。田部の本家は、わしら次男や三男とは、昔から格が違うんじゃ。住むところも違うし、相続の配分も天と地じゃ。本家に逆らうものは、エライことになるぞ。もう、ええかげんにしろよ。」 そう言って、部屋を出て行った。 おかしい。 話の途中で出て行くなんて、どういうことだろう。 言ってはいけないことがあって、母親が、それを喋ってしまいそうなら、そばにいて、母親の話を止めるはずだろう。 しかし、父親は、話を置いて出て行った。 話してはいけないことを言うかもしれない母親を、僕たちの前に残して。 或いは、触れて欲しくはないが、息子の自殺の原因を知りたいという気持ちが、こころの底に残っているのかもしれない。 そして、その気持ちを、僕たちに託したのか。 「ごめんね。お父さんも、まだショックが残ってるのよ。」 「いえ、それで、お父さんと、お母さんの、ご両親は、どういった人なんですか。」 「ええ、あたしたちの父親は、寅蔵っていうの。島に住んでいたわ。寅蔵さんには、兄弟がいて辰蔵さんっていうの。島に住んでたけど、次男なんで、広島の市内に出て行ったわ。島には、長男しか住めないって言うか、それだけ長男の権力が強いのね。それで、その寅蔵さんの子供ね。それが、長男が、総理大臣してる信之介さん。それで、次男が有二郎さん。その人は、マヤさんという人と結婚したんだけれど、結婚して5年ぐらいで死んじゃったの。それで、三男が、うちのお父さん。そんな感じよ。」 「なるほど。だいたいの家系は、解りました。田部家は、昔から政治と関係があるんですか。」 「政治に関係するようになったのは、信之介さんだけよ。もともとは、この辺りを陰でまとめる役をやっていたみたいなの。広島から岩国の西辺りまでの土地を、いくつも持っていたの。そこで、いろんな産業に手を出していたみたいね。製糸工場もやってたそうだし、海産物を扱う業者もやってたみたいだし、不動産とかね。それで、この宮島の近くにも大きな御殿があったのよ。ただ、そこは、今もう無いわ。あるのは島だけ。その島も、今は誰も住んでなくて、というか、もともと長男しか住まない島だったんだけれどね。それだけ特別な島だったのよ。昔のあの有名な村上水軍さえ、近寄らなかったそうよ。」 「そうなんですね。それだけ大きな力を持ってたんですね。」 「でも、今は、もう廃れてしまって、残るのは島と総理大臣だけ。といっても、まだまだ、このあたりでは、影の支配者みたいよ。」 「じゃ、お母さんも、影の支配者の1人なんですね。」と冗談交じりに言った。 「そうよ。陰の実力者よ。ははは。そうだったらカッコイイんだけどね。あたしらは三男だから、関係ないわ。寅蔵さんの遺産なんて、ほとんど貰えなかったしね。こんな貧乏生活よ。」 「それで、島っていうのは、どこにあるんですか。」 「島は、この広島の沖にあるの。交通手段もないから、船をチャーターしなきゃいけないわ。神伏島っていうの。誰も知らないし、近寄らない島よ。」 「行ってみたいな。」 「止めた方がいいわ。あたしも結婚の報告と、寅蔵さんの葬式にしか行ったことがないもの。あんなとこ、誰も行きたいと思わないわ。」 「そしたら、誰もいないんですよね。」 「ううん。余次郎さんだけ住んでるわ。島をひとりで守ってる。というか、島の家の管理をしてるのね。ずっと島に住んでるわ。」 「一人だけですか。」 「ええ、一人だけよ。」 僕とお母さんの話を、真剣に怜子さんが聞いている。 匠と、田部総理は、どこで会ったのだろうか。 普通なら、広島市内の料亭か、聞かれたくない話なら、ホテルの部屋か。 或いは、この島で会ったということも考えられるな。 他に誰も来ないから、邪魔をされたり、話を他の人に聞かれる心配もない。 場所は、さておき、さっきの何を話したかだ。 と考えていた時に、あることを思いだした。 犬神様だ。 匠は、犬神様を祀っていたという。 それなら、お父さんとお母さんの、この家でも犬神さまを祀っているはずだ。 或いは、田部総理も、犬神さまを祀っていたかもしれない。 いや、祀っているに違いない。 「あのう。非常に聞きにくいことを聞くんですけど、、、。お母さんの家の宗旨は何なんですか。」 「えっ。宗旨、、、。浄土真宗ですよ。」 少し戸惑ったような表情に見えた。 「実は、匠君が、普段から、犬神様を祀っていたようなんです。だから、お母さんとこも、ひょっとして犬神様を祀っているのかなと思ったんです。すいません。」 「あのう。匠さん、広島へ帰ってから、犬神様のご本尊を捨ててしまったんです。だから、何か犬神様に関係することが、広島であったのかなって思うんです。」 怜子さんが、少し小さな声で、しかしハッキリと母親に聞いた。 「怜子さんも知っていたのね。今まで絶対に誰にも言ってはいけないと教えていたのに、やっぱり怜子さんにだけは打ち明けたのね。本当に、怜子さんを信じてたのね。」 そう言うと、お母さんは、怜子さんを、じっと見つめて、すこし頷いたように首を少し縦に振る。 「そうよ。実はね。田部家と言うのは、昔から代々、犬神様を祀って来たの。あたしも、嫁ぐ、その日に聞かされたのよ。その時は、びっくりしたし、怖かった。犬の頭が、御本尊って聞いて、目の前が真っ白になったわ。怜子さん、あなたも、びっくりしたでしょう。」 「ええ、びっくりしました。でも、匠さんが、匠さんが信仰してるなら、仕方がないし。それで、別れようとは思わなかったんです。普段の、匠さんは、優しかったし、普通の感覚の人でしたから。ただ、犬神様だけが、違ってただけ。初めて、御本尊を見せられた時は、鳥肌が立つぐらい怖かった。それに、匠さんが拝んでいるところを見たら、この人と結婚していいのかなと迷ったりしました。でも、普段の、それ以外の匠さんは、本当に優しくて、素敵な人だったんです。だから、結婚しようと決めたんです。」 「怜子さん、それは可哀想だったわね。普通の男の人だったら、そんな体験しなくても済んだのに。いろいろ悩んだでしょう。あたしも嫁いできたのを後悔したわ。」 2人は、同じ体験をしてきた悩みを共有したようだった。 かなりオカルト的な宗教を、嫁ぐ相手の神様なのか仏様なのか、それを拝まなきゃいけなくなるという体験は、精神的に拒絶してしまっても、それが正常というものだろう。 しかし、それを受け入れて、オカルト的な本尊を、これから一生拝み続けなければならないのである。 嫁いだ先が、自分とは違う宗旨だったということは、普通にある。 例えば、仏教系を信仰する女性が、キリスト教の男性と結婚する場合もあるだろうし、神道系の宗教を信仰する家に嫁ぐこともあるだろう。 こんな場合、それぞれの個人の宗教を尊重することもあるだろうけれど、その嫁いだ家の宗教を守っていくこともしなきゃいけない。 まったく、新しい夫の宗旨に転向する人もいるだろうし、もともと信仰していた宗旨と、これから嫁ぐ家の宗旨の両方を信仰していく人もいるだろう。 これが、新興宗教になると、やや態度が頑なになるが、それでも、良くある話だ。 でも、犬神様のように、特殊なオカルト的な宗教になると、これはもう、ついて行けなくなるはずで、それを受け入れた怜子さんの気持ちは、お母さんの心に響いたのだろう。 「それで、匠君は、犬神様を祀るようになったのは、いつ頃なんですか。それに、犬神様というのは、お母さんのところにもあって、匠君のところにもあるということは、一人に一匹というのかな、こんな呼び方は不謹慎かな、一人に一つというのかな、御本尊があるんですか。」 僕は、犬神様について、詳しく聞きたかったのである。 「うちにあるのは、お父さんの犬神様よ。匠のは匠の犬神様。あれは、匠が中学1年生になったときかな。私は大反対したんだけれど、お父さんが、こういうのは早い方が良いっていうんで、匠に犬神様を作らせたの。思えば、中1で犬神様を作らせるのは、可哀想だったわ。」 「あれは、犬を土に埋めるんですよね。」 「ええ、良く知ってるのね。匠が中学1年の時、ポメラニアンを飼ってたの。その当時では、珍しい犬だったのよね。匠は、そのポメラニアンにポメって言う名前を付けて可愛がってたわ。ポメラニアンにポメっていう名前って、単純すぎるでしょ。匠は、もうアホやったからねえ。でも、毎日、『ポメ、ポメ。』って呼んで、可愛がってたわ。」 「ポメラニアンにポメですか。匠さんらしいです。」 そう言って、怜子さんが、口許を手のひらで押さえた。 下がった目尻に、匠への思いが笑顔となってこぼれる。 「そんなポメラニアンをお父さんが、犬神様にしろって命令したの。匠は、泣いて嫌がったわ。そしたら、ハンガーストライキをしたのよ、匠が。」 「ハンガーストライキ。」怜子さんが、言葉を繰り返した。 「ええ、もう犬神様にするぐらいなら、僕も死ぬってね。そりゃ、勢いよく自分の部屋に立てこもったわ。でも、3日で諦めて、部屋から出て来た。」 「3日で、やめたんですか。降参ですか。」 僕が言った「降参ですか。」が余程、怜子さんのツボにハマったのか、優しい笑顔のままで、プッと吹き出した。 「匠さんらしいです。優しいし、でも、弱い部分もあったんですよね。でも、そこが好きだった。最後まで自分を通すんじゃなくて、周りの人の事も考えての降参だったように思えるわ。」 それを聞いて母親も、少し涙ぐんで、「怜子さんが、そんな風に言ってくれるの、すごく、うれしい。匠の弱い部分も受け入れてくれてたなんて。」 お母さんも、怜子さんも、匠への思いがこみ上げて来ているようだ。 だけれど、僕は、そんなことより、犬神様の事が知りたいのだ。 「それで、お母さん、匠君は、中学1年の時に、飼ってたポメを犬神さまにしたんですね。山に埋めたんですか。」 「ええ、島にある山に埋めに行きました。犬神さまは、他の人に見られちゃいけないので、島でやるんです。」 「それで、首まで山の土に埋めて、1週間ぐらいエサも水もやらずに、放っておいた。」 「ええ、それで1週間経ったら、お皿いっぱいの食べ物を乗せて、ポメの目の前に置いたの。その時に、お父さんが、『今や。』って言ったので、匠がポメの頭を昔からある刀で切り落としたの。あの時の匠は、ずっと手がブルブルと震えてた。可哀想だったけれど、あたしには止められなかったの。」 「匠さん、可哀想。」 そう、怜子さんが、呟いた。 「それで、犬の胴体は、山に埋めたままなんですよね。」 「ええ、胴体を埋めたところに、そのまま土を盛って、小さな祠を立てたわ。」 「それで、頭は、家に持ち帰った。」 「ええ、家に持ち帰って、祭壇に供えたの。毎日毎日、匠は、祭壇の前で、『ポメ、ポメ、ポメー。』って泣いてた。」 なるほど、僕が知っている犬神様の話と、大体、同じだ。 それにしても、犬の頭をご本尊にするって、どういう気持ちなんだろうな。 犬が神様か、、、。 「それで、匠は、犬神様を祀ることを受け入れたんですね。」 「ある事件があってから、もう犬神様がなくてはならなくなったんです。」 「ある事件って。」 「あれは、匠が中2の時だったかしら。匠は、同じクラスの男の子にいじめられてたの。匠は、あたしたちには、何も言わなかったけれど、お金を要求されたり、暴力を振るわれたり、悩んでいたようなの。それが、わたし見ちゃったんだけど、匠が犬神様に『ポメッ。良太を消してくれッ。』って、命令していたの。」 「ポメに命令ですか。」 「ええ、犬神様にお願いするときは、相手は犬でしょ。だから、命令するの。お願いしますじゃなくて、これをしろっていう感じで言うの。そしたら、1週間もしないうちに、その子が転校になったのよ。それを、匠は、犬神様のお陰だと思って、それから熱心に拝むようになったわ。あたしには、犬神様を拝むのが、良いことなのか、どうなのか解らないんだけれど。」 「そうなんですね。それなら、犬神様もご利益があるのかもしれないですね。実際に、最近、社長にまでなったんだから。」 「それも、犬神様のご利益ですかね。でも、匠は、死んじゃったんですよ。そんなご利益があるとは思えない。」 「気持ちは解ります。」そう言うしかなかった。 「それじゃ、田部総理も、犬神さまを祀っているということですね。」 「そうよ。島に犬神さまの祠があるわ。でも、頭の御本尊は、たぶん、東京の自宅にあるんじゃないかしら。」 匠は、犬神様を祀っていた。 田部総理も、犬神様を祀っている。 そして、その二人が広島で会った。 その後、匠は東京へ帰って来て、犬神様を捨てた。 匠の自殺に、田部総理と、犬神様が関係していると考えるべきかもしれない。 しかし、一体、どんな関係なのか。 1匹の犬神様じゃ足りないから、もっと沢山の犬を殺して犬神様を祀れということなのか。 それにしても、それなら、やっぱり断れば良いだけの話だ。 自殺する理由にはならない。 匠が総理と、会う。 そして、政界入りを提案される。 総理は、条件を提示するだろう。 例えば、匠のバックアップ体制だ。 総理の地盤を分けてくれるという話なのか、或いは、お金の援助か、兎に角、そういう話をするだろう。 ただ、それでも、衆議院議員になるには、相当な努力と、実力が必要だろう。 或いは、民間からの大臣として起用することも考えられる。 しかし、匠に、他の人を説得させるだけの肩書も実績もないだろう。 だとしたら、何を総理から提案されたのか。 いや、提案という優しいイメージではないのかもしれない。 或いは、脅迫とか、命令のような、そんなものなのだろうか。 断ることのできない何か。 、、、、匠に、何か弱みでもあったのか。 総理が、父親にも母親にも、養子にしたいって言ってたのだから、当然、その話もしているだろうな。 その話を聞いて、断った、、、、。 父親と母親を気遣って、断っただろうことは、匠なら、そうするかもしれない。 もし、養子になっても構わないと考えていたら、問題はないはずだ。 悩みはするだろうけれど、自殺する理由にはならない。 田部総理の他に自殺の理由があるのだろうか。 「あ、お母さん。匠は、総理と会ってから、何か言ってましたか。」 「いいえ、何も言ってはいないわ。ただ、暗い表情だったような気がする。」 「じゃ、政界進出や、養子の話は、したのかな。」 「さあ、どうでしょう。でも、話は断ったような気がするわ。ただ、想像だけど。匠は、そんな、政界なんて、興味ないんじゃないかな。」 「私も、匠さんは、政治には向かないと思うんです。」 そう怜子さんが、呟いた。 そして、考えながら、ゆっくりと続けた。 「それに、広島に行く前は、あたしに、政治の方面に進んだら嫌かって、聞かれたことがあるんです。だから、匠さんも、その気があるのかなって思ってたんです。でも、帰って来てからは、そんな話しなくなったし、その話はしたくないような雰囲気だった。たぶん、断ったんじゃないかと思ってたんです。」 「そうよね。匠は、政治には向かないわよね。」お母さんが、怜子さんの意見に賛成した。 それなら、ますます、自殺する理由がなくなる。 じゃ、どこから手を付けてよいものだろうか。 「ねえ、折角だから、夕ご飯でも食べて行ったら。」 お母さんが、怜子さんと僕を誘った。 犬神様を祀る家に嫁いだお母さんが、これから嫁ごうとしていた怜子さんに、共感する部分があったのかもしれない。 そう思うと、犬神様を祀る家の嫁の苦労が解るというものだ。 「いえ、お父さんも、お母さんも、明日の準備もあるでしょうし、今日は、失礼します。また、明日の法事には参りますので。」 折角、広島に来たのだから、夕食は、広島のネオンの灯る街で食べたいというのが、本音だった。 匠の実家を出て、広島市内の紙屋町の ビジネスホテルまで戻って来た。 「怜子さん、どこか、ビールでも飲みに行きましょう。」 「ええ、匠さんの実家に行って、ちょっと緊張しすぎて、疲れちゃったね。広島だから、、、、。」 「広島だから、、、、。また、同じようなものしか思いつかないね。」 「お好み焼きと、牡蠣だよね。」 お互いに顔を見合わせて笑った。 今日1日、一緒に居ただけなのに、匠の婚約者という感じじゃなくて、僕の恋人のように思えてしまう瞬間がある。 それは、詰まりは、距離の問題だろう。 物理的な距離。 朝から、新幹線のシートで隣り合わせだ。 そして、宮島へ行く電車の中でも、隣に座っていた。 2人の間の距離に、時間を掛け合わせたものが、実は、女性に限ってだけれども、その人を好きになる条件の1つでもあることを今回知ったような気がする。 沖縄と北海道と、遠く離れてる男女が、いくら時間を掛けても、好きだという感情は生まれない。 いくら美人が通勤電車の中で隣り合わせに座っても、そこに恋愛感情は生じない。 でも、隣に女性が5時間座っていたなら、そして、その女性が嫌いなタイプじゃなかったら、かなりの確率で好きになってしまうのじゃないだろうか。 今日も、新幹線の中で彼女の匂いを感じていた。 それは、うっとりとするような香じゃなくて、匂いのしない匂いのような感覚だ。 或いは、空気と言っても良いかもしれない。 彼女の周りに漂っている空気が、ゆるやかに僕の身体の周りに、纏わりついてくる。 ひょっとしたら、僕の空気も、彼女の身体に纏わりついていたのかもしれない。 ふと彼女を見ると、横顔だ。 横顔ほど、男の心をドキリとさせるものは無い。 たとえば、朝のラッシュのホームで、隣を歩いている女の子が可愛いなと思って、少し速度を上げて、女の子を追い抜いて、少し距離を置いて振り返る。 正面の顔を見て、自分のした行動が無意味だったことを知る。 女は、正面から見るものではない。 ただ、極まれに、正面から見ても美人である場合がある。 あれは、どうも、奇蹟に近いのである。 しかし、どうして僕と言う存在は、倫理観の乏しい人間なのだろうか。 怜子さんは、匠を亡くして悲しみに暮れている。 その彼女を、一瞬でも恋愛対象として見てしまったことを恥じた。 「そうだ、どこか居酒屋でも行きましょう。居酒屋なら、ちょっとした広島名物もメニューにあるんじゃないかな。」 「そうね。牡蠣とかお好み焼きもあるかもね。」 いたずらっぽく怜子さんが笑った。 まだ早い時間の流川から数筋横にそれたところで見つけた地元の居酒屋に入る。 まずはビールとアテを数点頼んだ。 「それじゃ、乾杯。、、、いや、乾杯はおかしいか。今日は、お疲れさまでした。それと、匠の死ななきゃいけなかった理由が解ることを祈って、、、。」 僕は、生中のジョッキを、一気に、底に3センチぐらいしか残らないぐらいまで飲み干した。 しかし、少しばかり疲れたか。 「平山さんは、お父さんと、お母さん、何か隠してると思う。」 そう聞いてきた。 やっぱり怜子さんも、そこが気になっていたのだろう。 「僕も気になってたんだけど、総理と会った時の話の内容とか自殺の真相は、知らないみたいだね。でも、こころでは、何かあったと思ってるんじゃないかなと思ってるけど、表立って口に出せないって感じだったな。」 「そうよね。何か、隠してると言うよりも、、、うん、何かあるんだよね。」 「相手は、総理大臣だ。それに、親戚でもある。そんな相手を疑っていても、確証がない限り、滅多なことは言えないからね。」 「そうだよね。」 「それにしても、代々、犬神様を祀るって、いつごろからなんだろう。江戸時代かな、いや、もっと古いのかな。」 「あたし、匠さんが、ポメラニアンを殺すところ、想像できないわ。きっと、嫌で、嫌で、怖かったんじゃないかな。お母さんの話を聞いたら、もう泣きそうになっちゃったの。きっと自己嫌悪に陥ったと思うわ。」 「殺すってね、そうとう勇気いるよね。それも可愛がってたポメラニアンだもんね。」 「その後、ずっとポメに謝ってたんだよね。どうして、そんなこと、させられなきゃいけなかったんだろう。」 「それが、代々伝わって来た掟なんだろうね。犬を殺さなきゃ、本家から、相手にされなくなる。」 「それにしてもさあ。100年前だったら分かるかもしれないけど、今の時代に、まだ続いてるんだよ。信じられない。」 こういった風習は、表には出てこないが、今でも裏で密かに続けられているということが、案外に多い。 しかし、それが理由で自殺しなきゃいけなくなるというのは、あまり聞いたことが無い。 「取り敢えずは、明日は、匠の四十九日だ。今日は、早めに帰って、ゆっくりしよう。」 そう言って、居酒屋を出たが、実は、あまり料理を注文しなかったので、まだ食べたりないという気もする。 「怜子さん、シメにラーメンでも食べて帰りますか。」 「そうね、、、、でも、明日があるから、今日は、もう帰って休みます。」 断られたことが、少し寂しかったが、怜子さんの言う事は間違いがない。 僕も、コンビニで、ハムサンドイッチを買って、一緒にホテルに戻った。 部屋に入って、すぐにベッドのシーツをはいで、ゴロリと横になった。 すると、ドンドンとドアを叩く音がする。 出てみると、怜子さんだった。 「あの、ドアの下の隙間に、こんなものが挟まっていました。」 そういって、封筒を僕に見せた。 ゆっくり中を覗くと、メモときっぷが入っている。 「この度は、匠の四十九日にお越しくださって、ありがとうございます。差し出がましいとは思いましたが、明日の帰路のチケットでございます。お納めいただければ、幸甚です。」 東京までの新幹線の切符と特急券が入っていた。 新幹線の切符の印面の出発時刻を見ると、法事が終わって、すぐに広島に移動して、やっと間に合うかという時間帯の列車だ。 「気持ち悪いわ。だって、差出人の名前がないんだもの。」 「これは、きっと、警告だよ。新幹線の男といい、全部、僕たちを、この事件から早く引き離したいんだよ。」 「こんなこと、すればするほど、変だって、何かあるって、言ってるようなものよね。」 「しかし、誰なんだろうね。匠の親戚じゃない気がするんだ。いや、でも、親戚しか考えられないか。法事の事を知っている人物で、僕たちの事も知っている人物。何より、匠の自殺に関係している人物。」 「田部総理?」 そう怜子さんが、僕に聞くように呟いた。 「田部総理本人じゃないだろうけれど、田部総理に依頼された何者かという線も否定できないな。」 「じゃ、政府の関係者。」 「でも、関係者って言っても、こんなことしていることが、誰かに知られたら、それこそ週刊誌のスクープだよ。」 「いっそのこと、スクープになってくれたら、真実がわかるかもしれないな。」 怜子さんは、そう言って、小さなため息をひとつ漏らした。 「まあ、これをドアの下に差し入れた人間も、今すぐ僕たちを襲おうって訳じゃなさそうだから、気にしないで休もう。兎に角、明日、また情報を集めればいいさ。」 怜子さんが、ドアを閉めて部屋を出たあとに、ふと、怜子さんの昼間は気が付かなかったパヒュームの香の付いた一塊の空気が、部屋に残っていた。 僕は、しばらく、その空気の中に立ち止まっていた。 匠も、こんな空気に安らぎを感じていたのだろうか。 窓のカーテンを開けると、すぐ近くに隣のビルの壁がある。 こんな閉塞感のある景色は、意外と気が落ち着いて好きかもしれないと僕は思っていた。 それにしても、あの切符を差し入れたのは、誰なんだろうか。 昼間、僕たちを監視していた男なのだろうか。 仮に、同じ男だとして、そして、それが匠の死を探る僕たちに向けた警告だとして、一体、誰が、それを指示したのだろうか。 今の段階で、推測できるのは、田部総理しかいない。 或いは、まだ知らない親戚の人間だろうか。 それとも、この田部総理、犬神様という接点ではない、まったく別の、僕たちが知らなかった匠の人間関係なのか、他に悩みがあったのか、それが原因だったのだろうか。 それにしても、お母さんの言っていた島が気になるな。 田部総理の実家がある島。 そして、代々、田部家の長男しか住むことが許されない島。 とはいうものの、次男の有二郎さんも、匠のお父さんも、20歳ぐらいまでは、島に住んでいたのだろうから、島のことに就いては知っている筈だ。 もう少し、島について、聞いてみても良さそうだ。 明日の法事で、時間があれば聞いてみるか。 それに、匠が犬を殺した場所も見てみたい気がする。 小さな祠が建っている場所を見てみたい。 代々、その島で犬を殺していたのだから、結構な数の祠が建っている筈だ。 一種異様な光景を僕は想像していた。 島の中腹のひと目の触れない場所に、いくつもの祠が並んでいる。 想像では、日の落ちかけた時間の薄暗い50平方メートルぐらいの土地に、もう誰にも祀られない状態で、そこに苔むして朽ちかけた状態で放置されている。 そこから瀬戸内海の暗い海が見える筈だ。 じっとりと海の潮を含んだベトベトとした空気が、その場所だけ風が吹くことも無く、漂っている。 あと数十分して陽が沈んでしまったら、真っ暗な暗黒の異次元に迷い込んで、帰って来れそうもない空間に変わってしまいそうで、心底怖くなる。 そんなイメージが、何となく見えて、それがだんだんと現実のような気になってくる。 今は、島には、誰も住んでいないのだろう。 でも、行けば、そこに糸口があるような気がしていた。 ベッドに横になって、今日の出来事を振り返っていた。 「さっぱり分からんな。」 そう呟いて、目を閉じたら、服を着たままシャワーもせずに眠っていた。 次の日の朝、朝食会場で怜子さんと待ち合わせて、簡単なバイキングを食べる。 グルット見回すと、どれも業務用の総菜なのが分かる。 クロワッサンと、コーヒーだけを持って来てテーブルに置いた。 「今日は、早めにホテルをでましょうか。」 早めに行って、匠の親戚を見てみたかったのだ。 「ええ、何かつかめるといいんだけど。」 ホテルを出て、宮島に向かう。 会場は、匠の両親の家じゃなくて、宮島の駅に近い葬儀会館で行われた。 既に、ご両親は、会場の待合室で、法事に来られた親戚に挨拶をされたりしておられる。 「昨日は、お忙しいところ、お邪魔してすいませんでした。」怜子さんが、ご両親に声を掛けた。 「いえいえ、遠いところ来ていただいて、こちらこそ、ありがとうね。」お母さんが、笑顔で答えた。 「あのう、また御親戚の方も、良ければ、ご紹介願えませんでしょうか。」僕は、手掛かりをつかむために、糸口が欲しかった。 お母さんは、ちょっと間をおいて、「ええ、じゃ、信ちゃんは、来ないだろうから、次男のお嫁さんだったマヤさんを紹介するわね。」 意外にも、あっさりと紹介してくれるという。 何か隠したいことがあるなら、紹介を拒む筈だ。 或いは、お母さんも、真相を知りたいと思っているのかもしれない。 僕と怜子さんは、少し時間もあるし、まだ親戚もあまり集まっていないようなので、待合室から出て、会館の入口にある椅子に座っていた。 すると、声を掛けて来た老人がいた。 「失礼だが、君たちは、田部さんとこの法事に来た人かね。」 ベージュ色のコートを着た、白髪の老人だ。 「ええ、そうです。あなたは、すいません、御親戚の方ですか。」 「いや、わしは、この辺りの郷土史を研究しているんだよ。まあ、アマチュアだがな。田部んとこの本家の信之助の同級生だったんだよ。それで、今ちょっとな。調べ物をしておって、田部んとこには、何度も寄せて貰ってるんだ。で、君たちは、見慣れない顔だけど、田部んとこの親戚か何かか。」 「ええ、親戚というか、三男の家の匠さんの元婚約者なんです。」と怜子さんが言った後に、 「あ、僕は、匠の友人です。」と付け足した。 「そうか、そうか、それはお気の毒に。」老人は、大きく首を縦に振った。 「あのう、でも、僕は何故、匠が自殺しなきゃいけなかったのか、どうも納得がいかなくて、勿論、法事もあるんですけれど、それを知りたくて広島に来たんです。」 少しでも糸口があればと思ったからだ。 そう言うと、急に郷土史家の目の色が変わった。 「何か、おかしなことがあるのかね。」 僕の肩を引き寄せて、声も落として聞いた。 「いえ、それを知りたくてきたんです。匠が自殺する理由がないんですよね。これから結婚しようという人もいて、幸せそうだったし。ただ、広島に来て、それから急に、変わったんですよね。急に無口になって。」 「広島で何かがあった。」郷土史家は、また大きく頷く。 「それで。」郷土史家が、先を促すように、鋭い目で僕に要求した。 「いや、僕たちは、何も知らないんですよ。それを、調べに来たというか。それに、あまりベラベラしゃべる内容でもないですしね。」 「いや、わしも知りたいんや。それに、匠君の自殺に不信を抱いてるっちゅーのも、そら気になるんや。わしの調べてることと繋がるかもしれん。」 「あなたが調べてるっていうのは、何なんですか。」 「いや待って、その前に、確認したいんや。ええか。ここだけの話やで。君たちは、何やかんやゆうて、匠君の死は、おかしいっちゅう風に思ってるんやな。その原因が、広島にあるって疑ってるわけや。詰まりは、誰かに殺されたとか、誰かに追い詰められて自殺させられたとか思ってる訳や。何やかんやゆうて、そういうこっちゃな。」 郷土史家は、念を押すように聞いた。 「ええ、そうです。」 「そうか。分かった。それなら、わしと協力せえへんか。わしも田部家についての陰謀を調べとるんや。何やかんやゆうて、田部総理、総理大臣おるやろ。急に総理大臣になったんや。何かあるんちゃうかなと思ってるんや。どうや、お互いに協力して調べへんか。」 「ええ、まあ、土地に詳しい人がいたら、僕たちも助かりますけど、、、。でもまだ、あなたのお名前も知らないですし、、。」 「そらそうやわな。」と言って、郷土史家は、自分について、いろいろ話し出した。 自称郷土史家は、名前は、白壁和夫といって、もともとは新聞記者をしていたという。それで、途中で辞めて、今は、奥さんと小さな本屋をやりながら、郷土史を調べているという。 それで、郷土史を調べているうちに、田部総理の本家の血筋が、どれだけこの土地に影響を与えて来たかに行きついた。行きついたのは良いが、田部総理に関係する女性が、行方不明になっているという昔の事件を見つけたのだという。その事件と、田部総理の関係を疑っているらしい。 「女性が行方不明、、、。」 「そうや、しかも、田部総理と結婚していたらしいんや。」 「いや、でも、田部総理の奥さんは、テレビでも見かけますよ。それに、再婚って聞いたことも無いし。」 「それが、しとるんやな。」 「どういうことですか。」 「籍は入れてないよ。わしも、籍を入れてないから、気が付かへんかったんやけどな。でも、結婚式は挙げとる。ほれ、見てみ。神社で、2人で写っとるやろ。こっちが、田部総理や。女の方は、やっと誰か分かったんやけど、本人も行方不明やし、両親もおらんから、それ以上は、分からんのや。」 「へえ、これはスゴイじゃないですか。スクープですね。」 「そうや、わしも、元ブンヤやからな。血が騒ぐで。実はな、ビックリしいなや。まだあるねん。これや。」 白壁さんが差し出したのは、またしても結婚式の写真だ。 神社の前で、式を終えた二人が並んで記念撮影しているのが、はっきりと写っている。 しかも、おどろくことに、田部総理と、そして別の女性である。 「この女の人、別の人ですよね。」 「ああ、そうや。びっくりしたやろ。しかも、この女の人も行方不明や。それに、両親とも死んどる。何やかんやゆうて、もうお手上げちゅうか、難航してるんや。」 「それで、この人も、籍を入れてないんですね。」 「ああ、そうや。」 いくら三流紙とはいえ、僕も記者の端くれだ。 こんな話を聞いて、こころに熱いものが湧き上がってくるのを感じていた。 「どうや、騒ぐやろ。」白壁さんが、にやりと笑った。 「やっぱり、匠さんの自殺も田部総理と関係あるのかもしれないね。」怜子さんは、興奮していた。 「あるかもしれんな。でも、どうしてそう思うんや。」白壁さんが、怜子さんの様子を見ておかしいと思ったようだ。 「ええ、実は、匠さん、広島へ来たのは、私の事を両親に話すという目的だったんですけど、実は、本当の目的は、田部総理と会う事だったみたいなんです。ハッキリとは分からないんですけど、どうも田部総理に政界入りを誘われていたみたいで、その話をしに広島にきたんじゃないかと思ってるんです。だって、広島から帰って来てから、すごく暗かったし、犬神様も捨ててしまったし、、、、。」 「え、匠君は、田部総理と、広島で会ってた。なんで、それを早くいわん。政界入りを誘われてた、、それで、自殺、、、、わからん。わからんけど、何やかんやゆうて、何かあるな。」 そう言って右手で顎の下を撫でていたかと思うと、「ん。犬神様のことも、怜子さん、知っとったんか。あれは、たとえ、やってても秘密にしてるやつがほとんどや。人によっては、結婚しても、奥さんには秘密にしてるやつもおるぐらいや。それが、怜子さんに打ち明けてたっちゅうのは、、、、やっぱり愛してたんやろな。」 ちょっと、優しい声色になって、最後は優しい目で怜子さんを見つめた。 怜子さんは、その言葉に、ちょっと泣きそうな顔になったが、すぐに気を取りなおして、聞いた。 「犬神様と、田部総理と、匠さんの自殺と、何か結びつくものはないですか。」 「そうやな。田部んとこも、犬神様を祀っとったしな。匠君も、祀っとった。犬神様繋がりはあるけどな。でも、自殺の原因になる理由は無いわな。犬神様の祟りとか。うん、いや、寧ろ、犬神様のご利益はあっても、祟りはな。実際、田部んとこも総理大臣までになりあがったんやからな。実際、田部んとこは、昔から、このあたりじゃ、逆らうものがおらんかったんや。実際や、実際。力も金も持ってた。それでも、総理大臣までには、誰もなるとは思わへんかったわな。この辺じゃ、ありゃ、犬神様の力が働いたんじゃないかって噂もたったこともあるしな。祟りはな、、、。何やかんやゆうて、分からんな。」 「田部総理に、政界入りを誘われて、、、2人は広島で会った。どこで会ったんやろ。それで、話をして、匠は東京へ帰って来た。理由は分からないが、暗かった。そして、犬神様を捨てた。ということは、総理と会って、犬神様の話が出た可能性はありますよね。」 僕は、今まで考えて来たことを白壁さんに振ってみた。 白壁さんも、腕を組んで上を見上げた。 「政界入りするには、犬神様も1体じゃ足らん。もっと、神様を増やせと言われたとか。あと、10匹ぐらい犬を殺して、犬神様にしろとか、、、。」 「あ、僕も同じようなことを考えたことがあるんです。あと、たとえば、10匹ぐらい殺せって言われても、昔のように、言われたまま殺すことも無いでしょう。いくらなんでも、理由もなく殺さないですよね。まあ、理由は、犬神様なんだけれど、もう分別のつく年なんだし。目の前に10匹の犬を持ってこられて、さあ、殺せって言われてもね。」 「ひょっとして、10匹の犬を目の前に連れてこられて、その時に、私の顔を思いだしたのかも。あたしのお父さんは、動物愛護団体にいるんです。だから、10匹殺したって知れたら、あたしとの結婚も出来なくなるとか。昔したことは、仕方がないにしても、今から、殺すっていうのは、やっぱり、ダメだと思ったんじゃないかしら。だから、断った。」 怜子は、なんども頷きながら、静かに語った。 それはあるかもしれないな。 そう思った。 「なんや、かんやゆうて、それはあるかもしれんな。」 白壁さんは、そういって髭を撫でまわした。 それで、しばらく間があって、白壁さんは、こう言った。 「実はな、明日、わしは、例の神伏島に行くことにしたんや。もう船もチャーターしてある。あそこには、何かあるに違いないんや。あそこが出発点になっとる気がするんや。」 実は、僕もそう思っていた。 田部一族の長男が受け継いでいく島。 そして、犬神さまの祠が集まる島。 何かあるに違いないと僕もそう感じていた。 「そうですか。私も、島には何かあると思うんです。犬神様の本拠地にもなるんでしょうか。あの総理が住んでいた島ですもんね。或いは、匠は、島で総理と会ったのかもしれません。」 「うん。その可能性もあるわな。わしが興味を持ったのはやな、行方不明になった女性の写真あるやろ。あの神社は、実は神伏島にあるんちゃうかと思うんや。あの島で、総理は女性と結婚して、そして行方不明になった。そんな気がするんや。それを確かめに行くんや。」 「あのう、わたしも一緒に行くことはできませんか。」 「ああ、それは構わないが、また連絡する。」 「ありがとうございます。」 僕は、島に匠の死の原因が隠されているかもしれないと、白壁さんの話で思い出していた。 それに、結婚していたという女性の話も気になるのである。 会場に戻ると、みんな集まっていて、四十九日の法要が始まった。 僕は、静かに手を合わせて匠の成仏を祈った。 匠は、浄土真宗の教えの様に、今まさに阿弥陀如来によって浄土へと掬いとられたのであろうか。 或いは、犬神様が、成仏させてくれたのだろうか。 いずれにしても、安らかに天国に行ってくれと祈った。 怜子さんを見ると、匠の遺影をジッと見つめていた。 その表情には、悲しみというよりも、死んだ原因を、こころで匠の遺影に向かって聞き出しているようだった。 しかし、法事の最中に、来ている人物を観察したが、例の新幹線で会った黒いスーツの男や、うどん屋で一緒だった黒いスーツの男も、見かけることがなかった。 あれはいったい、誰なのだろう。 法要が終わって、会食になったときに、お母さんが、次男の田部有二郎の嫁のマヤという人を紹介してくれた。 「初めまして、僕は匠君の友人の平山と申します。」 「あ、私は、田部マヤです。」少しとまどったような表情で答えた。 そして、怜子さんを見て、「あ、あなたが怜子さんね。それにしても残念だったわね。」と付け加えた。 「ええ、まだ心の整理がついてないんです。何故、匠君が自殺しなければいけなかったのか、分からなくて。」 怜子さんは、そう言って、その後に、「それで、今日きたのは四十九日の法要の為なんですけど、匠さんの自殺の原因も知りたくて、来たというのもあるんです。マヤさん、何か思い当たることはないでしょうか。」と続けた。 「ごめんなさい。あたし、今は大阪に住んでるのね。夫が死んでから、この広島には居たくなくて。だから、最近の田部家の事は、よく分からないのね。協力してあげたいのは、あげたいんだけど。」 「そうですか。」怜子さんが、やや落ち込んだ感じで答えた。 「あのう。昔の事なら、教えて頂けますでしょうか。」 匠の自殺の原因は知らなくても、この事件の背景には、昔から続く田部家が何らかの原因ではないかと思ったのだ。 「ええ、それなら。あたしの知ってることなら話しますよ。」 「ありがとうございます。じゃ、会食が終わったら、どこかでお茶でも飲みながら聞かせてください。」 匠の四十九日の法要は、滞りなく終わって、僕と、怜子さんと、マヤさんは、会場近くの古い喫茶店にいた。 「僕は、島に何か匠の死因に繋がる原因があるんじゃないかと思っているんです。なので、明日にでも行ってみようと思ってるんです。マヤさんは、島には何度も行ったことがあるんですか。」 「ええ、夫も島の出身だし、でも、普段は、こっちで生活してるでしょ。島に行くのは、年に1回あるかどうかよ。でも、あの島に行くのは、、、大丈夫かしら。気味の悪い島なのよ。」 「どんな島なんですか。そうだ、あの突然に失礼なことをお伺いしますが、夫の有二郎さんは、犬神様を祀ってられたんですか。」 すると、マヤさんは、ちょっと間をおいて、「ええ、祀ってたわ。でも、それを知ったのは、結婚してから5年経ったころなの。それまでは、何をしているか教えてくれなかったんです。気持ち悪い話でしょ。あたし、それを聞いた瞬間、頭が真っ白になっちゃって。それに、5年もあたしに隠してたんだから。ちょっと、夫不審になったかな。田部家は、昔から代々犬神様を祀っているわ。でも、先祖から受け継いだ犬神様じゃなくて、みんな、個人個人の犬神様なんです。だから、夫の犬神様と、たとえば、三男さんとこの犬神様とは、まったく繋がりもないし、別の物なんです。」 「やっぱり、犬神様を祀ってるんですね。でも、それが匠の死因と結びつく何かは、、、分からないか。」 話している間に、郷土史家の白壁さんの話を思い出した。 「そうだ、島に神社はあるんですか。」と聞いた。 「ええ、そういえば、本家の裏の山に神社があったわ。でも、個人が作った小さな神社よ。誰もいないし。今は、島守の余次郎さんが、掃除とかそんな管理をしているわ。」 「それは、、、あ、お母さんが言ってた人かな。」 「昔から島に住んでるわ。島には、他には誰も住んでいないから、本家の家の掃除とか、島の管理を、その余次郎さんがしているの。昔は、チエさんという奥さんと住んでたんですけど、今は、チエさんも亡くなって、1人で全部やってるわ。」 「島の事を全部ね。」 「もう、70歳を越えてるかな。それに、島に一人で暮らしてると老けるのかしら、もう頭も真っ白で、顔も真っ黒だから、80歳以上に見えるわね。」 「そうなんですね。じゃ、もし匠が島に行ってたら、その辺の事情も聞けるかもしれないですね。」 「あそこは、船をチャーターしないと行けないわよ。」 「ええ、実は、明日、その辺りを良く知っている人と、島に行くことになってるんです。行き方は、その人に任せていれば大丈夫だと思ってます。」 「そう、でも、くれぐれも気を付けてね。何か気持ちの悪い島なのよ。」 「話は変わりますが、田部総理は、今の奥さんの前に、誰かと結婚してたとか、そんな話を聞いたことがありますか。実は、ここだけの話なんですが、島の神社で結婚式を挙げた総理の写真を見たことがあるんです。」 それを聞いたマヤさんは、ビックリしたようで、「その話をどこで。ひょっとしたら白壁さんですか。」と聞いた。 「ええ、実はそうなんです。」 「そうなのね。私もその話を聞いたのは、白壁さんからなの。わざわざ大阪まで、話を聞きに来られたわ。それで写真を見せられた時、ショックを受けたの。あれは、間違いなく島の神社よ。」 「やっぱり、島に神社があって、そこで田部総理が結婚式を挙げていたということは、本当のようですね。」 「そういえば、田部総理に縁談の話があったとか、そんな話は噂では聞いたことがあったの。でも、誰もそれについて話そうとしないから。聞いちゃいけないことだと思って、知らない振りをしてたんです。」 「聞いちゃマズイ雰囲気だった。」 そういうと、マヤさんは、無言で大きく頷いた。 「しかし、そのお嫁さんは、行方不明。どうなってるだ。」僕は、呟くように言った。 「しかも、2人もだ。」と、しばらくおいて続けた。 「それは、誰も知らないし、聞いても答えてくれないわ。でも、島の余次郎さんなら、何か知ってるかもしれないわね。」 「そうなんですね。じゃ、明日、その辺のところを聞いてみよう。」 マヤさんは、頷きながら、「でも、しゃべらないでしょうね。」と下を向いて呟いた。 怜子さんは、僕とマヤさんの会話を、一つひとつ確認するように、小さく「うん、うん。」と聞こえないような声で頷きながら聞いていた。 やっぱり島だ。 島に何かある。 そう思っていたら、携帯のバイブレーションが鳴った。 白壁さんからだ。 「平山君、大変だ。実はな、いや、びっくりすなや。実はや、田部総理と結婚してたのは、2人やなかったんや。もう1人いるんや。さ、さ、3人やで、3人。しかも、その嫁さんも、籍は入れてないし、実はな、これびっくりするで、死んどるんや。どうや、びっくりやろ。なんやかんやゆうて、びっくりやぞ。」 「いや、それは、びっくりです。いや、びっくり以上ですよ。」 「そうやろ。わしは今、血の騒ぎが治まらんのや。ブンヤの血が湧きたっとる。平山君も、血が騒ぐやろ、どうや。」 「ええ、これは、日本中を巻き込んだスクープになりますね。」 「そうや。大変やで。テレビとかに出れるかもしれへんで。ほんでや、ほんで、何か若いアイドルに会えるかもしれへんで。どうや、スゴイやろ。あ、そうや、それからまだあるんや。今回はな、実は、死んだ嫁の関係者も分かったんや。」 「それはスゴイじゃないですか。どこの誰なんですか。」 「びっくりしなや。実はな、明日行く島に住んでる島守の余次郎と言う人なんや。」 「え、余次郎さんですか。」 「あ、君知ってるのか。」 「いえ、今、マヤさんと話をしてるところなんですが、島には、余次郎さんと言う島守がいるという話をきいたところだったんで、びっくりしただけです。」 「そうか、その余次郎さんが、3人目の嫁さんの関係者らしいんや。でも、それ以上の事は、分からんのや。でも、明日行くからな、その辺のところを追求しようや。」 「ええ、楽しみなって来ましたね。」 「ほんまやな。じゃ、明日、港で10時やな。」 そう約束して、電話を切った。 切ってから、今の話を怜子さんとマヤさんにした。 「平山さん、あたしも明日、島へ行きます。」と怜子さんが、真剣な顔で言った。 「いや、怜子さんは、とりあえず、明日はもう東京へ帰った方がいい。仕事もあるやろうし、島には、何があるかもしれないし。もしものことがあったら大変だ。」 「いえ、でも、匠さんの事件のことを知りたいんです。」怜子さんの気持ちが伝わってくる。 すると、マヤさんが、言った。 「怜子さん。ここは平山さんに任せた方がいいよ。あの島には、行かない方がいい。あの島は、不吉な島だよ。特に、女性にはね。あたしも、行きたくないところなの。」 「でも、、。」 「そうだよ。それに、僕も1度で原因がつかめるとは思っていないんだ。何度も足を運ぶ必要がありそうだし。取り敢えずは、明日は、僕と白壁さんで行くよ。そこで糸口が見つかって、安全だと解ったら、怜子さんも一緒に行くことにしたらいい。」 僕とマヤさんで、怜子さんを説得した。 「でも、怖いよね。3人も、島で総理と結婚して、それで行方不明。どういうこと。」マヤさんが、ため息と一緒に吐き出した。 「さあ。何か、とてつもなく大きな力が働いている気がするね。それも、黒い力が。」 田部総理と、行方不明の3人の花嫁。 そして、匠の死。 何のつながりが、そこにあるのだろう。 考えても分からなかった。 兎に角、明日次第だ。 マヤさんと怜子さんと広島駅まで戻って来た。 これから、マヤさんは大阪へ、怜子さんは東京へ帰る。 そこで、僕は、昨日の夜のホテルの部屋に差し入れられていた切符を思いだした。 「そうだ、そういえば、謎の男が切符をホテルに届けていたね。あれを使って帰ったら?」 「あ、これね。」怜子さんは、きっぷをバッグから取り出した。 そして、マヤさんに事情を話した。 「いやん、あたしも、その切符使わせてもらってええの?ほんまええの?いやん、何や得したわ。」 「でも、指定の列車の時間、もう過ぎてるかな。」切符の印面を見て怜子さんが言った。 「いける、いける。指定の列車が過ぎてても、今からやったら、自由席に座ったらええねん。」 そんなにも切符が嬉しかったのか。 マヤさんは、法事が終わって大阪に帰る開放感と、切符をもらえた嬉しさで、ちょっとテンションがあがっていた。 まあ、喜んでくれたなら良かった。 何しろタダだったんだからね。 2人と別れた僕は、昨日のホテルに電話を入れて、もう1泊お願いした。 そして、ホテルに一旦チェックインして、明日の準備をして、ふたたび街に出た。 早めの夕食を食べて、明日に備えよう。 ホテルの近くの居酒屋に入ってビールを飲む。 すると、昨夜、怜子さんと飲んだ記憶が思いだされる。 ほんのりと香る香水の香り。 柔らかい感触であろう唇の動き。 そんな怜子さんの顔や香りが思いだされる。 或いは、僕は、怜子さんに、特別な思いを抱き始めているのだろうか。 今、この僕の隣に怜子さんがいてくれたならなあと思う気持ちが止まらない。 いつのまにか、怜子さんを好きになり始めているのだろうか。 そんな気持ちを、振り切るように、「匠の婚約者だ。」と声に出して、ビールを胃に流し込んだ。 広島は、美味しいものも多いが、今日はもう、食べ歩く気持ちもなかった。 店を出て、ホテルに戻った。 そして、今日あったことを思い出して、ノートにメモを取った。 その日は、そのまま、うつらうつらとした状態で、寝たような、寝ていないような、そんな感じて一夜を過ごし、少しばかり頭がボヤっとした感じで、朝を迎えた。 ホテルのバイキングの朝食を食べてチェックアウトした。 そして、白壁さんとの待ち合わせに向かう。 宮島口に近い港に行くと、小さな漁船がとまっていた。 しかし、待ち合わせの時間になっても白壁さんは来ない。 「おかしいなあ。確かに10時と言ったんだけどなあ。」 「ええ、私も10時と聞いています。」船の漁師が言った。 30分待っても白壁さんが現れないので、電話をしてみたが、コールはしているが、電話に出ない。 なにかあったのだろうか。 しかし、このまま待っていた方がいいのだろうか。 それにしても、連絡ぐらいくれてもいいじゃないか。 1時間ほど待っていたら漁師が言った。 「あのう。このあと私も用事があるんで、また今度ということにしますか。」 いや、どうしても島に行きたい。 「いえ、行きましょう。僕だけ運んでください。代金は、私が払います。」 そういって、港を出た。 仕方がない、僕だけ先に島に行こう。 船で15分ほど走っただろうか、想像以上に大きな島に着いた。 「また帰る時は電話します。ひょっとしたら、明日になるかもしれません。」 この島に泊まることができるのか、どうなのかは、分からなかったが、すぐには帰ることのできないだろう予感がしたのだ。 コンクリートで固められた船着き場から、1本道を歩いて行くと、田部の本家があった。 「ごめんください。」 大きな声で、余次郎さんを呼んだ。 2、3度声を掛けたら、ようやく中から老人が現れた。 余次郎さんだ。 「白壁さんか。」 しわがれた声で聞いた。 「いえ、僕は平山と申します。実は、白壁さんと待ち合わせて来るつもりだったんですが、待ち合わせに来なくて、僕だけ先に来たんです。」 「そうか、まあ上がりなさい。」 田部の本家は、かなりの築年数に見えたが、手入れもしてあり、立派なものだった。 余次郎さんは、20畳もあろうと思われる座敷に、ちょこんと座布団を置いた。 そして、お茶を持って来てくれた。 「うん。まあ、よく来なさった。この島に誰か来るなんて、久しぶりや。田部以外のもんがくることは、ないからな。」 そう言って、笑ったようだったが、その笑顔が不気味に見えた。 それで僕は、今までの経緯を余次郎さんに話した。 友人の匠が、結婚を前に死んだこと。 その原因が、この島か、或いは、田部総理に関係しているのではないかという考えや。 そして、匠と田部総理の共通点が犬神様だということ。 それらを、ゆっくりと説明をした。 余次郎さんは、それを黙って腕組みをして聞いていた。 その素振りを見ていると、今までの話に、何の興味も示さないようだったが、次の質問をしたときに、表情が一変した。 「あのう。それから、田部総理が、3人の女性と結婚していたらしいですね。それで、その女性がみんな行方不明。でも、その3人目の花嫁の関係者が、余次郎さんだと聞いたんです。」 余次郎さんは、それを聞いて、ブルブルと震えだした。 「その話は、誰に聞いたんや。」 「白壁さんです。」 「誰が、漏らしたんや。誰も知らんはずなんや。」 「いや、誰からの情報かは知らないんです。でも、結婚した時の写真は見ました。不思議な話で、何かあるんじゃないかと思ってるんです。それに、余次郎さんが、その花嫁の関係者だと聞いて、どうしても、話を聞きたくなって、島に来たんですよ。」 余次郎さんは、しばらく黙って、何も言わずに、天井を見ていた。 すると急に、大きく頭を振りながら、「そうや、そうやな。」と言ったかと思うと、「くわ、くわ、くわっはははは。」と笑い出した。 「あんた、週刊誌の記者や言うてたな。よし、話したろ。全部、話たるわ。それ記事にしたらええ。日本中エライコトになるで。」 「本当ですか。それは、花嫁の行方不明の事ですか。」 「ああ、そうや。それから匠君という男の子も、この島に来たんや。その時の話もしたる。」 「匠の死の真相がわかる。」 「いや、死の真相かどうかは分からんが、総理と匠君が話しているのは、聞いた。」 僕は、急に胸のあたりが熱くなって、手が震えて止まらなかった。 すると、余次郎さんは、真剣な顔で言った。 「しかしな。これから話すことを公にしたら、あんた、殺されるで。その覚悟はあるんか。」 「僕は、三流紙の記者です。でも、いくら三流だといっても、記者の覚悟はもっています。真実を知りたいんです。」 その気持ちに偽りはなかった。 でも、不思議だった。 「それにしても、どうして、そんなスゴイ話を、突然訪ねて来た僕に話をしてくれるんですか。」 「ああ、それはな。わしは、もうすぐ死ぬからや。実はな、わしは胃癌なんや。医者に言わせると、余命1年らしいわ。医者が1年言うたら、そら、半年のことやろ。あと半年の命なんや。そやから、もう怖いない。殺されても、いや殺される前に、わしも真実を公にしたいと思ってたんや。それにな、死ぬ前に、もう一遍、広島に出て、遊びたいんや。」 余次郎の言う事は、説得力があった。 そんな話をしていると、僕の携帯が鳴った。 白壁さんからだ。 「平山さんの携帯ですね。」電話の声は白壁さんじゃない。 「ええ、そうです。」 「実は、この携帯の持ち主の白壁さんなんですが、さっき交通事故で無くなられました。それで、発信履歴から、あなたの携帯に電話したんです。白壁さんとは、お知り合いなんですか。もし良かったら、お話をお伺いしたいのですが。」 「ええっ、交通事故ですか。知り合いというか、最近、知り合ったばかりなんですよ。でも、実は、今、犬伏島に来ているんです。帰るのは明日になるかもしれないので、また帰ったら連絡します。それにしても、交通事故にあうなんて。」 「ええ、どうも不思議な交通事故でして、普段は車の通ることのない道でひき逃げにあったんです。」 「ひき逃げ。それで、犯人は、、、。」 「いえ、まだ捕まっていません。」 「そうですか。あ、まあ、明日また、こちらから連絡します。」 電話を切って、僕は思った。 殺されたんだと。 「殺されたんやな。」 電話の様子を窺ってた余次郎さんが言った。 「ええ、ひき逃げらしいです。」 「やっぱりな、田部のやることは、エゲツナイな。」そう言って、余次郎さんは、ため息をついた。 そして、念を押すように言った。 「ホンマに、ええんやな。ホンマに覚悟できてるんやな。」 僕は、大きく頷いて、「もちろんです。」と答えた。 余次郎さんは、「よし、分かった。」と言って、ゆっくりと話の続きをしだした。 「さっき、3人目の花嫁の関係者がわしやって言うてたな。実はな、わしは、その花嫁の父親や。」 「ほ、ほんまですか。」 僕は、この一言で、一連の事、白壁さんの言ってたことが、本当だったと確信した。 田部総理と3人の花嫁がいたこと。 そして、その花嫁が行方不明なこと。 しかし、その理由は何なんだ。 「ああ、花嫁は、わしの娘や。田部総理に殺されたんや。」 「ちょっと待ってください。田部総理に殺されたんですか。それって、その前の2人の花嫁も殺されたってことなんですか。」 「そうや。3人とも殺されたんや。」 「何故ですか。どうして、殺さなきゃいけなかったんですか。しかも、結婚してるのに。」 「まあ、ゆっくり話たるわ。実はな、花嫁を殺す理由があるんや。いや、理由と言うのは、田部が勝手に考えた理由や。恐ろしい理由やで。ほんま、あの田部総理っていうやつは、悪魔や。いや、悪魔以上やな。」 僕は、前のめりになって余次郎さんの話に聞き入った。 「さっき、あんた、犬神様って言ったな。」 「ええ、田部総理も、匠も、犬神様を祀っていて、そこに共通点があるし、自殺の原因もあるかもしれないと思ってたんです。」 「そうか。犬神様も関係あるいうたら、関係あるんやけどな。犬神様っていうても、所詮、犬や。犬の神様や。そんな力は、大したことない。そやろ。でも、もっと大きな力を手に入れられると考えたやつがおるんや。田部や。田部総理や。あれは、悪魔やで。犬神様でも効き目あるけど、もっと大きな力、手に入らんやろかと思いよったんや。それが、聞いて驚くで。人間や。人間の神様作ろう思たんや。でも、その辺の人を捕まえて来ても、これ関係ないやろ。でも、嫁となったら違ってくるんや。嫁になったら、夫との縁が繋がる訳や。その夫と縁が繋がった嫁を、神様にするんや。嫁やったら、夫の言う事に従うわな。人間やから、そら強力な力になるで。いや、わしが言うてんのと違うで。そう考えよったんや。あの田部がな。」 「嫁にしてから、その人を殺して、神様にする、、、。そんなことが、本当にあるんですか。」 「ああ、わしが見たんや。そやから悪魔や言うねん。普通やったらできることやない。そやから、犬神様を、嫁でやったんやな。いうたら、嫁神様や。」 「嫁神様。」 「あのな。最初は、神社で結婚式を挙げるんや。これで、夫と縁が繋がるわな。それから、まあ2、3日は、一緒に暮らすんやな。この家でな。嫁も嬉しいわな。毎日毎日、笑いながら生活することになるわな。二人の嫁も、キャッキャ、キャッキャゆうて田部と戯れとったわあ。でも、それがや、3日ぐらい経ったら、嫁を目隠しして山に連れて行くんや。それで地面に頭だけだして埋めるんやな。嫁は半狂乱やな。でも目隠しされてるから、それが夫の仕業やとは思えへんねんな。それで、1週間ぐらい地面に埋めたままにするわけや。その間、何も食べられへんし、水も与えられへんねんで。ほんま、犬神様と同じやりかたやろ。うん。それでな、1週間経ったらやな、夫が目隠しを取るんやな。『大丈夫か。今すぐ助けるからな。』とか、そんな言葉をかけて、嫁が、『良かった。助かった。』と愛してる夫に会えたこともあって、喜びの絶頂になるわな。そこや、そこで、後ろに回るんやな。それで、日本刀で首をバッサリと落とすんや。あ、そうや。その日本刀見たいか。そこにあるで。」 「ええ、拝見したいです。でも、先に、話を聞かせてください。」 「ああ、そうか。それで、胴体は、そこに祠を立てて、頭は、家に持って帰って祀るんや。犬神様も効き目あるけど、嫁神様は、もっと効き目あるんやろな。田部は、どんどん出世していきよったわ。」 「なるほど。嫁神様か。それで、3人も。」 「そうや。1人殺して、効き目あったと思ったんか、2人目もやりよった。それで我慢できずに3人目や。それがわしの娘や。」 「いや、娘って。余次郎さん、あなた、それを止めなかったんですか。自分の娘でしょ。止めないのおかしいでしょ。」 「ああ、止められなかったんや。ほんま、アホやった。ずっと、それを後悔しているんやけど、もうどうしようもないんや。」 「なにがあったんですか。」 「いや、全部、わしが悪いんや。止められへんかった。」 余次郎は、顔をくしゃくしゃにして、泣き出した。 暫く待って、余次郎は再び話し出した。 「田部が、嫁を殺したのを、わしは見てたんや。1人目の時や。それを田部に言うたら、しゃべったら殺すと脅されたんや。それから、2人目も同じや。何も言われへんかった。それがや、3人目の嫁に、わしの娘をくれと言ってきたんや。もちろん、断った。しかし、田部はまた、脅迫してきた。わしにはな、死んだ英子の他に、大阪に働きに出た桜と正子という二人の娘がまだおるんや。嫁に出せへんかったら、わしも嫁も、娘3人も殺すっていうてきたんや。いや、これ、ホンマの事やで。1人目の嫁も、2人目の嫁も、殺されたけど、誰も知らんやろ。親も、殺されたけど、その痕跡もないし、証拠もない、記録も全部ないんや。全員、始めから、この世におらん事なってるんや。田部なら、そのぐらいやりかねんのや。そやから、わしはエエで、殺されても。そやけど、大阪の娘2人も、殺されるの考えられへんかったんや。娘の英子が犠牲になれば、あとの娘2人が助かる。それしか考えられへんかったんや。」 「全員殺されるか、1人犠牲になって、他を助けるか。」 「そういうことやったんや。いや、それが正しいことやとは思ってない。あれから、ずっと後悔しとるんや。仕方なかったんや。それにな、あの田部の言う事は、ただの脅しやない。ホンマにやりよるんや。そやから悪魔やねん。」 僕も、息が詰まった。 テレビでよく見る総理が、そんな悪人だったとは。 いや、悪人というより犯罪者だ。 「そやからな。総理に復讐するなら、今しかないんや。あんたが書いてくれたら、田部に復讐できる。世間に、話が広まったら、その後に、他の娘2人を殺すことはできんやろ。残った娘を守る手段でもあるんや。」 「そうですね。やっぱり世間に発表する必要がありますね。」 「そうや、匠君やったな。実は、この島に来てる。総理と一緒や。それで、始めは、えらい笑い声が聞こえとった。それで、いよいよ後継者になれっていう話になったんやな。匠君もその気になりかけた時や、後継者になるんやったら、今付き合ってる彼女を、嫁神様にしろと命令したんやな。普通の力じゃ、総理まで上り詰められへん。後継者になるんやったら、次期総理にしかたったんやろな。それに、後継者になるっちゅうことやから、嫁神様のことを話したんやろうと思うんや。自分にも嫁神様がいることも話したんやろ。そやけどやで、普通は、やらんわな。人を殺そうなんて思わんし、ましてや、婚約者や。匠君は、断った。その夜は、別々の部屋で寝て、匠君、ふらふらになりながら帰っていったわ。たぶん、殺されたんやな。自殺やない。田部に、いや田部の後ろに付いてるやつらに殺された。そう思うで。」 「それなら、話の筋が通りますね。このまま匠を自由にしたら、いずれ嫁神様のことが世間に知れる。そうなるまえに殺してしまおうということだ。」 余次郎は、それを聞いて頷いた。 その後は、細かいところを、いろいろ聞いて、その晩は、島に泊めてもらうことにした。 明日、東京に帰って、原稿に纏めよう。 漁船の漁師に電話をして、明日の船を頼んだ。 寝床に入って、今日の話を思い出していた。 田部総理は、犬神様ならぬ、もっと力のある嫁神様を作っていた。 それには、女性と結婚して縁を結び、その人を殺して、嫁神様にする。 しかも、1人では満足できずに、3人も殺した。 そして、その内の最後の1人の英子さんは、この島の余次郎さんの娘さんだ。 余次郎さんは、やむなくそれを、了承する。 そして、匠は、この島で田部総理に合う。 そこで、説得されて、総理の後継者になることを決める。 でも、後継者になるのだったら、総理を目指せと言う。 そして、その為に、今付き合っている怜子さんを殺して嫁神様にしろと命令した。 匠は、それを断った。 それで、嫁神様の発覚を恐れて、総理か、総理の後ろにいる誰かが、匠を殺した。 そういうことだ。 それをノートに纏めた。 部屋の電気を消して、目をつぶると、島の林を通り過ぎる海風の音が、360度の方向から聞こえて来て、風が島をクルクルと回っているようで、或いは、悪霊が島を回っているような錯覚を起こして、心底怖かった。 翌日、少し寝坊をして9時ごろ居間にいくと、誰もいない。 大きな紫檀のテーブルの上にメモが残されていた。 余次郎さんのメモだ。 「平山君。わしは、島に1艘ある船で、広島に行く。平山君がチャーターした漁船は、わしがキャンセルしておいたよ。申し訳ない。あんたも一緒に島を出たら、わしが島を出たことが田部に知れるじゃろ。田部に知られたら、たぶん、わしも殺される。だから、あんたが島を出るのは、もっと後にしてくれ。食料は、2週間分ぐらいは大丈夫だ。それから、記事を書いたら、きっと週刊誌で発表してくれ。頼む。それが、唯一できるわしの復讐だ。伏して頼む。」 そう書かれていた。 やられた。 そう思った。 今この島にいるのは、僕一人だ。 本家の裏の神社を抜けて、1本道を歩いてみた。 島の中腹には、想像通りの犬神様の祠だと思われるものが苔むして密集していた。 僕は、その中に、新しい祠があるのに気が付いた。 近づいてみると「ポメ」と書かれている。 匠の犬神様の祠だ。 匠が、泣きながら、この祠に犬の胴体を埋めたのを想像した。 生暖かい潮風が、僕の頬を撫でたようなきがした。 島の頂上まで行くと、そこに大きな3つの祠が建っていた。 これが総理の嫁神様の祠か。 思えば、不幸な女性だ。 総理に、殺されて、殺された後も、総理を助けるために命令されている。 自分の命を奪った男に従わなければいけない運命に生まれて来た女性。 悲しい話だ。 そうだ、怜子さんに連絡しよう。 そして、まずは船の確保だ。 携帯を取り出したが、電話がつながらない。 島に着いたときは、確かに携帯の電波は届いていた。 しかし、今は、まったく反応しないのだ。 いや、今も電波は届いている。 でも、電話をかけても、何の反応もないのだ。 ひょっとして、携帯の契約を誰かに消されたか。 本人がここにいるのに、勝手に携帯を解約することなんて、普通の個人には不可能だ。 或いは、総理の関係者に、余次郎さんが逃亡したことや、僕が島にいることを知られてしまったのか。 その可能性は高い。 本家にもどって固定電話を調べてみたが、これもまた、まったく通じなかった。 やられたと思った。 これでは、この島を出ることはできないじゃないか。 僕は、早くこのスクープを原稿に起こしたい気持ちでいた。 早く、島を離れたい。 しかし、方法が思いつかない。 この島以外への連絡が一切できない状態だ。 今頃、怜子さんは、どうしているのだろう。 会いたい。 事件の真相が分かった今、僕は怜子さんへの気持ちが、特別なものであることを、自分自身確信したのである。 しかし、考えてみると、この家には、田部の犯罪に関する資料が、そのまま手つかずで残されているに違いない。 今まで行方不明になった花嫁の素性も解るだろう。 よし、その資料を完璧に揃えてから島を出るべきだろう。 人に荒らされる前に、必要なものを持ちだそう。 そう思うと、急に意欲が湧いてきた。 それからというもの、食べることも忘れるぐらいの集中力で、田部の犯罪の時間的経緯や、田部の血脈、オカルト的な信仰に至る心理的変化など、或いは、5、6冊の本が書けるのではないかと言うぐらいにまとめ上げたのだ。 いよいよ、この島を離れよう。 僕は、島のてっぺんに走って上った。 3つある嫁神様の祠が東京に向かって建っている。 空を見ると、鉛色の雲が、島にのしかかるように低く垂れさがって、今にも僕の頭から黒い雨を降らせるかのように威圧していた。 そこで、今一度、自分の置かれている状況を冷静に考えた見た。 この島には定期の船便はない。 携帯も通じない。 固定電話も通じない。 島以外の誰とも連絡が取れないのだ。 ああ、どうしたらいいんだ。日本中がひっくり返るようなスクープなんだ。 僕は頭を抱えて、島のてっぺんから周りの海を、ぐるぐると見回した。 絶望的な島だ。 誰もこの島の事なんか考えていないに違いない。 僕は、この島から出ることが出来ないのだろうか。 ただ、ひとつ希望があるとすれば、怜子さんだ。 怜子さんは、僕がこの島に行ったことを知っている。 僕から連絡が来ないことを不審に思うはずだ。 或いは、島に来てくれるかもしれない。 ああ、怜子さんに会いたい。 そう思ったら、ホテルの僕の部屋に入って来た時のパフュームの香を思いだした。 今どこで何をしているのだろう。 僕は、島のてっぺんから大声で叫んだ。 「怜子さーん。僕は、島にいるよーっ。」 そのころ、広島テレビのニュースで、東京から来た女性が、ホテルの部屋で変死したニュースを報道していた。 携帯も、身分証明になるものも、何も持っていない身元不明の女性だと言う。 コメンテーターが、自殺ではないかと、何の根拠もない憶測を、さも真実を知っているかのような態度で、自慢げに話している。 その女性が、怜子さんであることを知るものは、誰もいなかった。 或いは、怜子さんの存在自体を抹消されているのかもしれない。 僕は、そんなことも知らずに、怜子さんとの再会を夢見ていたのである。 黒く思い雲が、島を覆いつくして、雨となった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!