月世界八十八夜(4)

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月世界八十八夜(4)

 ストリートビューのボタンを、期待を込めて押す。すると、真っ暗な海みたいな、何の光もない岩の固まりが映し出されて、心が闇に吸い込まれそうになり、はっとして千葉は顔を上げた。大丈夫、ぼくはまだここにいる……。心配そうに見ているコトハに彼は答えた。 「わかった、ツクヨミは月にいる」  月の神であるツクヨミが月に行けるのは、きっと道理なのだろう。本気で月に隠れられてしまえば、こちらから干渉しようがない。だって月だぞ。遠い。無人ロケットで飛行するのだって、大変な手間お金、根性、いろいろかかる。 「ふん、月にくらい行けるぜ」  余計なことを言わなければいいのに、なにがしかのプライドを刺激されたらしいイナバが怒ったように言う。 「ほんとう? 信じますよ、イナバ!」 「よし、危ないからおいらだけで行ってくるよ」  スサノオがにこやかに進言する。なんていい神なんだ、今までのイメージはすべて払拭して、千葉はスサノオを信仰しようと心に誓った。 「そうはいきません! もともとツクヨミ様を捜していたのはこちらです。ねえ千葉?」 「ぼくは関係ないでしょ!」 「え? 月に行きたくないんです? あの月ですよ、みんなの憧れの! こんなチャンス二度とないですよ」 「死んじゃうよ! 宇宙服も着ないで月になんて行ったら、息できないよ! そもそも道半ばで倒れるよ!」 「息くらい、みんなできると思いますけれど……?」 「きみほんと一般知識に欠けるよね! 普通の人間は水の中や、酸素のない宇宙とかほかの惑星じゃあ、生きられないんだよっ!」  理解できないといった目で、コトハは首を傾げる。 「べつに水の中でも息できますよねぇ? 宇宙でも平気でしょ。ツクヨミ様も平気みたいですし~」 「うん」 スサノオは大きくうなずく。そういえばこの少年、さっきずっと水着も着ないで素潜りしていたのだっけ……。神に挟まれた千葉はため息を付いた。  神の世界の常識で話されても……。 「とにかくぼくは行かないからね。っていうか赤坂に帰るから……いや、むしろ千葉に帰るよ! イナバ、送っていってくれよ」 「なんでおまえを送らなきゃいけないんだよ」 「そうですよ。イナバは今から月に行くんですからね~!」 「マジで言ってるの……今から行くの?」 「当たり前ですし真面目ですよ。さあ参りましょう! 善は急げといいます! 時間がないんです」  スサノオが巨大ウミガメからイナバの背中に、ぴょんと飛び乗った。三人も乗られて迷惑そうに目を細めたイナバだったが、すぐに覚悟を決めたのか、上昇をはじめた。  黄泉の国に、海原に、連れ回されて。 今度は宇宙だ。  千葉はもう観念するしかなかった。すぐに気絶した。  ***  まさか月で呼吸ができるとは。 苦しい苦しいと思いながら、息を吸ったりはいたりしていると、急にすとんと、ふだんと変わらない呼吸が出来ていることに気づいた。 千葉は改めて周辺を見回した。  ひんやりとつめたい。地球の四分の一ほどの小規模なサイズの星とはいえ、月にはなんの建築物もないし水もない。 アポロ計画のとき、宇宙飛行士が足を踏み入れたことはあると思うけれど、この広大な土地ほぼすべてが人跡未踏の土。クレーターだらけの、チーズみたいなぼこぼこした陸地がただひたすら続いているんだから。そりゃあ、広い。  地球からは月が観測できなくなっているらしいが、現地は、真っ暗でなにも見えないという悲惨な状況ではなかった。人工的な灯火は一つもないのに薄ぼんやりと明るくて、足下は確認できる。 「ツクヨミ様はどこにいらっしゃるんでしょう……」 「あ、いたよ」  スサノオが気楽に指さした先には、暗く長い人影がひとつ伸びている。あれは……。 「ツクヨミ様―!」 「ちょ、まってえええええ」  やはり彼女の辞書には正攻法という言葉しかないようで、コトハは真っ正面から走っていって声をかけた。びくんとまぶたを動かして困惑したツクヨミは、急流の滝みたいな勢いで逃げ出した。 「待てウラアアア」  イナバは兎というよりチーターのスピードで鋭敏に走り先回りして、ツクヨミの眼前に回り込んだ。こんな場所までつきあわされて、憤慨しているのだろう。  ツクヨミは恐れの目で早くも逃亡を打ち止め、いじけたようにその場に三角座りして地球を眺めた。  夢でも見ているのではないのか、青く丸い地球は写真で見るよりも綺麗で、奇跡の一片を感じるしかない。  スサノオは兄の後ろに立つ。 「なんで逃げたりしたんだよ、ツクヨミ」 「明るく広い空の下の、海原にいるおまえにはわからないんだよ、スサノオ。暗くじめじめした夜の国の統治を言い渡された、私の気持ちなど……」 「そりゃーわかんないけど」  千葉から見ても、美形の兄弟が並ぶと圧巻で、コトハは震えながら目を皿のようにして見つめている。 「考えてもみろ……アマテラスと私とスサノオ……。イザナギ、イザナミから生まれた、この3柱。アマテラスとスサノオにはそれぞれ有名なエピソードがあって、その活躍ぶりは現在も日本に色濃く伝わっていて、伊勢神宮などで信仰もさかん……。しかし私はいったいなんなのだ、え? ツクヨミなんて誰も知らない。なんのキャラ立てもされてない、私にまつわるエピソードもない、人々に忘れ去られるのも納得しちゃう道理じゃないか……!」  やはり自分の存在感の無さに悩んでいたらしい。  千葉はおなかをかきながら、まあまあと笑って告げた。 「あのな、ぼくこれでも勉強熱心だから、ツクヨミさんと最初に会ってから、自分なりに神話とかの関連書籍を読んでみたわけ。で、そのなかでもおもしろかったのが『中空構造 日本の構造』って本ね。つまり中心は空洞なんだよ。これは日本独特の、簡単に言うと社長はなにもしないで実際にばりばり働くのは、平の社員という、中空構造の文化が昔からあって――」 「そんな慰めは不要だああああ!」  長い髪を振って悲嘆にくれるツクヨミ。 「おい、ぼくのありがたいトークをあっさり遮るなよぉ! これでもラジオは好調で、聴視率調査では連続でトップなんだからなあ!」 「あー、それはあの時間帯、ほかに聞くラジオがないからですよお。だってほかの番組、語学番組の再放送か、大学の退屈な講義か、ながーいオーケストラの演奏しかやってないんですもん」 コトハが冷静に指摘してくる。 「そうかもしれないけどそれは言うな!」  確かにほかと競っていないので、ぬるま湯につかるような心地でしゃべってしまうのは仕方ないと言える。ライバル不在では、トークの腕は磨けないのかもしれない……いったいどうすれば……。  スサノオがまったく危機感のない笑顔で、耳の裏をかきながら言う。 「とにかくツクヨミを連れ戻せばいいんだろぉ?」 「そうです! 仲の良いスサノオ様だけが頼りですよ!! お願いしますね!」  まかしとけと根拠のない自信をちらつかせて、スサノオは背伸びして長身のツクヨミの頭を梳いた。 「なあなあ、ツクヨミ、なにが欲しいの?」 「静寂が……そして穏やかな心が欲しいんだ……」  膝に手を当て、なにもかも諦観した変化のない表情でツクヨミが話す。 「月が見えなくなって八十八日経つと、世界から月は完全に消えて、ぼくは月とともに『月世界』へと移行するんだって」 「え?」  ツクヨミによると、月はいま、太陽の光が当たらないように、闇で覆い隠しているのだという。  じゃあこの、うっすらぼんやり光っているのは……。 「アマテラスだな。あいつが、月に光を当ててるんだ」 イナバが地を後ろ足で、ぺぺっと蹴っている。 「いや、いま新月だから、月見えたら逆にまずいだろ……?」 「まあアマテラスにそういう細かいことは分からねーよ」 「分かれよおお! てきとーすぎるよお!」  地団駄を踏むと、あまりにも地表が堅くて膝が壊れそうになった。  ツクヨミはそれらをまるで無視して続けた。 「『月世界』は、それはそれは綺麗な世界なんだ……イザナミに聞いたことがある。太陽の恩恵ない世界だ。そこで暮らす人々はここの人間とは少し違って、低体温で、身長も低くて、とても粗食で、太陰暦で生きて、月の明かりでひそやかに暮らしている。昼間でも、夕暮れほどの明るさしかない。そこは闇と光のあいまの世界で、だから妖怪や妖精が暮らしていて……とてもすてきなところなんだ。私はそこに行こうと思う。次元が違う場所だから、ここには迷惑はかけないよ。だから――」 「もう帰ってこないつもりなのか?」  一筆で引かれたようなしっかりとした眉を下げて、スサノオはツクヨミの胸元をにらんだ。身長差のせいだ。スサノオは見上げるのが好きではないようで、顔を上げることはしなかった。 「もちろん、そのつもりだ。月などなくてもこの世界は一向に困らない。そうだろう? きっと最初は大騒ぎするかもしれないけど、それも一過性のものさ……ただの星だ。月などみんなすぐに忘れるさ。太陽さえあれば、地球の生命は長らえるのだから……」  いじけた末に、『月世界』なるじめじめした場所に引っ越しを考えているツクヨミのいじけっぷりには、感服するほどだった。どんな引きこもりだって、ネットの閲覧はやめない。 逆にネットで世界や人々に間接的にふれるからこそ、引きこもり現象は助長されているのかもしれない――と千葉は考えている。携帯電話もインターネットもない、FAXもない、電話線さえ家庭に引かれていない……そんな時代では、引きこもると、本当に世間から断絶される。誰とも繋がることが出来ない。  そんな生活に、人は耐えられるだろうか?  千葉だってほんとうは、好きな仕事だけして食べていきたい。ラジオでしゃべるのは大好きだが、他人と顔をつきあわせて交流するのは、モグラの掘った穴に入って逃げたいほどに苦手なのだ。片手に余るほどの友人に支えられてなんとかやってきたのだ。神様たちは、彼らは人ではないので人間社会とは交わっていないため、むしろつきあいやすいと感じるくらいだった。  逃げ出したいツクヨミの気持ちはわかる。けれど――すっきりしない。 「なぁ。その月世界とやらは、地球からは行き来できないんだよな? メールもできない?」 「おそらくはそうだろう」 「本当にそれでいいのかよ、あんたは。仲のいい家族とも、連絡取れなくなるんだぞ」 「だからツクヨミ様をあんた呼ばわりって……」  コトハを無視して、千葉はツクヨミの肩に手をおいた。流し目で目をそらすツクヨミに、寂しさと憂いをみる。 「ぼくのラジオも聴けないじゃねーか!」 「ラジオ……とは?」 「いいか、ぼくはあんたのためにこれからラジオでしゃべる。夜の国で、月を見上げて、物足りない時間を過ごしてるときは、ぼくのトークを聞け! いつでもツクヨミのためにしゃべるから」  週に一度しか放送がないことがうらめしい。帯番組にして毎夜、二時間ずつしゃべれるのなら、もっとツクヨミに声を届けられるのに。 「ツクヨミがいくならおいらも行くよ!」  空気を読むという、日本人に備わった能力は神々には通用しないようだ。スサノオが千葉の発言や流れを無視して宣言した。続いてまもなく、コトハも短い諸手をあげる。 「そ、そ、そそんな、スサノオ様まで……! じゃあわたしもお供します!」 「おまえがノってどうすんの!?」 「だってだって、スサノオ様と出会えた奇跡を無駄にしたくありませんっ!」  涙目で訴えてくる。もうだめだこいつ……  揉めている輪の中央に、ほのかな灯りがぽつんと落ちた。  目に優しい灯火だ。  千葉は胸がふわりと浮き立つ心地がした。まばゆいほどの光の筋が雨のように月のクレーターに降り注ぐ。流星群かと身構えた。  その幾筋もの光から、すっくと伸びるしなやかな影。  両腕を掲げて主張していたコトハが膝を折り、その場にひざまずく。 「そうかぁ。じゃあわしも行こうかねぇ、その月世界とやらに」  登場したのは太陽の使者、天照神その人だった。 「アマテラス」 ツクヨミがまばたきもせずに固まっている。 「あ、おねえちゃん」 とスサノオ。   スサノオとツクヨミに両脇を固められたアマテラスは、よりいっそうその輝きを増すようだった。瞳に強い光が点る。金色の長い髪は、秋の都の黄葉のように、みる者の目を楽しませた。胸元には、青色の勾玉ネックレスがあった。 「やれやれ、こんな僻地に来るとは思いも寄らなかった。月はいいねぇ、静かで。わしも太陽でなく月の神がよかったな」 「どうしてここがわかったんだ……?」  アマテラスは森林を包み込むような慈悲深い笑みで、指先をスサノオの額につんと当てた。 「こいつのスマートフォンのGPSをたどれるようにしているんだよ。いろいろと前科があるものだからな……念のためだ。いつもおとなしく、海に暮らしているのに、急に妙な動きをしたものだから。気になって来てみたらこの有様だ、はぁ」 「おいらはツクヨミを探しに来たんだよ! オイタはしてないぜ!」 「わかってるよ、スサノオ。久しぶりだな」  スサノオの頭部をふわりとひとなでして、アマテラスはツクヨミに顔を向けた。 「さてツクヨミ、だいたい話は聞かせてもらったが……」 「ふん、どうせ止めるのだろう。自分は失踪して引きこもったくせに、私には寛容じゃないのだ」 「そんなことはない。仕事がいやになるのは誰にでもあることだ、わしだってある。この世の雑念や瑣事はすべて捨て置いて、わしも月世界に行こうじゃないか」  なんと、アマテラスも行くと言い始めた。 アマテラスがいないと日本はおしまいだ。わかってるのかこのひとは。 「ちょっとちょっとタイム、待てよー」  それ以上の声は上げられなかった。  アマテラスが両手で、弟ふたりの手を取ってつなぎあう。きょとんと、ツクヨミは子どものような表情でアマテラスを見やった。 「我らは三位一体。離れることはない。ツクヨミがいないのならば、葦原の国にもタカマガハラにも、夜の国にも未練はないぞ。月世界でのんびりと暮らそうじゃないか。なぁ」 「アマテラス……おまえというやつは、なんてバカなんだ……」  どうやら、同意したフリだとか、裏をかく作戦とかそういったことでもないらしく、アマテラスの目が本気だと告げていた。抵抗するかと思いきや、スサノオまで笑顔で首肯している。  あんぐりと口を開け、千葉は大きく息を吐いた。ぐるぐるとその場を歩き回るが、なんのアイデアも浮かばない。 「おいコトハ、イナバ、どうするんだよ。話がまとまりかけてるぞ」  まだ膝をついて微動しないコトハは、惚けたように機械的につぶやいた。 「仕方ありません……もう、じたばたしても仕方ありません。すべて、享受しましょう」 「はぁ? なに言ってるの?」 「アマテラス様たちがお決めになったことを、こちらが覆すなど、かなわぬこと。それで日本が滅びるのなら、われわれはそれまでの宿命だったということです」 「おい、おまえな、コトハ」 「もー、何度言ったらわかるんですか千葉? わたしは曲がりなりにも神様なんですよぉ」  堪忍袋の尾が切れそうだ。いかにも幸せそうにパンケーキや、ロールケーキを食べ、紅茶を飲み、ラジオに愉しげなメールを送ってくるこのクソ神様。なにが神だよこのやろう。なにが言葉の神だよ。ラジオで毎週二時間きっちりしゃべっている自分の方がよほど神だ、と千葉は心を大きくした。  コトハの両肩をつかみ、強く揺さぶった。 「なら! 神様だって豪語するなら、ちっとは本気だして神様らしくしやがれ! おまえ、アマテラス様の仕事の後継者候補なんだろーが! 太陽をのぼらせて、そして夕方に沈ませる、おまえがやればいい!」 「わたし……? わたしが?」  今、目が覚めたようにコトハが目を見開いた。曲げていたひざをまっすぐにしてたち、よろめきながら、頭をかく。 「ほんとに日本が、地球が滅んでいいのか? 太陽がなくなれば、もうおいしいケーキも食えないしラジオも聞けない。たぶん氷河期になって、大洪水と大災害が起こって、人間は一人残らず死ぬんだぞ! 神様だったら死なないかもしれないけどな、人間がつくるおいしい食べ物は食えないぞ、楽しいラジオは聴けない! ドラマもアニメもマンガも、おもしろいもんはぜんぶひとつのこらず消える! それでいいのかよ!」 「千葉……、わたしは……」  コトハの唇が小さく震えて、まるでなにも知らない、迷子の子どものように見えた。初めて会ったときのように。 「おまえにこれを、コトハ」  アマテラスが差し出したのは、彼女の本職である舞に欠くことのできない大きな扇だった。紫色の濃い艶やかに染まった布。一振りすれば、小さいコトハが吹かれて転がりそうなほど大きな。  コトハの瞳に光が戻った。 「アマテラス様っ……ど、どうして、大切なものを、わたしなんかに……?」 「どうしてって、もう時間がないし、ここにはおまえしかいないから。それだけだ」 「わたしは期待されている、そういうことですね?」  コトハはアマテラスの手を握って、同意を求めた。アマテラスはほほえむ。まさに女神様の笑みで。 「おいおい都合のいい解釈だな!? たまたまそばにいたやつに渡すしかないってことだと思うけど!」  千葉のつっこみの言葉は完全に無視され、舞い上がったコトハは、受け渡された扇を大切に持った。 「千葉! わたし希望を託されました。希望の星なんです! わたしがんばりますね! アマテラス様のあとをりっぱに引き継いでみせますから!」 「ああ、がんばれよ、死ぬ気でがんばってくれ、たのむコトハ……」  もう応援しか出来ることはない。アマテラスたちを引き留める説得は、絶望的だろう。  それからのことはよく覚えていない。  イナバの乗り心地にだいぶ慣れてきて、怖さが快感になってきたことだけが、この不思議体験一連の、最後の記憶になった。    あれ以来、千葉はあの連中には会っていない。
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