「運命」のはじまり【香高葵の場合】

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 お堅い家柄に生まれ、その倣いに従って、俺は父親やその兄弟といった親戚たちと同じ道を歩む――はずだった。 …そう、はずだった――が、それも今となっては過去の話で、二度と浮上することのない可能性だ。  なにがあったのか――それはとても都合のいい「偶然」だった。 唯一趣味にしていた写真が著名な写真家の目に留まり、「写真家の道を目指してみないか」と誘われて。  家族はもちろん反対したが、俺を拾ってくれた写真家――師匠が両親に頼み込んでくれたおかげで、俺は「家柄」という縛りから解放され、写真家(ししょう)の弟子として晴れて写真家を目指すことが許された。  ――偶然ではあったが、これは「奇跡的」なコトだったと思っている。 これがなければ、俺はきっと無為に人生を送っていた。 ただただ家に縛られ、お家を繁栄させるための歯車として――意義なく、生きていただろうから。  師匠の元へ弟子入りしたのは俺が高校生の時――だがそれは大学受験を控えた三年の冬の話。 なんとなし、師匠の仕事について回って、色々な技術や知識を吸収させてもらえるんだろう――と、思っていたが、その期待はあっさりと裏切られた。  そもそも、大学に入れられた時点で気づくべきだった。 連れ回すつもりなら、自分の元で一から育てるつもりなら――大学に入れる必要なんてないはずで。  ただ師匠の言い分としては、「自由な大学生活の中で、感性を磨く必要があった」とのこと。 …まぁ、個性を抑圧されて育った俺の場合、そういった部分を改めて見つめ直す必要があった――とは思う。結果論だが。  4年という長い学生生活を自由気ままに謳歌して、俺はついに師匠の元で本格的に写真家としての勉強をはじめた。 ――が、それは半年もしないうちに「終了」となっていた。  一応、大学時代から師匠には基礎的なことは合間を見て教えてもらっていた。 そして、夏の長期休暇には師匠の仕事や撮影旅行に同行して――と、ただただ気楽な学生生活を過ごしていたわけでもない。 更に先を見据え、カメラアシスタントのバイトや、プロの技術をより近くで学ぶために被写体(モデル)のバイトもした―― …とはいえ、その程度の経験でどうにかなるような甘い業界(せかい)じゃない。 だからもっと多くの知識や技術、そして経験を積もう――と思っていたのに、「基礎はものになっているから、あとは自分の力で極めろ」だそうで。 たった半年の同行ののち――俺は問答無用で独り立ちする運びになっていた。  …単純に、師匠の人柄を好いていた俺としては、もっと師匠の側で知識や技術はもちろん、それ以上にモノの見方を学びたかった――が、それを他ならぬ師匠がよしとしなかった。 …一応俺も、「まだ」と食い下がってはみた――んだが、俺の個性を、感性をもっと伸ばしたい――…と言われては、さすがに引き下がるしかなかった。  師匠の元を離れ、俺は――早々に旅に出た。 新人カメラマン――どころか、厳密カメラマン見習いであるはずの俺が、その選択肢を選ぶのは生意気だ、という自覚はあった。 だが幸か不幸か、俺にはその選択肢を選ぶ「余裕」というのがあって。 大学時代のバイトで貯めた貯金に、その頃に受賞したコンテストの賞金――と、 そのことで俺の実績を認めてくれた両親からの援助もあって、定職に就かずとも生活していけるだけの資金(よゆう)が、俺にはあった。 …だから、生意気を自覚しながらも俺は「撮影のための旅」なんて、大先輩(ししょう)と同じことをしていた。  思いの向くまま、気の向くまま――気になる風景を見つけては、それを目指して旅に出て、 そこから更になにかを見つければ、拠点にしている東京へは戻らず、一ヶ月も二ヶ月も地方を転々とする―― ――そんな生活を送りはじめて早半年。とりあえずの満足がいって、俺は一度東京へと戻っていた。 …まぁ、戻ったところで何があるわけでもないんだが、時に都会の喧騒、そして気心知れた友人たちが恋しくなる――そんな現象が、時には起きるわけで。  とはいえ、花咲く西の地から帰ってきたばかりの身で、友人たちと土産話を酒の肴に語り明かす――なんて気には少々なれない。 …俺だけの都合を言えば、そうしたいところだが――相手にも都合というものがある。 久しぶりに帰ってきた――とはいえ、自由気ままな旅人の気分(つごう)よりも、都会(しゃかい)の中で働く友人たちの都合をまず優先するべきだろう――常識的に。  となれば、俺が向かうべき場所は自宅一択――のはずが、ポケットの中で震えたスマートフォンによって、それ以外の選択肢が増えるのだった。
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