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それを口にするには、高層マンションの屋上から身を投げるかのような勇気が必要だった。
「えっ、あ……そうだったんだ!」
ほうら、思った通りの反応だ。付き合って二ヶ月になる彼であっても、私が小麦アレルギーを抱えている事実には引いてしまうだろうと、どこか開き直ってすらいた。
私はいつも食べるものに気を使って生きてきた。外食なんてほとんどしたことなかったし、小学生の頃は皆と同じ給食すら食べられなくて何度お母さんに泣きついたことか。周りからの視線が痛くて痛くて、部屋にずっと引きこもっていた時期だってある。あの部屋の生活が恋しくなる時があるけれど、今の私には彼がいる。
けれど、それも過去形になってしまいそうだ。なぜなら初めて私たちが出会った時、私に声をかけてくれた彼はそれを知らなかっただけなのだから。
「へー、小麦アレルギーか……」
彼は深く考え込むように顎に指先を当てて、俯く。ため息と涙が出てきそうだ。どうして私はこんな体で生まれてきてしまったのだろう。どうしてこの世界には小麦が溢れているのだろう。初めてできた彼氏なのに。母を恨んでも神様に泣きついても仕方がないことは分かっている。だけどそれだって、私も他の女の子みたいにクレープとか食べてみたかったなと考えずにはいられない。
その場を後にすることも何か言うことも出来ずに、ただ沈黙が流れているだけの時間を破ったのは彼だった。
俺さ、という第一声は、秋の夕焼けのような色を帯びていた。
「あんまりアレルギーとか……そういう生まれ持った体質にきっと偏見はないと思うんだけど、理解もないんだよね。……小学校の頃、友達がみんなと違う給食を食べててさ、それを見た悪ガキたちがやっぱりからかうんだよ。でも俺、どうすればいいのかわかんなくてさ。友達として悔しかったり慰めてやりたかったけど、色んな感情がごちゃごちゃになって、何も出来なくって。でも今なら、どうするのが正解かわかる気がするんだ」
正解? と私は相槌を打った。
「知ろうとすることなんじゃないかな、と思ってるんだけど……どう?」
知ろうとすること。その言葉を何回も頭の中を巡らせて、その真意を探す。私が黙って考えていると、彼はひとりでに喋り始めた。
「どういう食べ物はダメで、どういう食べ物ならオッケーなのか、とかだけじゃなくて、生まれ持ったアレルギーに対して君がどう考えているのか……とか。そういうのを含めて、君をもっと知りたいんだけど……」
捨てられた子犬のような目線を受けた瞬間、心臓の鼓動が早まるのを感じた。
そんなこと、病院の先生にも言われなかったし聞かれなかった。そうかもしれない。私は、理解されたかっただけなのかもしれない。
「……引いてないの? 私、一緒にクレープも食べれない女だよ?」
「うん、引いてない。いつか小麦を使わないクレープ、二人で作ろうよ」
「本当に?」
「ほんと」
彼は笑った。私が笑ったからかもしれない。
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