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八歳のわたしは、町の市民体育館プールのエントランスで、小さく微笑んでいる。
当時流行りだった、パイナップルみたいな頭の女の子がALOHAってポーズしているTシャツ。色あせているけれど、もともとは淡いピンク。
ダメージデニムの半ズボンをはいて、スイミングクラブのロゴがプリントされたスポーツタオルを首から下げて。
今よりもずいぶん若い母と並んで、両手でピースしている。
笑顔。だけれど、こわばっている。
この日は、わたしにとって勝負の日だったのだ。
200mクロールで泳ぎきれば、上級クラスに上がれる。
スイミングを習い始めた頃。まだ水に顔をつけるのもままならなかった頃。
染谷コーチがこう言ったのだ。
「由紀ちゃんは、すごくからだの力を抜くのが上手だから。まだ、水の中で目を開けるのが怖いけど、それができるようになったら、すぐ泳げるようになる。本当だよ。きっと、選手育成クラスに入れる逸材だと思う。自信持って」
それが、わたしの負けん気に火をつけた。
家族で楽しみにしていた探偵ドラマの主人公に、染谷コーチがちょっと似ているのが大きかったかも。
わたしは200mクロールのテストに合格できるのかな。
わからないことは、知っている人に聞いてみよう。
十二歳のわたしが、女の子と三人並んで大きな笑顔を咲かせている。
プールサイド。
市民プールでも、スクールのプールでもない、コース設備の整ったアクアマリンのプールが背景。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど?」
十二歳のわたしは、こちらを振り返ってちょっとびっくりしたみたいだった。だけど、機嫌がよかったみたい。
「あのね、わたし、上級クラスに行けたかな? あの、できれば、選手育成コースに入っていたいんだけれど」
十二歳のわたしは、クスリと笑って、競技用水着の胸元で光る銀色のメダルをぐいっとわたしに近づけた。
わお。選手育成コースどころか。
強化選手に抜擢されて、地区大会の決勝にまで出たのね。
十二歳のわたしは、リビングのソファに浅く腰掛けて、もう割れてしまったお気に入りのマグカップを両手で包んでいる。
中身は、たぶん、ホットココア。
母のお下がりの、キャメルブラウンのストールを肩にかけている。
ラメ糸が上品にストライプを描いていて、わたしもお気に入りだったのだけれど、母の肩をあたためつづけて幾度の冬を超え、きらめきが薄れてしまった。それで、わたしにお下がりしたというわけ。
片耳に、白いイヤフォンをはめている。
英語のリスニング強化CDを聴いているのだ。
父と母が通った中高一貫校への受験を控えていた。
運動会とか、書道の検定日とか、水泳の選考会とか、テストの日とか。
緊張しすぎておなかを壊したり、風邪を引いたりすることが多いわたし。
試験日、ぶじ会場へ向かえたのだろうか?
そして、その結果は?
翌年のわたしが、桜吹雪のなかに立っているのをこっそり探し当てた。
その日は風が強くて、モスグリーンのプリーツスカートが、めくられていく本のページみたいに高らかに、前進している。
ねえ、と声をかけようとして、口をつぐんだ。
わたしの志望校の制服は、ボルドーがシンボルカラーだ。
モスグリーンは、第二志望の、中高一貫校。
わたし、第一志望の学校に合格できたかな?
アスファルトに舞い落ちる桜の花びらが、一瞬ののちに白いさざなみをたてる。モスグリーンの制服を着て、わたしは、凛と空の下に立っている。
わたしは、わたしを振り返った。
そして、少し寂しそうに笑った。
「心配しなくっていいのよ」
と、だれかが言った。
わたしと、わたしは、はっとして振り返った。
わお。
そのままはばたいて空が飛べそうな、ミニーマウスの耳をつけたわたしが満面の笑みで手を振っている。
ディズニーランドの、ビッグサンダーマウンテンの前で、これ以上咲かせられないくらいに大きな笑顔で、ずらりと並んだ女の子たちと肩を組んでいる。
うん、結果オーライってやつね。
十八歳のわたしは、みんなにばれないくらいのほどよい距離で、タケルくんと寄り添っている。
高校卒業を控えて、卒業アルバムに貼るための、スナップショットを撮りためていたあの頃。
大学受験も終わり、涙あり笑いあり、でも、それぞれの進路がようやくはっきりして、これから新しい自分に脱皮するのだ。
さようなら、みんな。
さようなら、教室。
本当はすごく寂しいのに、本当はすごく心細いのに、ネガティブな心を覆い隠すみたいにはしゃいで、笑って、大声出して、机を蹴っ飛ばして、黒板に
「ありがとう!」
って書いて。
ねえ、教えて?
わたし、タケルくんとずっといっしょかな?
高校を卒業したら、別々の道。
タケルくんは東京。わたしは京都。
卒業しても、ずっといっしょだよって約束した。
プロミスリングも買って、ふたりの写真をたくさん撮って。恋人同士で食べれば永遠の愛が約束されるって噂のピーチミント・アイスクリームのお店にも行った。
すごく久しぶりに、アルバムを手にとった。
こういう日は。
雲ひとつない、晴れた日は。
仕事も、休みだし。
子どもたちは、学校だし。
夫は、今夜、出張から帰ってくるし。
電子レンジでチン、じゃなくて、ミルクをじっくりウォーマーであたためて、特別なマグカップに注いで、LINDORのビターチョコを少しずつ、溶かしながら飲みたくなる、こういう日には。
思い出に浸るブレイクタイムを、自分にゆるしてあげるのにうってつけだ。
シンプルで、重厚な、背表紙。
ゴシック体で、《My memories》と刻んである。
一番はじめのページから、じゃなくて、なんとなく、開いた。
なるべく、無心に。
写真が、呼んでいるって感じるページから。
きゅっと、胸が締め付けられる。
十八歳のわたしが、懐かしい友人たちと高校の教室で抱き合って笑っている。
ああ、こんなふうに。
不安も心配もなんにもないって顔で、笑えないな、今は。
本当は、不安で心配で胸が潰れそうなのに、ダイヤモンドみたいな輝きの未来にわくわくしていた、あの頃。
「ねえ、あのう、ちょっと?」
突然、女の子に呼びかけられた。
家には、わたしひとりしかいないはず。
驚いて、立ち上がる。
慌てて周囲を見回す。
「こっち、こっち」
また、声がした。
・・・・・・下から?
恐る恐る、目線を下げる。
写真のなかのわたしが、ちょっときまり悪そうに、手を振っている。
うわっと、わたしは小さく叫んだ。
「あっ、お願い、閉じないで。ちょっと聞きたいだけなの。あのね・・・・・・」
くすっと、わたしは笑った。
だって、十八歳のわたしはまるで、おもちゃ箱みたいなのだ。
カラフルで、無鉄砲で、短絡的で、やたら慎重で。
ああ、我ながら。
恥ずかしいぞ、青春。
「あのね・・・・・・わたしって・・・・・・わたしの結婚相手って、タケルくんなのかな?」
わたしはちょっと考える、振りをした。
「それはね、年を重ねてからの、お楽しみよ!」
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