青いビバップ

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青いビバップ

一、プロローグ   小学生の頃から勉強は嫌いではなかった。 国語は色んな人達が綴った面白い話や、考えを知ることが出来たし、算数は難しい問題が解けた時は、最期のパズルのピースをはめたときと同様の心地よさがあった。  社会は学校以外の場所で起こっていることを知れた。 それ故か周りの級友が勉強をする時、トイレ掃除担当を任されたときの様な顔をしていたことを理解は出来なかった。 生活態度は大人しかった。昼休みは生徒達から忘れ去られた図書室に入り浸り、歴史について書かれた漫画を読み漁った。遅刻も欠席も一回もしたことはなかったし、保健室にも派手にすっころんだとしても行かなかった。 それは小学生から中学生になっても変わりなかった。成績は小学校から中学校に変わっても、学年一位を取っていた。 なのに、決して自分は「優等生」とは呼ばれなかった。先生達からは冷めた目線しかもらえなかった。いい点数を取っても、対応は変わらなかった。友達もあまりいなかった。いじめられていたわけではなかった。男子も女子も近寄らなかった。 全部、そう、この性格のせいだった。 二、東海林累という男  小学二年生の時、急にある男子から雑巾の絞り汁を頭にかけられた事がきっかけだったのは覚えている。 その男子は、クラスの中ではスポーツが出来る一方で勉強はからきしだった。彼はスポーツが出来るという一点と、その傲慢な性格で自分の権威をクラスで守っていた。そんな彼にとって、勉強を好んでやり、良い成績を取っていた自分は異質な存在で、彼の権威を脅かす脅威だったのかもしれない。 その時、自分には色んな選択肢があったであろう。静かに泣いて、無言で彼のイジメに耐えて、その後の小学生生活を暗い気分で過ごす。卑怯者とののしられようが先生に後でそのことを報告する。 だが、自分がとった行動はその男子のみぞおちめがけて拳を迷いなく撃ち込むというものだった。 彼は教室の床に膝をつき、泣き声を出したくても出せないでいた、まだ声変わりしない高い声で「ううう…。」とうなっていた。 彼の取り巻きの顔は、ニヤニヤしたものから、恐怖に歪んでおり、周りの級友達は驚いた顔で自分達を見ていた。 …そう、ここで終わらせておけば良かったのだ、自分は彼の頭めがけて、蹴りをいれた。彼が少しうつむいた顔から見せた睨みから感じ取れた反抗心を完璧に叩き折るためだ。 それまで驚いてはいたが、傍若無人なガキ大将をのしたという点である意味喜びと尊敬に満ちたクラスメイトたちの表情は恐怖のものになった。 その後は、彼による攻撃は無くなった。彼は自分を見るたびに酷くおびえ、避けるようになった。そしてその態度はクラスメイト全員も同様だった。 教師からは、どちらかというと先に仕掛けた相手よりも自分の方が厳重に注意された、その時は「ごめんなさい」と口にしたものの、内心では、まったく納得なんてしていなかった。その後も似たようなことは小学生卒業まで何度かあった。 「不当な暴力に対しては、徹底的に対抗するべき」 自分が幼い頃から持っていた信念だった。 それは自分が好んで読んでいた歴史の中の偉人達の行いや発言によって舗装された強固な信念だった。それが教師に対して謝るのを躊躇させ、徹底的に相手を叩きのめす行動の原動力となっていた。 そのせいで友人をだんだんと無くし、敵を増やしていったのは当然の事だと言える。 寂しさや苛立ちは何度も覚えたが、この信念を曲げてしまったら自分の正義が無くなることが幼い自分にとっては一番の苦痛だった。 中学生になると、小学生の時みたいに一度徹底的に相手をのしても、それで終わりという訳にはいかなかった。勉強に熱中していて一見すると反抗的な態度を取らなそうな自分にちょっかいを出してくるものはいた。それに小学生の時のように徹底的な返しをした結果、暴力の連鎖を生んだのである。 倒した相手の先輩や仲間が自分を襲撃してきた。何回か、かなり酷い目にあったこともある。しかし、その暴力に屈したことは一度もなかった。 傷が癒え次第、徹底的に襲撃してきた相手を潰していった。それがまた暴力の連鎖を生み、そしてそれを自分が潰す。不当な暴力から身を守るために小学生の時から体を鍛えたり、格闘系の教室に通ったり、好き好んで読んでいたかつての剣豪達の名勝負が生きた事もある。 ある時は、柄が悪い事で知られる高校でも凶悪である事で知られる3人の襲撃を事前に察知し、奇襲を仕掛けた事があった。 初手は野球ボールの硬球を一番倒しやすそうな奴に当てて、相手が呆然としている間に、他の1人の喉に一撃を入れ、残りの一人に防犯スプレーで目つぶし、野球ボールの痛みを受けてうずくまった相手の首の後ろに踵落しを入れ、目つぶしをした相手のがら空きのみぞおちに一撃を入れ、喉を突いた男をじっくりボコボコにした。 ある時、ボクシングをしていた高校3年の年上に1対1を挑まれた事もある。 1対1とは言われたものの勝負場所の周辺をくまなく調べたら手下が4人ほどいたので別個撃破し、まるでなんともなかったかのように勝負場所に行き、初手防犯スプレーで目を潰し、その後、ボディの急所にアッパーを入れた。 「卑怯者!」と言われたが、お互い様だろう。 正々堂々じゃない!と思う人がいるかもしれないが、自分がやっていたのは別にスポーツじゃなかった。 相手も数人で奇襲や得物を持っての勝負など日常茶飯事だったのである。 防犯スプレーと野球ボールだけで済ませていた自分の方がむしろ正々堂々としてたと言えるだろう。 中学二年の終わり頃には、町の中では有名な「不良」として知られていた。警察にも何度か世話になったのがその証拠と言えるかもしれない。 そんな時にも勉強はちゃんと続けていた。それは好きだったからでもあり、自分が「不良」でないことを証明するものだったからだ。その証明のために常に成績は上位を取り続けていた。 それが自分にとって一番大事なものであった。 中学三年目の秋頃になると、襲撃は収まっていった。自分が復讐に復讐を重ねたせいで彼らからも「頭のおかしい、触れてはいけないやつ」という認識でもついたのだろう。 ただ、その頃の自分にとっては、そんなことはどうでもいいことだった。丁度、高校入試に専念したいと気が競っていた頃だったからだ。 「勉強に力を入れている進学校に行けば、集まる生徒のレベルは高くなる。」 中学一年生の頃に、自分の状況に対して危機感を抱いてくれた心の優しい教師が自分にかけてくれた言葉だ。 教師としてはあまり言ってはいけない言葉だったのかもしれないが、その言葉のおかげで自分を保つことが出来た。 「自分は彼らとは違う。」 「ただ自分の信念に従って、行動した結果。」 「合格すれば他者に仕掛けてくる愚か者などいない。」 「そこでは友人や、 …できれば可愛い女子と気軽に話せるような、青い青い青春が待っている!」 その言葉を何度も何度も頭の中で繰り返していた。  試験当日はこれまでにないほど、多幸感に満ちた日だった。今までに勉強を好きだった事もあったが、新しい青春のために身を粉にしてきた結果、試験自体は暖簾に腕を押すどころか、押すものが何もないかの如くスイスイと問題を解いていった。  むしろ問題を一問一問解いていくのが快感だった。中学校の定型の様な問題とは違う、本当に脳を動かすとはこういう事だという問題がそこにあったからだ。  試験を終えた後、試験会場の教室を見渡すと、そこにはいろんな顔があった。開放感に満たされ、友人と喋っている笑顔の者、無表情で教室から去る者、この世の終わりかと思えるほどの絶望を貼り付けている者。ただ、それらの顔が共通していたのは、人に対して突然、鉄拳を打ち込んでくる人種とは、全然違った顔をしていたことだった。  彼らの瞳は輝いており焦点が定まっていた。そして全員が全員じゃなかったが、自分と同じような顔をしているものを見つけた。そう、勉強に楽しさを見出し、自分の脳をフル回転させることに快感を得る顔だ。    試験後の面接は、たどたどしさが残ったが、並みの回答をして終わった。自分は自分の合格の不安点はその面接ぐらいしかないと確信していた。問題用紙は回収されてしまったが、問題を思い出し、家で何度も解き、過去の問題などを参考に答えを導いてみたが、試験の際に書いた答えが的外れということはなかった。その後には地元の進学校ではない公立高校の試験が控えており、一応の対策はしていたが、自分は受ける必要はないだろうと安心しきっていた。    …通知が来た時の時の事は覚えているというよりは忘れられない。朝、何故かいつもより目を早く覚まし、制服に着替え、雪が続いた中で、雲ひとつない程晴れやかだった外に両親を起こさない様に物音を立てずに出た。  向かった先は自分がこれから通う事になると思っていた高校で、自分はまだ寒さが残る早朝に掲示板に張り出される合格者の番号が掲げられるのを待っていた。  段々と人が校門前に集まり始めた時に、職員と思わしき数人が掲示板に番号を貼りだした。待ってましたと言わんばかりに自分は番号を探し始めた。しかし、そこには自分が当然そこにあると考えていた番号は見当たらなかった。  その後の公立学校の試験日のことは、よく覚えていない。問題でつまずくことはなかったが、試験の内容や面接の内容でさえも、家に着く頃には忘れていた。合格発表の時の番号も、すぐに見つけることが出来た。  感慨や歓喜とは無縁だった。あったのは、自分が望んでいた環境から拒絶されたという絶望だった。 試験が実は全く出来ていなかったのか? 面接がやはり致命傷だったのか?    いや、違う。  落ちたのは、今までの自分の信念、もとい性格のせいだった。やられたら暴力で徹底的にやり返して、不良どもの骨を平気と折ったりするような危険な男を自分の学校に安易に招き入れるような教育者がどこにいるのだろうか。  それで警察にお世話になったりした男なら尚更だ。当たり前の事に何故気がつかなかったのか?実は自分はとんでもない馬鹿なのだろうか?何度も自分を問い詰め罵倒した。自分が目指した道を自分のくだらなすぎる信念で閉ざしてしまったのだ。だが、そのうち、それも疲れてしまった。 もう、なんでもいいや…。 三、不破野楓  机に射すレモン色の光は、実は睡眠光線なのではないかなどと、黒板の前に立つ教師の言葉を遠くに聞きながらアホみたいなことを考えて自分は机に突っ伏している。  高校二年となった今でも教師は自分のことを叱りはしないだろう。それは、自分が彼から触れてはいけない、危ない人物だと認識されているからだ。教室の生徒達は真面目に聞いているやつが全体の一割いたらいいほう、聞いているフリをしてなにか別のことをしているのが七割、一割は自分みたいに、そもそも聞くこと自体放棄している。そして残りの一割はそもそも登校しているのを見た事が無い。    県立鎌田北高等学校は、はるか昔は国立大学合格者を数名出すレベルの学校だったらしいが、頭のいい生徒が繁華街に近い進学校や、特進科を設立して実績を持つようになった他の学校に通うようになってからは、だんだんとレベルが下がっていき、今では決して頭がいいとは言えない生徒を多数入れるぐらいになってしまった。  自分を含めた一割の生徒が何故、授業中に教師の目を気にせず、他の生徒とだべったり、眠ったり、果てはずっと席にいないという状況を作れるのかというと、自分ら自身が勉学を諦めてしまったというのはあるが、先ほども述べたとおり、「危ないやつ」と思われているからだ。  中学の頃に自分のように過度な暴行や若しくは犯罪を行った者は、厳しい教師でも注意はしない。七割の方にも中学でやんちゃをしていたやつは多いが、厳しい教師には結局、屈してしまうものが多い。つまり自分は自分にも教師にも諦められている一人に数えられている。    チャイムが鳴る。今日の終業を伝えるものだ。喧騒が教室の中に広がっていく。自分は黙々と支度をし、教室の外に出る。そういう目で見られているのは、中学時代までは毛嫌いしていたが、今では心底どうでも良くなってしまった。  むしろ、そう見られることで利点はあった。この鎌田北高等学校は一番家に近いという理由だけで選んだ所だが、それ故に自分の評判が広がっているため、決して柄がいいといえない連中が多い鎌田北高等学校でも、自分にちょっかいを出してくる奴はいない。  そして教師陣も授業中、平然と居眠りをしていても、自分も含む一割に注意してくることはない。これは学校生活という規律が多い中で自由気ままに過ごせるという、「まともなやつ」と見られることを引き換えにした利点であった。    学校を出て駅に向かう。電車に乗って市街地に向かう。誰にも干渉されないメリットは、先程も述べたように「まともなやつ」という事を引き換えにしている。言い換えると「やばいやつ」と認識され続けなければ、その効力は薄れてしまう。自分はその事に、入学して早々気付き、学ランの下はシャツのボタンを二つ外してラフに着こなし、そして誰とも喋らない、喋りかけられないような態度を心がけた。    市街地の駅に着き、駅から歩く。自分と同じ学校の生徒を何人か見かける。ここは、鎌田北の生徒が遊びによく来る(というより鎌田北周辺にあるのは田んぼか畑しかないので、自然とそうなる)。その為、鎌田北から離れていると言っても油断は出来ない。    駅からだいぶ離れた所にあるクリーム色の寂れた店、外壁は所々、塗装が剥がれており、扉の右の大窓からは何も見えないが扉についている小窓からは、少しだけ、その店が何を扱っているか窺い知ることが出来る。  扉の上側にある看板には「本・DVD・雑誌」という電飾文字が光っている。学ランは脱いで大きいサイズのメッセンジャーバックの中にしまってある。4月といっても、夕方近くになると決して暖かいと言えない日がたまにある。そんな日に上着を脱いでいるが、体温は上がり、喉が渇き、心臓の鼓動が早くなっている。錆のついた濁った金色のドアノブに手をかけ、意を決して扉を開ける。    「いらっしゃい…。」  黒いニット坊を被り黄色のパーカーにグレーのエプロンをした四十前半の店主が無愛想に出迎える。  自分は一応、正面の誰もいない空間に会釈をする。その空間には、週刊誌や少年誌が貧相な品揃えで置かれている、あからさまにカモフラージュ用の棚がある。  そして、その左の壁には『小倉アリエル、デビュー3作目!! 4●手を全網羅!!』と書かれ下着姿のセクシー女優が映っているポスターが貼ってある。  自分にとっては、このポスターだけでも刺激が強いのだが、これから入る、あのカモフラージュ棚の右手にある黒い暖簾をくぐって、その先に行かないといけない、ひるむわけには…いかない!  足を一歩踏み出す。一歩踏み出すたびに興奮が増してくる。暖簾の前に来た時、思わず減速をかけそうになる。しかし、一旦宙で止まりかけた足を踏みおろす。暖簾が顔にかかる。ただの暖簾だが、今の自分にとっては、数人係で開けるような、重くて巨大な城門を感じさせる。だが、自分は知っている…。この城門を抜けると、そこには甘美な宝の数々が置かれていることを…。    「980円になりまーす。」  心が入っていない、ぼそぼそとした声で店主が言う。 金を払い、中身が見えない濃い色のビニール袋を持って外に出ようとする。珍しく直感で選んだが、何故かアタリの本ではないかという予感がしている。  自分の頭の中は、早く家に帰ってこの本の中身を確認したいという欲望に占められていた。自分でもウキウキした顔をしているのだろうな。  ドアを開ける。  袋の方ばかり見ていたせいか、この時、前方に人がいることに気がつかなかった。危うくぶつかりそうになり、身を後ろにかわす。一瞬、シャンプーの匂いがした後、黒い長い髪が目に入った。  目の前にいた女子がこちらに顔をむける。彼女もぶつかるのを避けるために、後ろに身を引いていた。目を大きく見開いているが、そうしなくとも目が大きいのがわかる。黒くて背中まで続く長い髪をしているが、目が釣り目気味な為に、清楚というよりは凛々しさが勝っている。  鼻が高く、ぽかんと開いた明るい桃色の唇と白い肌のコントラストは思わず見惚れてしまう程の綺麗さだ。  この女子が自分とまったく接点を持たない人だったら、軽く謝罪した後、恥ずかしかったけど、ちょっといい経験したと考えながら、その場を立ち去ることが出来たであろう。だが、自分はその場で固まってしまった。彼女が着ているのは、紺色のセーラー服で腕や襟には白いラインが入っている…。うちの高校の女子の制服である。  そして、さらに最悪なのが、彼女の顔を同じ教室の中で見た事がある。確か、名前は不破野楓。自分とは反対の授業マジメに聞く一割に属する生徒だ。  不破野は驚いた顔で自分を見ていたが、そのうち、自分が胸に抱えているビニール袋を一瞥した後、後ろの店を見る。自分には、その時、不破野の口に笑みが少しだけ浮かんだように見えた。  そのすぐ後、彼女は何事もなかったように、目の前の道を歩き始めた。自分が呆然とした状況から我に返り、彼女に口裏を合わせるように言おうとした時には、彼女は遠くを歩いていた。  再び駅に着き、電車に乗って帰路に着いていた時には、明日の教室内で今の時代にエロ本をわざわざ買いに行く面白おかしい男子生徒となっている自分を想像していた。  クラス内で「やばいやつ」となっていた自分の特権は徹底的に剥がされ、また小学生や中学生の時のように、不当な暴力と戦う日が来るのだろうかと考えると無意識のうちに大きなため息をついた。 四、取引  次の日、教室の扉の前で呆然と立ち尽くしていた。この扉の向こうに待っているのはなんだろうか。ニヤニヤした男子の顔だろうか。    「なんだ、思ったより、馬鹿に出来そうな奴じゃん。」 という声か、女子達の嘲るような笑い声だろうか、  「エロ本って。」  「今の時代にウケるんだけど。」 という声か。  悩んでいてもしょうがないと扉に手をかける。  「どうせまた、力でねじ伏せれば何にも言われないさ。」  そう小さくつぶやいて扉を開ける。そこにあったのは、いつもの風景だった。男子は一瞬こっちを目だけで見て、何も見てないという風に目をすぐ逸らす。女子も同じような感じだ。逆に驚いてしまって、扉近くの女子を見た。その女子は自分が見られていると気がつくや、顔を伏せて怯えているのがわかった。  自分の窓際近くの列としては真ん中の席に着き、ほとんど真反対の席にいる不破野を見る。彼女は真剣な顔で最初の授業の教科書を読んでいた。  そう、彼女は真面目なのだ。人の弱みを見た所で、それを平然と触れ回るような低俗なやつらとは違うのだ。そうだと悟った時、自分の中の不破野の好感度はうなぎのぼりになった。    昼休み。どこか人目につかないところでパンを食べようとしていた所、だらりと持っていたパンの袋を落としてしまった。自分がそれを拾い上げる前に、細い白い手がそれを拾い上げた。 「はいっ。」  目の前には、満面の笑みを浮かべ、パンを差し出す不破野がいた。小学生から怖がられて、まともに女子と喋れていなかった自分は、この些細な親切なひとつに緊張してしまい、口をありがとうの「あ」の形にしたまま、会釈の様なものを彼女の目を見ないままして通り過ぎた。  自分と怖がらず話してくれる。それだけで不破野の事を純粋で純潔な者として見る事が出来た。だが、この理想は短期間で打ち砕かれる事となる。そう、たったの二日間で。    不破野に目撃されてから、二日経ち、完全に安心しきっていた自分は、いつも通り、帰路に着いた。帰り道にある(健全な)古本屋で漫画を立ち読みし、学校が終わってから、三時間は経ったであろう時間に家に着いた。  ドアを開けると、洗い物のカチャカチャする音が聞こえた。自分の部屋に続く階段は玄関の右手にあるが、その時はまっすぐ廊下を渡り、キッチン兼食事をする部屋のドアを開いた。 洗い場に母が立っている。髪は黒より白の方が占有率が高く、女性にしては髪の量が薄くなっているのが遠目から見てもわかる紺色のジャージの上を着て、下は少し履き古したデニムを履いている。  体型は中肉中背で、全体的に年齢よりもくたびれた感じがする。顔も可もなく不可もなくな顔をしているが、いつもどこか疲れている様な雰囲気がある。  それもそのはずである。小さい頃から一人息子が喧嘩に明け暮れ、一転して進学校を受験すると言い出したときは、父と共に喜んだが、その息子は受験に落ちて以降、問題は起こしていないが、見た目もついに不良のそれになったのである。  詰まる所、全部自分のせいである。  それ故、自分は両親に対しては思春期特有の反抗はしたことがない。むしろ、なにかするときは常に助け、言われたことは素直に従うように今では心がけている。    「ただいま」。  母が、こちらを向かずに「おかえり。」と返す。  自分は洗い場の隣に設置してある冷蔵庫から緑茶の入ったペットボトルを取り出す。すると母が盆に2つグラスをのせた。  唖然としている自分に、  「これも持って行きなさい。」 とチーズケーキとフォークを2つ乗せた。母の顔は、歓喜に満ち、その目からは、涙がこぼれていた。  「あなたに…。あんなちゃんとしてそうな娘さんと繋がりが出来るなんて…。」  その言葉を理解するのに、三秒ほど、時間がかかった。  お茶、ケーキ、フォーク、コップがのった盆を持って、二回に駆け上がる。自分の部屋の扉を開くと、自分が小さい頃から使っている学習机の椅子に女子が何かを読みながら座っていた。黒くて背中まである髪、大きい眼、高い鼻、そして白の線が入っている紺色のセーラー服。  そう、不破野楓がそこに座っていたのである。彼女はこちらに気がつくと、パンを拾ってくれた時の顔とは違う、海賊が宝を見つけたような、片目を歪ませ、整った歯を大きく見せて笑った。そして、彼女が読んでいた本は、彼女と遭遇した時に自分が胸に抱えた、あの本だった。    「どうも。東海林累くん…。あ、ケーキ。」  不破野は海賊の様な顔から、瞳を輝かせて口を開いた顔になる。自分は、さっきから開いた口が閉まらなく、目を見開いてる。  「どうしたの?早く食べようよ。」    彼女は何気ない声でそう言い、学習机から降りて、部屋の真ん中にあるテーブルの上に載ってる物を床にのけ始めた。自分は頭が真っ白になったまま何故か、彼女の言うとおりにテーブルにお盆を置いた。  彼女が手を洗う所がないか聞いてきたのでキッチンかトイレと言うと、一階に降りていった、そして戻ってきた時には、母からもらったであろう台拭きを片手に持っていた。テーブルを綺麗に拭くとお盆からお茶とケーキを取り分けた。  「いただきます…。」  彼女はかなり神妙な顔をして手を合わせ、うつむいて眼を閉じ、再び目を開けるとケーキを食べるのに取りかかった。自分も目の前のチーズケーキに手をつけた。  ケーキを平らげて、緑茶を飲んでいると、同じくお茶を飲んでいる不破野の眼がこちらを見ていた。グラスを置くと、彼女は無表情で問いかけてきた。  「落ち着いた?」  不意打ちだったために、こくんと頷くことしか出来なかった。  「そう。じゃあ、本題に入ろうか。」  彼女は女の子座りから正座になった。自分もなんとなく背を伸ばした。  「まず、今日、来たのは君と取引に来たの。東海林君。」  彼女は真剣な顔でそう切り出した。自分は「取引?」と思わず口に出してしまった。  「そ、あなたが何を買ったのかをばらさない代わりに、私の願いを聞いて欲しいの。」  そうきたか…と、心の中で思った。  「あなたの噂はクラスメイトから聞いているわ。喧嘩した相手を徹底的に反抗しなくなるまで潰す不良だと。凶暴で何をするかわからない男だと。だから、最初は私もあなたとは関わらないように避けてきた。でも…、違うよね?」  彼女は薄くイタズラな笑みを浮かべた。  「まず、第一にあなたは結構、人の目を気にするような人だという事と、自分がやばいやつと見られることに注意を注いでいる事。この町本屋は少ないから、エロ本を買おうとすれば、高確率で同じ高校の生徒に見つかる。本屋やそういった本を取り扱う店が多い市の駅周辺でも鎌田北の生徒は多い。  だから、駅から結構歩いた所にある本屋でエロ本を買う。」  自分はこの不破野楓が臆面もなく「エロ本」という言葉を口に出したことに驚いた。女子ってこういうものなのか…?  彼女は続ける。  「でも、本当にやばいやつなら近所の本屋やコンビ二でエロ本ごときを買うのを躊躇するかしら?だれか鎌北の生徒がその場に出くわしても、平然とその場で恥ずかしげもなくエロ本読んで、笑われたらそいつのことをシバけばいいんじゃない?  そう考えて、あなたは実は言われているほど、危ないやつではないんじゃないかと思ったの。」  彼女は悪い笑顔をさらに濃くした。  「それで、ちょっと罠にかけてみた。エロ本を買うのにあんなに恥ずかしがるなら、実はとんでもなくシャイなんじゃないかと。パン拾ってあげたことを覚えている?」    その言葉を聞いた瞬間にあの不破野の満面の笑みを思い出した。  思わず自分の焦がれた青い春への羨望が再び息を吹き返しそうな顔だった。  「ちょっとニコっといい顔したら、どもり始めて笑っちゃった。 女の子とまともに話した事無い程シャイでしょ?君?」  その言葉を聞き、あの笑顔が自分を試すものだとわかった瞬間に、自分の中に怒りが湧き、立ち上がろうとした。  「いいの?大きな声を出すよ。」  冷たい声で彼女が言い放つ。  顔からは笑みが消えていた。  「今まで友人の出来なかった息子の事を心配して家を訪れてきた女の子に手を出したと知れたら、お母さんはどう思うだろうね?」  そう言われると、自分はひるんでしまった。  不当な暴力に逆らってきただけと両親に言ってきたが、女子に自分の部屋で乱暴を働いたと知れたら、ついに悪鬼羅刹まで堕ちたかと思われてしまう。諦めて、ドスンと音を立てて、その場に座った。    「ちょっとイタズラが過ぎた。ごめん。」  先程までとは打って変わって不破野が少し申し訳なさそうに謝った。  「いいよ…。」    何故、急に彼女が反省したかよく分からなかったが、自分はそう返した。  「続けるね。そのパンの件でわかったのは、君がそれ程やばいやつじゃない事。 そして、君は周りからやばいやつと見られたままでいたいこと。  だから見た目を怖くしているんだよね?」    さっきまで不破野に対して抱いていたのは嫌悪感だったが、ここまで言い当てられると素直にすごいという印象に多少変わっていた。不破野は続ける。  「で、なんで危ないやつと思われていたいか。その理由を考えてみたんだけど、本当にやばいやつだったら、さっき言ったみたいに近場でエロ本を買った事を知って馬鹿にされたら暴力で解決すればいい。なのに、君はそれをしないで自分からわざわざ遠くにエロ本を買いに行く。   つまり、根本では争いが好きじゃない。そして君の教室の様を見ていてわかったけど、やばいやつと見られている間は、クラスメイトのめんどくさいのも、先生も君に手を出してこない。つまり、君は自分の平穏を維持したいから、やばいやつと見られ続けたい、という事?」    彼女の顔は自信に満ち溢れていた。この顔を満足させたくないが、はっきり言ってここまで当てられると、何も言い返せない。眼をつぶり、大きなため息をついた後、自分は腹立たしげに言った。  「そうだよ。」   彼女は少し嬉しそうな顔をして言った。  「じゃあ、エロ本をこそこそ買っていたなんて、なるべくならバラされたくないよね。」 自分はうなだれたまま「ああ。」と返す。 出来るなら親を中学生の時の様に心配させたくない…。 だが…。  「じゃあ、これから言うことにハイで返してくれるかな?」  ああ…。なんでこうなってしまうのか…、気をつけていたのに…。    しかし、意外にも彼女の提示した条件は暴力を振るう必要は無い物で、その条件は自分を笑うやつをねじ伏せる事よりも簡単だったので従うことにした。  そして、自分は部屋から出る準備をしている彼女に一つ質問をした。  「なあ、そのエロ本、隠し場所はどうやってわかったんだ?」  彼女は噴き出し、笑いをこらえながら答えた。  「あのさあ…。  今時、学習机の一番下の引き出しの奥にエロ本隠すのはさすがにバレバレだからやめたほうがいいよ。」  そう言って家を後にした不破野にはらわたが煮えくり返りそうだったが我慢した。 それはそれとして、今度はどこに隠そうと自分は悩み始めた。 五、合図したらにらむ  その週の土曜昼前は春の陽気が心地よく、できるなら一日中散歩でもしたいなと考えたが、その望みはすぐに諦め、例のアダルトショップとは反対側の車線の歩道で、不破野楓が来るのを待っていた。  グレーのパーカーに、黒のストレートパンツを履き、紺のシューズという自分の格好を再び見るが、この服装で大丈夫だったのかと何故か心配になっていると、いつもの学校の制服姿の不破野がやってきた。  彼女が言った「ごめん、待った?」という言葉がこれから先、自分がかけれる事は無いだろうと考えていた言葉だった為に、実は内心うれしかった。  しかし、そんな小説やドラマでよく聞く言葉にうろたえてしまって、上手い返答を出せないうちに「行こうか。」と言われてしまった。    彼女が出した取引の条件は「土日に彼女のバイト先に来て、客としている。」という事だった。そう言われた時に自分は拍子抜けした。彼女の気に入らないやつをシメて欲しいとか、そういう方向だと考えていたからだ。そんな事を思い出していた中、目的地に向かう途中で、唐突にくるっとこちらを振り返った不破野に第二の条件を言われた。  「合図をしたら、その時、入店しようとする奴らを睨んで欲しい。」 とのことだった。  もちろん、今さらになって条件を足すなと抗議したが、何も言わずに、遠くなったアダルトショップを見てから大きな眼で自分を見て首を傾げる彼女には従う他なかった。    彼女のバイト先は、アダルトショップの反対側にある大きな坂道を下り、川をまたぐ大きな橋を渡った先にあるハンバーガーファストフード店だった。先に店に入っていった彼女には、十三時までは人が沢山いるから、それ以降に入るといいよと言われていたが、周りにはパチンコ屋やコンビ二ぐらいしかなく、お腹も減っていたので、ファストフード店に入ることにした。  中は確かに混んでいた。というより阿鼻叫喚だった。  何人かの子供の泣き声とそれをあやす母親達の声が奥のボックス席から聞こえてきており、入り口左側の席からは、その声に負けないように大学生ぐらいの男女が周りを省みない大きな声で騒いでいる。  厨房の壁を挟んで左の2人用の席は、寡黙そうな人も何人かいたが、カップルが、公共の場の公序良俗を乱しているのではないかと思えるぐらいにいちゃついていたし、老齢の男性2人が、そのカップルを恨めしげに見ながら、世を憂う言葉を吐きあっていた。  目の前のカウンター前には、持ち帰りを持つ人と注文を待つ人でごった返しており、その中からポテトが揚がった合図であるアラームと注文の声が聞こえてきた。  長い列をぼーっとしながら待ち、やっとカウンターの前に来た時、聞き覚えのある声が前から聞こえてきた。  「いらっしゃいませ!ご注文は何にいたしますか!」  そこにいたのは、紺色の帽子をかぶり、赤色のシャツを着て、腰から黒いエプロンをしたパンツルックの不破野楓だった。その声は完璧にお客様用に作られた声であり、一瞬戸惑ったが、スマイルの目が少し開き、「早く決めろ」と口パクで催促してきたので、慌てて注文を決めた。    注文を受け取ると、カウンターのすぐ横にある二人用の席に腰掛けた。  入り口に近い方の席に腰掛けたので、店の奥側の席にいるいちゃついたカップルと老齢の男性二人は見えないが、うるさい大学生達はどうしても視界に入るし、カップルのいちゃつきと、老人達の不快な愚痴は耳に入ってくる。奥の子供達の叫びの方がまだましなのかもしれないと思うが、入り口とカウンターの不破野をギリギリ見る事ができるのは、この席しか空いていないため、しょうがなく、注文した照り焼きバーガーとポテト、コーラに手を着ける。  セットで注文したメニューはすぐに平らげてしまって、氷しか入っていないソフトドリンクのストローで溶けた氷を吸い上げるしかなくなっていた。しょうがなく暇つぶしのために持ってきた文庫本をパーカーのポケットから取り出す。読み始めてから十分ぐらいして、ふと顔を上げると他の席は満席になっていた。    しばらくして、読み始めた小説がある程度の区切りを迎えた時、ふうと息をつくと、今度はさっきまでの喧騒が嘘のように、店内には自分とグレーのハットを被り七部袖のシャツを着た若い男性しかいないことに気がついた。かなり本に没頭してしまっていたらしい。後ろを見ると、不破野がホールの清掃をしていた。目だけをこちらに向けてきたが、すぐに目線を外して清掃に戻った。  持ってきた小説は佳境に入っていた。男が冷凍睡眠によって、自分の周りの関係者の末路を知り、自分を騙した友人と悪女に一泡吹かせるための計画を完遂させ、ハッピーエンドに至ろうとした所で、カウンターから不破野の咳払いが二回聞こえた。それは店に入る前に不破野が決めた合図であり、取引通りに自分が「にらむ」相手が現れたということを示していた。  店の入り口の向こうを見ると、自分と同じ高校生ぐらいの男子四人が、ここから見ても騒がしさがわかるぐらいに大笑いしながらこちらに歩いてくるのが見えた。 夏服の下のグレーの格子柄のズボンで上は普通のワイシャツだが胸に金色の刺繍が入っているのが見えた。    「メイセイか…。」 メイセイは名入成蹊高校の略称である。市街地にある私立高校であり、入る事自体は、それ程苦労する所ではない。上位の私立高校に落ちた生徒が鎌北みたいな治安の悪い高校に入るのを親が嫌がったり、市街地に住む裕福な家庭の子がそこに入るというケースが多い。  一番手前にいた髪を薄く茶色に染めた髪の優男がドアノブに手をかけた時、自分はその男めがけてガンを飛ばした。  彼はそれに気付き、扉を勢いよく開けようとした時、ある小太りの低身長の男が自分に気付き、彼を制止した。他の男子達も気がついたようで、なにやら話し合いを始めた。そして少し経過した後、男子達は来た道を戻っていった。  遠くにいた時には気がつかなかったが、近くに来た際に全員を制止した男には見覚えがあった。過去に、ボクシングをやっていた年上にタイマンを挑まれた際に周辺に潜んでいた手下の一人だったのである。  先頭にいた男だけはこちらをにらみながら振りかえり、向こうに歩いていった。不破野に確認を取るため、カウンターの方を見たが、奥のほうに入ってしまった為か、顔を見る事が出来なかった。ただ、誰かが大きく息を吐くのだけは聞こえた。    本は一度読み終わり、他に暇つぶしの道具も持っていないので、本を最初から読み直していると、「お疲れ様です。」という不破野の声が聞こえた。その声を聞いてすぐに出るのは、あらぬ勘違いされそうだったので、Sサイズのドリンクを再度注文し、それを飲み干してから外に出た。    「出てくるの遅かったね。」  戻りの坂道で待っていた不思議そうな顔をした不破野にそう言われると、なんかいらない配慮をしてしまったようで、ちょっとイラっときた。不破野の隣を通り過ぎようとすると彼女も一緒に隣を歩き出した。女子と一緒に歩いたことなんて小学生の遠足の時以来だったので、思わず驚いた顔を晒してしまったが、一瞬で何事もなかったように取り繕った。  坂道を登りきり、アダルトショップ前を通り過ぎ、駅への道をしばらく歩いている間、何も喋らずに歩いていた。顔では平静を保つようにしていたが、頭の中はパニックに陥っていた。  「なにか喋るべきなの!?それとも黙ってるべき!?」  そんな考えが頭の中にグルグルと回る。女子とまともに喋ることができていなかった男子にその時の状況は過激すぎた。  ソフトなオレンジ色に照らされた街の中を2人の高校生男女が歩いていく…。  自分は今、一生経験することが出来ないかもと諦めていた物語の様な状況に置かれている。それだけで心拍数が上がり、手汗がにじみ出てきた。 ちょっと前の自分が今の自分の状況を予期なんて出来なかっただろう。そう考えた所で、不破野に聞くべきことを一つ思い出した。「言うのか!?俺!?ええい、ままよ!」という一通りの決心をしてから、正面を向いたまま不破野に問いかけた。最初の方はうわずってしまったが…。 「あ、あの中に一人、知っている男がいた。」 不破野はこちらの方を見て、何気なく言った。 「ああ、やっぱりそうなんだ。」 そこで一旦会話が途切れ、不破野は再び前を見た。 なんであの男子達をにらむのか理由を聞こうとしたが、それを察知したかのように不破野が先制して質問をしてきた。 「東海林くん、もしかして結構、読書家だったりする?」 顔に似合わずという言葉が続きそうな気がする様な調子で聞かれたので、ちょっとむっとして返した。 「まったく読まないわけじゃないけど、今日は暇つぶしをするために持ってきた。携帯とか持ってないからな。」 やけに納得した感じで不破野が返した。 「ああ、だからこの時代にエロ本を買うのね。」 またむっとしてしまったが、その通りだった。自分はスマートフォンなどの携帯を持っていない。 問題を起こし続けたわが子に親が提案しなかったことも理由だが、自分も別に欲しがらなかった。自分でも親に迷惑かけていたことは自覚していたし、連絡をする友人もいなかったからだ…。  PCはデスクトップ型で1階の両親の寝室の隣の部屋にあった為に、使うことは憚られた。それならば、エロ本を自分で買い、自室で見た方が遙かに安全であった。 「お前は持っているんだろう?」 ちょっと怒りをこめて言ったが、不破野は気にせず、学生鞄の中を空けて、中から緑色の無地のカバーがしてあるスマートフォンを取り出し、目の前に突き出した。 「ん。まあ、これ、借りているんだけどね。」 借りている? レンタルとかでもあるのかと考えたが、別にそこまで深く聞こうとは思わず、そんな些細な会話をしていたらいつの間にか駅に着いていた。 「じゃあ、明日もよろしく。」 そう言うと、不破野は歩いてきた道から見て左側の道に歩いていった。自分は駅の方に歩いたが、数歩歩いてから彼女の方を見ると、スマホを耳に当てて誰かと会話しているのが見えた。 友達か?そう考えたが、どんな顔をしているのかが見えなく、それほどまでに関心もわかなかったので駅の方に向き直って再び歩き出した。 その次の日も、その次の週以降にも、彼女のバイト先で例の男達と何回か出くわしたが、自分がいると知ると、何人かの男は舌打ちをして、見覚えのある男はおどおどした様子で、店に入る前に引き返していった。 何回かは見覚えのある男の制止を振り切って、男達が中に入ろうとした事もあったが、その男の必死の説得で引き返した。そして、そのうち彼らが来ることは少なくなっていった。 不破野の顔は、その時になるとキッチンの奥に入ってしまっている為、見る事は出来なかったが、安堵のため息を何回か聞こえてきた。 どうして彼らを睨むのか気になった為に、何回か彼女に理由を聞いてみたが、はぐらかされるか、聞こえないフリをされた。 不破野が何故、あのような取引を持ちかけたかを考えるには、あの見覚えのある小太りの男しか材料がなかった。他の男達に関しては全く見識が無い。市街地の方の奴らだろうか? そして、一番印象に残っていたのは、髪を薄く茶色に染めた一見すると優男然とした男であった。 他の男達は小太りの見覚えのある男、屈強な背の高い坊主刈りの男、髪を脱色した男というメンツであり、元から知っていた小太りの男以外は決して誰かに従う様には見えなかったが、優男は彼らに高圧的に話しかけたり、常に先頭を歩いて彼らを引き連れている様だった。    「あいつが頭ぽいな。」  複数日の観察でそう考察し、結論に至った。  そして、一方で何日にもわたるハンバーガー注文でもう一つの結論に至っていた。  「もう、ハンバーガーはしばらく食わなくていいな。」 六、尾行する少年  この時期に学ランを着ているのは、さすがにアホとしか言いようがないという酷暑が続く季節が始まった頃には、不破野と会話する事にも慣れていた。  まあ、それも、ある時に彼女から嘲るような感じで、  「ちょっと意識しすぎな感じすぎて、キモいよ。」 という情け容赦ない言葉をもらったことも関係している。  その時は、ショックすぎて何も言えなくなり、家に帰って酷く落ち込んだが、この女に対して自分は変な感情を持つようなことは絶対ないだろうと考えてからは、逆に幾分か話しやすくなった。    会話をしていく中で、不破野楓の事をある程度知れた、バイトは殆ど毎日入れていることや、以前家に来た時は偶然シフトが空いていた日だったという事。  何故、わざわざ電車通勤して遠くまで行ってバイトしているかという事には、  「ここらへんだとまともなバイトできるところないじゃん。あっても、学校の生徒が来て、何言われるかわかったもんじゃないし、駅前も出くわす確率高い。  なら、駅から少し歩いたところのほうが良いかなーと思ったからだよ。」    という丁寧な説明をしてもらった。  バイト先への電車賃は、学割の定期を使っているらしい。「それって、通学に使うものじゃないのか?許可もらえるのか?」と言ったら、ただにこっと笑顔だけを返された。  成程…、どうせ教師に何らかの方便を使って作ったんだろうなとその時は勝手に納得した。    ある日、なにげなく教室に入ると、今や夏用のシャツの白色で一杯になった教室内から、ざわっとした空気を感じた。  近くにいた女子を見ると、その女子は怖がりながらも、こちらの方をちらちらと見てくる。  席に座ると何人かの男が、少し恨めしげにこちらの方を見ていたので、ガンをつけ返すと、すぐに目を逸らした。不破野を見ると、周りの女子数人が興味津々な様子で前のめりになって不破野から何かを聞き出そうとしていた。  昼休みに、人のいない屋上階段で飯を食べていると、不破野がひょっこり現れた。  「なんか、休日に駅前で君と一緒にいる所、見られたみたいだよ。」    隣で不破野が手作りのサンドイッチをほおばりながら言ってきた。  へーっとパンを口に運ぼうとした際に、不破野が何気なしに言葉を付け足す。  「まあ、君と私、それで付き合ってると思われてるみたい。」  そこで、自分はパンを持つ手を止めて「はあー?」嫌悪を露わに返した。  その様子に不破野は少し怒っている様に見えたが、むしろ怒りたいのはこっちの方だ。    やめて欲しい。  自分はもうちょっと可憐でしとやかで清楚な奥ゆかしい女子と付き合いたい。人の休日をファストフード店で潰させ、その上でキモいという言葉を平然と言う女子ではなく。  「私も本当なら、あんたと付き合ってると思われたくないよ。ひっそりと寂れたエロ本屋に通うムッツリとはね。」  不破野がサンドイッチに勢いよく噛みつきながら言う。 この嫌な女と一緒にいたら、可憐な未来の俺の彼女はどこかにいなくなってしまうのではないかと考えた。もういいじゃないか、あの男達も最近は来るのが稀だし取引を断る、いい機会かも。 そう考えた瞬間、不破野が咀嚼を終えて切り出した。 「まあ…、このことは予想内の範囲だしいいか。 今日、一緒に帰ったりでもしてみる?」 自分はその言葉を聞いて、ぴたっと止まってしまう。女子と一緒に下校なんて人生初めてのイベントでいつ機会があるかわからない。 こいつは嫌な女だが、見てくれはいい、だが、うーん。 放課後、帰宅途中の道を不破野と一緒に歩いていた。予行練習。そう、これは未来の彼女のための予行練習。そう自分に言い聞かせながら自分は歩いていた。 不破野が急に帰ることを提案してきたのは謎だが、高校生で女子と帰るなんて経験は自分のこれまで人生を考えると出来た事自体、奇跡だと考えてもいい。 この女と帰ることで女子と話すことに耐性をつけて、清楚で可憐な彼女を手に入れられるようにステップアップしよう。 そんなことを考えていると、考えが読まれたのかと思えるほどの答えを、不破野が出してきた。 「こうする事で、変なやつが近寄ってこないからね。ありがとね、蚊取り線香君。」 蚊取り線香とはずいぶんな言い草だなと思いながら「変なやつ?」と聞き返した。不破野は少し不機嫌そうに答えた。 「言い寄ってくるやつのことだよ。なんか自分がモテるとでも思ってるのか、上から目線で告白してきたり、最初から距離を詰めすぎなやつがいたりするんだよ。 まあ、私自身がモテること自体は悪くは感じないんだけどね。」 不破野のどや顔と言葉にしらけた眼を向けながら、今朝、自分に恨めしい目線を向けてきた男子を思い出した。なるほど、合点がいった。 その話を聞いた時に、あのバイト先に来る男子達のことを思い出した。 ああ、そういう事だったのか。 あいつらの中に不破野に言い寄るやつがいたから、自分がその虫除けとして呼ばれたのか。 それにしても、あの安堵のため息は少し大げさすぎやしないか。 そんな思考をめぐらしていると、不破野が語りかけてきた。 「ああ、この前借りたやつ返すよ。」 そう言うと、学生鞄から一冊の単行本小説を取り出した。 バイト帰りのある時から、不破野は自分が暇つぶしに読んでいた小説に興味を持ちだした。 そして、丁度、読み終わったものを貸して以来、何冊か小説を貸していたのである。 「お、どうだった。今回のは?」 今回貸していたのは、かっこいい新選組隊士達が登場する歴史物小説だった。自分が今まで読んできた本の中で、結構お気に入りの一冊である。 「なんか男しか出てこないから、全然感情移入できなかった。これなら前借りた昔の、髭のおっさんが出てくる列車の中の推理小説のほうが楽しかった。」 お気に入りをそんな風に言われたので、ちょっとむっとした。 後編は貸さなくていいだろう。 その後、他のおすすめの話を聞かれたので、おすすめ作品のあらすじをいくつか述べながら歩いていく。自分の家の前に着くと、自分は家の中から一冊の小説を不破野に渡した。 今度は髭のおっさんがシリーズで初めて登場する推理小説を渡しておいた。 「今日はバイト珍しく休みだから家に早く帰る。」 そう言ってから去って行った不破野の姿が遠くに消えるのを確認すると、目を横に向けて、後ろの様子を確認した。 実は不破野と歩いている際に人の気配を左後ろの道の曲がり角から感じていたのである。 家の方に向き直り、玄関まで歩く、わざとらしく音を立ててドアを開け、中に入るが、すぐに家の中を回り、道路から見えない窓から外に出て、道路側にある庭に向かう。 家の前を誰かが歩いているのを聞く。 家のレンガ造りの塀から頭だけを出すと、そこには胸に校章が入った半そでの白いYシャツと学校指定らしい黒いズボンを着た少年が玄関を見ていた。髪は茶色がかっているが、見た所、普通の中学生である。 塀を乗り越えると、少年はこちらの方を振り向く。逃げられないように少年の手を掴む。少年の正面に立ち訊ねる。 「何か用か?」 少年の顔は恐怖の色に満ちていた。 「い、いえ何でもないです。」 自分は過去に不良達が気の弱そうな男子を偵察に使ってきたことを思い出していた。 その際は、見逃してしまい、その後に手痛い目に合ってしまったが、その後、同じ轍は2度と踏んでいない。 自分は顔を少年から数センチまで近づけ、襟をつかんで額に皺を作って凄んだ。 「なんでもないなら、人ん家覗き見たりしねえだろ!  ああ!?舐めてんのか!?テメエ!?」 少年の顔がさらに恐怖に包まれ、今すぐにでも泣き出しそうだ。 これまでの経験でいうと、こういう気が弱そうな奴は、威嚇するとポロリと誰の差し金か口を割る。少年は涙をにじませながら言った。 「姉ちゃんが、珍しく男の人と一緒に…歩いてたから…心配になっで…。」 …ん? 古い型のエアコンの音だけが聞こえる二階の自分の部屋の中で、どうしよう…という顔をして、先程の少年は木製のテーブルの向こうで正座をしながら下を向いている。 自分は顔には出していないが、どうしよう、やりすぎたという気持ちで一杯になっていた。自分が立ち上がると、少年はびくつく。心の中が大変申し訳ない気持ちでいっぱいになった。 キッチンで適当にお茶や茶菓子をお盆にのせる。母は買い物出ており、今、家にいるのは、自分と不破野の弟と名乗る少年しかいない。深いため息をつく。不破野に弟を脅したと知れたら何を言われるか…? 二階に戻ると、お茶を汲み、少年の前に置く。そして茶菓子をすすめる。少年はぽかんとした顔をしていた。しばらくの沈黙の後、自分が口を開く。 「いや、まあ…。急に怒鳴ったりして、ごめん。」 弟は顔を急に上げて、 「あ、いえ…。自分も勝手に人様の家を覗いたり、後をつけたりして、すみません…。」 と申し訳なさそうに返す。 まだビビッているだけかもしれないが、姉とは雰囲気が全然違うと感じた。確かに鼻が高く、肌が白くて、目が大きい。姉と顔が似ていると思える。茶色の短髪というちょっと不良に見えても可笑しくない髪をしているのに、全体的に繊細さや脆さを感じさせる。これが弟ではなく妹だったら、凄い可愛らしい美少女だったかもしれないと思える美少年だった。 お茶を少しすすった後に彼に質問をした。 「で、弟さんなの?不破野の?」 彼も不破野であろうが、そう聞いた。 「はい、不破野渉って言います…。」 何故か、申し訳なさそうに少年は言った。 「なんで後つけてたの?姉に気を使ってたとか?」 なるべく驚かさないように易しく言ったつもりだが、慣れていないものだったので、渉は顔に恐怖を浮かべながら答えた。 「姉さんが、最近、中学校の頃に同じクラスにいた男と会ったと言っていたので、もしかして、えっと…。」 こちらを上目づかいで伺ってきたので答える。 「ああ東海林でいいよ。」 「東海林さんがその人なんじゃないかと思って、心配になって後をつけたんです。」 「俺と不破野は中学校自体同じじゃないよ。」 そう言うと、渉は少し安心した様だった。その時、ふと疑問に思ったことがあった。不破野はどこの中学出身なのかという事だ。別に本人に聞けばいいだけだが、別に今、弟に聞いても問題ないだろう。 「不破野、あ、いや、君のお姉さんって、どこの中学校出たの?」 少し渉の顔に動揺が見られた。その動揺を不審に思った自分は、…少し、ひっかけてみるか…と考えた。 「じゃあいいや。じゃあ小学校は?君と同じ?」 「あ…、そうです。」 そう言った渉の顔はハッとした。自分は何気ない顔を作って言った。 「そうかー、そうなんだねー。」 渉は下を向いた。また、申し訳ない事をしてしまったと思いつつ、不破野との取引解消のネタの一端をつかめたと内心喜んだ。彼の着ている校章の入ったYシャツは、かつて自分が通っていた公立中学のものだった。自分の家の所在地は、彼の通う中学の学区に入っている。 そして彼と不破野の小学校が同じなら学区的に、あの中学校に不破野が来てもおかしくない。 しかし、覚えている限りだと不破野が自分がいた中学にいた記憶はない。認めたくはないが、あそこまで器量が良いと、学校では嫌でも評判となる。 そうなると、考えられるパターンは不破野だけが別な中学に行ったという事である。それは私立なのか他の地域なのかはわからないが、一つだけ推察出来る事がある。それは、弟である渉が彼女の元中学の男子と歩いていたら心配になる程に、不破野は過去に彼女がいた中学で男と何かトラブルがあった事だ。 関連するのは、あの不破野のバイト先に来た男達の中の誰かだろうか。 そう考えると、彼女が自分と取引した事に説明がつく。過去から訪れたトラブルを追い払う為に自分という虫除けを置いたのだろう。 それこそ、他にも色々選択肢がある中で家が近いという理由があっても、あまり通いたいと思う人がいない鎌田北なんて辺鄙な高校に進学する程の事だ。知れれば、彼女との取引を解消する材料にもなり得る。  後は渉から多少強引にでも詳細を聞き出せば、その姉の弱みを握れるだろう。 そんな事を考えていると、衣服に水滴が落ちる音と鼻のすすりが聞こえてきた。水滴の音は、うつむいた渉の目からこぼれた涙が彼のズボンに落ちる音だった。唖然として渉を見ていると彼は肩を震わせながら掠れた声で言った。 「すみません…。今ので色々分かってしまったかもしれません…。  でも!姉の中学は言えないんです。お願いします。お願いします…。  姉の中学を聞かないでください。答えられないんです。お願いします…。」 顔を上げた彼の目には強い意志が感じられ、唖然としてしまった自分はそれ以上彼から何も聞くことは出来なかった。 渉を見送る時、その背中は、ただでさえ縮こまっていた家に入った時に比べて、さらに小さくなっていたように感じた。あれ以上彼を追及することは流石に自分でも申し訳なくて出来なかった。 ただ一つわかったことがあるとすれば、不破野が「借りている」と言っていた、あの緑の携帯は、家に連絡するために渉が持っていたものだという事だった。彼と表に出た時に、家に帰りが遅くなるという趣旨の電話している時に使用しているカバーが同じものであった為に気がついた。 渉の姿は既に見えなくなっていたが、自分は道に立ち尽くしていた。額に汗がにじみ、背中を汗が伝っていく。もうそろそろ夜になる時間だが、日はまだ完全に落ちていない、体が火照る程の夏の暑さを感じる。 だが、その一方で頭は冷えていた。渉が姉の出身中学を隠そうとする理由、不破野のバイト先に来る男達と彼女の安堵のため息。そして不破野が自分を身の周りに置こうとする理由。それまでは、小さないざこざに巻き込まれたと思っていたが、もしかしたらもうちょっと複雑な事なのかもしれない。そういう考えが、ずっと、頭の中に渦巻いていた。 七、田園に沈む太陽 中間試験は散々たる結果で終わった。というより、その時は人のいない所でサボっていたので、正しくは受けてもいないのが正解だ。 だが、それで補習を受けさせられたりはしない。それすらも教師達からすると面倒なのだろう。救いようのないやつに無理やり補習を受けさせたりする事は労力の無駄なのだ。自分も今や、勉強から逃げてからだいぶ経つ。中学校まではあんなに好きだったが、受験以来まったく手をつけていない。 試験が終わった開放感を戻った教室のクラスメイト達から感じた。とはいっても教室内で事前に試験勉強をまじめにやっていた奴なんて1人入ればマシな方だ。 学内のやばいやつの中で学校に来ているのは、もはや自分だけになっていた。席に戻っても、周りと喋ることはない。ただ夏休み前の最後のHRを机に突っ伏しながら聞くだけだった。不破野のほうを見ると、周りの女子と何か楽しそうに喋っている。過去に聞いた感じだと、成績はいい方であるらしい。彼女には何か大きな問題を抱えているのだろうが、自分にとっては、学校生活を順調にこなしているだけでも羨ましさを感じるものだった。 校門に向かう途中で後ろから不破野に声をかけられた。 「やあ。」 「おお。」 と簡単な挨拶を返す。 不破野とはこの挨拶で済むほど打ち解けてきた。だが、不破野は表面的なことしか話さなかった。弟がいる事は知っているが、それ以外の彼女の家族構成は知らないし、彼女がどこから学校に通っているのかもわからない。何が趣味なのかも知らない。 知っているのはどこがバイト先なのかという事や、小さな丸っこい髭の名探偵が出てくる小説が気に入っている事ぐらいだ。 店に来る男達の事は憶測でしか語れない。以前と同様に過去について質問し続けたが、もう答えは返ってこないと悟り、その様な質問をする事は無くなっていた。 自分が知らないだけで、そのような質問はクラスメイトにしないのが普通なのか、それとも気持ち悪がられているのか。 「ねえ、聞いてる?」 ぼーっとそんなことを考えながら歩いていたせいで、不破野の声に少し驚いてしまった。怒っているようでなかった。むしろ本気で気になって聞いたようだった。 「あ、すまん。」 そう言うと、不破野は申し訳なさそうな顔をして、足を止めて、こちらの目を見た。 「無茶な相談なのは自分でもわかるんだけど…夏休み、シフトが入っている日全部に来てくれないかな…?」。 不破野の大きな二つの目が自分の目を見てくる。それまで命令口調で来いとか言われていたのに、急にここにきて畏まれた感じで来られたので驚いてしまった。 「断っていいのか?」 不破野は、「んー…。」と悩んでから言葉を返す。 「いや、まあ、ダメだけど。」 そうですよね…。  自分は少し溜息を吐いて彼女に返す。 「ああ…、エロ本のことばらされたくないからな。しょうがない。」 前を向きながらそういうと、不破野は少し微笑んで、 「…そうだね!賢明な判断だ!」 と言って、いつもの調子に戻った。 彼女のバイトに付き合うには、金と時間がかかる。彼女は夏休みに入ったら、結構な頻度でシフトを入れるだろう。電車も毎日使わなければならないし、店で何も注文しないで長時間居座ることは、さすがに自分でも居心地が悪い。 それでも彼女のバイト先に行くのを承知したのは、エロ本の件もあったが、不破野楓というクラスメイトの過去に興味を持ち始めたからだ。まあ、一年の時に自分にはあまりにも長すぎて退屈な夏休みを経験していた為、時間を潰すいい機会を得たと思ったのも嘘じゃない。 予想していた通り、夏休みに入ってからの不破野のバイトのシフトは高校生に規定された労働日数ギリギリまで入っていた。そして、あの男達の姿は最早、見る事はなくなっていた。流石にこの暑さの中で来るならば、最早不破野の熱心なファンと言っても差し支えは無いだろう。 午前中に駅前で制服の不破野と待ち合わせし、電車で街へ向かい、そこから蒸し暑い中を歩いてバイト先に向かう。バイト先に着いたら、自分はドリンクを注文する。流石にハンバーガーとポテトはバイト先に通うようになってから速攻で飽きた。 値段も連日通うとなると結構する。その後は家から持ってきた本を読み始める。混む時間になると、阿鼻叫喚になるのは変わりないが、それを過ぎた後の静寂は、今では結構気に入っている。 店員は自分と不破野がそういう関係だと思っているのか、最早、気にするそぶりは見せなくなった。たまに男のスタッフにはちらりと眉を吊り上げた目で見られ、女のスタッフには首を傾げられる事はあるのだが。まあ、首を傾げる程に見た目が不釣合いなのは自分でもわかってる。 夕方に店を出て、そのまま来た道を戻る。偶に、「人と会う約束がある」と言われ、市街地の駅で不破野と別れる事もあったが、大抵はそのまま一緒に電車に乗ってその後地元の駅で別れるのが大半だった。帰る時、不破野はいつも疲れきっていた。聞いた所、早朝にも短期のバイトを入れ始めたらしい。 彼女が過去を明かさないことに加えて、まるで取りつかれたかのようにバイトに勤しむ事にも疑問を感じていた。だが質問をしてもかわされる事は見えていたし、電車の中の行き来で舟を漕いでいる彼女を邪魔してまで聞こうとする気は起きなかった。 夏休みの半分が過ぎようとしていた時、夕陽差す帰りの電車内で早めに目が覚めて、いつもよりも少し元気になった不破野に質問をした。 「不破野が通ってた中学ってどこ?」 それまで現場に赴かないで事件を解決する大学教授の小説の話を楽しく話していた不破野の顔が真顔になった。 「はあ…。そんなつまらないこと聞いてどうするの?」 不破野は口元だけが笑った顔を向けそう言った。彼女が触れて欲しくない事は、相変わらず大体こんな感じで返す。そこから深く踏み込ませないようにする威圧感があったし、踏み込んだ所でうやむやにされることが常であった。  なので、久しぶりに質問をした今回は手段と目的を変える事にした。  「じゃあさ、前の中学校はどんな学校生活だった?」  少しでも彼女の過去が分かればいいやと思ってした質問だった。  彼女は口を半開きにして少し驚いている様だった。そして、少し思案した後、小さい息を吐き、小さく「まあ、いいや。」と言ってから正面の電車の窓の方を向いて喋り始めた。 「私、こっちの中学校出身じゃないよ。県外の更に離れたとこ出身。」 この答えに自分は内心驚いた。それまで一切過去の情報を出してこなかった不破野が自ら情報を開示した為である。そして、てっきり他の地域や私立中学出身かと考えていた為に、更にそこから離れた所出身なのは内心驚いた。 不破野はそんな状態の自分に気にせず話を続ける。 「前に住んでた所は、ここら辺よりも、もっとビルが一杯ある所だったし、私のバイト先のチェーン店がどの駅で降りてもあるような場所だった。田んぼなんて、電車でしばらく揺られてやっと見えてくるぐらいだったからね。」 不破野の夕焼けに照らされた顔を見る。その目はどこか輝いているように感じられた。 「電車に乗ると、ビルの間から今日みたいな夕陽が顔を見せるの、それが好きだったな…。なんかさ、ビルの陰と夕陽のコントラストが綺麗なんだよね…。」 彼女の口角が上がる。 「友達とかとそれを見ながら話をするんだ。とりとめもない話…。」 そう言った彼女の表情は変わらなかったが、目から輝きが消えていくのを見逃すことはできなかった。 「じゃあ、次は東海林君の話ね。なんか昔のこと教えてよ。」 元気そうに彼女は返してきた。それが自分には空元気のように感じた。それ故か、自分もある程度は腹を割らなければいけないと思った。 「そうだな…。俺、高校の第一希望、鎌田一高だったよ。」 不破野は驚いた顔をこちらに向けた。 「県でも一位二位を争う学校じゃん!?なんで?」 そう言われると恥ずかしさがこみ上げてきた。 「中学校までは勉強好きだったんだよ。でもダメだった。自分では出来たと思ってたんだけど、素行不良だったから落とされたか、あるいは元々ダメだったのか…。」 自嘲気味にそういうと、不破野が不思議そうに返してきた。 「勉強嫌いになったの?」 そう言われた時、すぐに嫌いになったとは言えなかった。 「うーん、どうだろうな…。」 自分は困った顔でそう答えるしかなかった。 そんなやりとりがあったせいか、その日の夜は寝つきが悪かった。不破野の言葉が頭の中で反芻していた。自分の中ではもういいと諦めていたが、嫌いになったのかと言われるとそうでもない。だが、かつて程の熱意はない。やっても何かに繋がるとは思えない。 「それ抜きにやってはいいのでは?」 「好きだったんだろう?」 「やっても意味があるのか?」 「無意味だろう。」 天上の電球を眺めながら、頭の中で同じ考えがグルグル回っていた。新聞配達の原チャリが聞こえる音がしたぐらいにようやく意識が混濁していき、すぅっと消えていくのを感じた。 その日、不破野のバイト先で読みたかった本の底が尽きた。 殆ど毎日に近い状態で本を読んでいればそうもなるだろう。だが、今回はその代わりになるものを持ってきた。カバンの中から数学の教科書とノートを取り出し、初めから読み始める。先日の不破野との会話が喉に詰まった感じがして思い立って持ってきたのだ。 かつては死ぬ気で勉強をしていたんだという自負で教科書の問題に取り掛かっていったが、数時間後出た結果は散々だった。 中学校で学んだことが頭から抜け落ち、あの手法を使えば解けると思ったら、その手法の肝心なところを思い出せず、結果答えが分からずミスをしまくった。不破野のバイトが終わった時に自分は十ページ程しか教科書を進めることができなかった。 「珍しく勉強してたね。」 帰り道で不破野が疲れ切った覇気のない声で聞いてきた。それに頭に熱を感じるほど憔悴しきった自分は答えた。 「ああ、なんとなくね…。アレを解けるクラスメイト達を少し尊敬してきたよ。」 「どうだろうね、皆、夏休みと修学旅行のことで頭いっぱいで、授業のことなんて聞いてないし、解ける人なんていないんじゃない?」 「修学旅行…?ああ、そんなのあったね。不破野は行くの?」 少し間をおいて、不破野が答えた。 「行かないよ…。お金かかる。」 頭を使いすぎたので、それに返す言葉をすぐ見つけられなかった。 「東海林君は?」 言葉を見つけられなかった自分に不破野が聞いてきた。 「元々行くつもりはなかったけど、不破野が行かないなら、猶更行かないかな。」 その言葉に不破野は少し驚いたが、少し間を空けて静かに返した。 「…そう。」 そこで会話は途切れ、2人は黙々と帰り道を歩いた。 帰りの電車に乗り込むと、2人ともため息をついて、座席にドスンと座った。 昨日の睡眠不足と今日の脳のフル回転のせいか、まぶたが重くなっていくのを感じる。隣を見ると、不破野も自分の意識が遠ざかるのをなんとか抑えようとしている。自分も頑張ろうと考えながらも、本能が寝てしまえと囁いてくる。 ええい!お前になんて負けてたまるか!決闘だ!槍を持て!自分と本能が甲冑を着込み、馬に乗り、すれ違いながら槍をぶつけあう。この競技ってなんて言うんだっけ?そんなことを考えながら気がついたらいつの間にか自分は眠りに落ちていた。 「…じ君!東海林くん!」 目を覚ます。目を横に向けると、肩をさすっていた不破野がいた。 「…すまん。寝てた。」 「ああ、それは私も同じだったんだけど…」 不破野が向かいの席のほうを見る。一面田んぼが広がっている見慣れない光景が窓に広がっていた。 「どこ、ここ…?」 思わずそう呟いてしまった。塗料が落ちて汚れており、周りはどこを見渡しても田園が広がっていた。かろうじて駅の近くにある蕎麦屋らしき店が見当たった。 線路がなければ、ただの放置された小屋とあまり相違ない。自分が住んでいる所の駅も駅と呼べるものかと思っていたが、それよりも上があるとは思わなかった。それとも下と言った方が良いだろうか? 駅に降りると、不破野はカバンからスマートフォンを取り出し、何かを調べ始める。日が完全に沈んでいないということは、それほど長く眠ってはいなかったようだ。 「よかった。今日借りといて…。」 不破野が不幸中の幸いとでもいうように、微かに笑みを浮かべながら呟く。ただ、その後、その笑みはすうっと消えてしまった。 「不破野君、この駅ってあんまり遠くないみたい。けど…。」 「けど…?」 「戻るための上りの電車がさっき出たみたいで、次の電車まで一時間以上ある。」 自分は思わず「…まじか。」と心の中で呟く。 不破野はその後、家に電話をかけたが、自分はその電話の主の声に聞き覚えがあった。 「うん。おじいちゃんには遅れるって言っておいて、おばあちゃんにも。うん、あんたもちゃんと食べなよ。そんな遅くならないから。心配しないで。はい、うん、じゃ。」 そう言って電話を切った不破野に問いかける。 「誰?」 不破野はこちらを見ずに「弟」と言う。  これで間違って弟のことを口走っても安心できる形になった。  続けて不破野は電話をかける。  しかし、電話の相手には通じなかった様だ。 少し考え込んでいる不破野に「で、ここで待つか?」と聞く。 「うん、一時間ぐらいここで待とうよ。降りたらお金かかるよ。」 不破野が金に対してシビアなのは知っていたので、考えていた案は心の奥にしまい、彼女の案に賛同した。 しかし、ベンチに腰掛けて間もない頃に、隣でぐ~っと腹がなる音が聞こえた。不破野が両手を腹にあてていた。顔を見ると、驚きつつ頬を赤らめて目を丸くしていた。 自分は目を正面に戻す。少し考え、奥にしまった案を口から出す事にした。 「なあ、あそこの蕎麦屋、食べに行かないか?」 不破野の方を見ると、目を見開いてこっちを見ていた。 「えっ?でも…。」 「なんなら、奢るよ。電車代も飯代も。」 不破野は更に目を見開いた後、少し頬に手を当てて考え始めた。 そして、少しした後に静かに首を縦に振った。 駅から降りる時に2人分の清算をした所、電車賃はそれほどかからなかった。電車代の方は自分が奢る事にしたが、ご飯は不破野自身が出すということで了承してくれた。 不破野は家に再度電話をかけて、ご飯は食べてくるからと伝えた後、殆ど歩かない距離にある蕎麦屋に2人で向かった。 一見するとただの瓦屋根の民家にしか見えないが、そこが蕎麦屋だとわかったのは、小さな玄関につけられた「そば・うどん 松月庵」という木から削りだされたであろう看板のおかげであった。  中に入ると、クーラーが効いていた為か、涼しさが自分の体を通り抜けていく。木を削りだした楕円形のテーブルと同じく木製のシンプルな椅子が置かれており、内装は濃いグレーに統一されており、パスタが出てきても可笑しくない店の雰囲気に不破野も意外そうな顔を見せていた。  客は自分達以外には5組ほどおり、思ったより賑わっていた。もしかしたら地元民には有名で人気な店なのかもしれない。 普段着にエプロンをつけたような五十代ぐらいの背の小さい女性がお冷とお絞りを置いてくれた。女性は微笑んで「ごゆっくり。」と言い、厨房の方に戻っていく。 不破野は、お品書きをまるでテストに挑むときの様に真剣な目つきで見ている。自分は冷たいざるそばを注文するつもりだったので、それをお冷を飲みながら見ていた。どうやら覚悟を決めたようで、こちらにお品書きを差し出してきた。自分はそれに、いらないという意味の手振りをし、先程の女性を手を挙げて呼んだ。 自分はざる蕎麦を頼み、不破野は温かい狐うどんを頼んだ。待っている間に不破野が話しかけてきた。 「外食なんて久しぶりかも。」 自分は飲んでいたお冷を下ろし、 「俺は毎日外食しているようなもんだからな。」 と答えた。 「お金持ちだねっ。」 そんな不破野の煽りに露骨に嫌な表情で返しはしたが、今まで来た事のない土地で誰かとご飯を食べるという特殊な状況のせいか、内心ではとても楽しんでいた。そのせいか、露骨な嫌な顔をした後に噴出してしまい、不破野もそれを見て笑っていた。 少し時間がかかった後に、料理が運ばれてきた。自分のざるそばは、盆の上に朱塗りの器にざると蕎麦がのっていて、同じく朱塗りのつゆ入れに薬味用の小皿が乗っかっている、いわゆる普通のざる蕎麦であった。 不破野のきつねうどんは黒のどんぶりに入っており、そこから白い湯気がもくもく立ち上っていた。うどんの上には、つゆをたっぷりしみこませたであろう油揚げが乗っかり、さらにその脇にたっぷりの青葱が盛られていた。 注文した品を待っている間に髪を後ろに縛った不破野と自分は手を合わせて、いただきますと小さな声で言った後、食事に取り掛かった。 ざるそばの味は可もなく不可もない感じだった。コシはあるが、もうちょっとだけあればいいもののという所で噛み切れてしまい、つゆも自分にとっては少し薄味。つゆの量も少ない事もあって、最後あたりは、そばをそのまま食べている感触に近くなっていたが、お腹も減っていたこともあってか、あっという間に完食してしまった。 不破野も湯気が立ち上るきつねうどんを黙々と食べていた。麺をすすり、それを目をつぶって味わう様に咀嚼する。つゆも蓮華を使い、結構な量を飲んでいた。うどんを完食した彼女の額には、うっすら汗がにじんでいた。 店の外に出ると、先に出ていた不破野が言った。 「おいしかったね。」 自分はそれに素直な意見を述べた。 「そうか?まあまあだったけど。おいしいとまではいかなかったと思う。」 それに少し、むっとした顔で不破野が言い返してきた。 「きつねうどんはおいしかったよ。うどんがおいしい店なんだよきっと…。」 そう言いながら、不破野は田んぼの方を見て、驚いた顔をしていた。なんだろうと思い、同じ方を向くと、夏の赤々とした夕日が落ちかかっていた。 田園を囲む山々に沈んでいこうとしている夕日によって、浮いている雲は淡い赤色と黄色、深い藍色のグラデーションに染まっていた。水の張った田園に空の色が反射し、まるで異世界の様な風景がそこに出来あがっていたのである。 自分はその風景に釘付けになっていた。 「きれいだな。」 自ずと口からその言葉が出た。 「うん。」 不破野がそう答える。 「昔、家族でこういう風景を見た覚えがあるんだ。」 不破野は優しい声で続ける。 「自転車を皆でこいで、弟が小さかったから、父さんの自転車の背中についている席に座って、私は小さなアニメのキャラクターの自転車に乗って、母親が坂道で泣きそうな私を励ましながら自転車をこいで…。」 そこまで言って彼女の声は止まってしまった。 自分の気のせいかもしれないが、その時、不破野は必死に本来出るべき表情を出すまいとしようとしている様に見えた。 そして、なーんてねとでも言うように、こちらに笑顔を向けると、 「帰ろうか。そろそろ電車も来るだろうし。」 と笑顔を浮かべて言った。 駅に戻った時には、電車が来る5分前ぐらいになっていた。 電車が来るであろう方向を見る。田園の向こうの暗闇に微かに森らしきものが見え、その先には山々がそびえたっている。 もし、自分達がもう少し先まで寝過ごしていたら、どんな景色を見ることが出来たのか。そこでどんな事を不破野としたのであろうか。帰れない距離まで行っていたら、どうしていたのだろうか。そんなことを考えていた。 それは今までのように、「女子と一緒に」という下心があったのかもしれない。だが、どちらかというと自分の中では純粋に誰かと一緒に遠出する事への期待の方が大きかった。 その時、自分は修学旅行を楽しみにしているという同級生の気持ちが分かったような気がした。そして、微かに見える森の暗がりから、二つの電車の頭から出る灯かりがこちらに向かってくるのが見えた。    自分達がいつも帰る駅に着くと、そこで不破野と手を振って別れた。虫達が光に集まって「ジジッ」と音を立てている電灯の下を歩きながら、先程の駅で考えたことを再び考えていた。  電車に乗った先には、どんな場所が広がっているのか、そこには田んぼだけでなく、テレビで見る様な沢山の花畑、歴史的建築物、多くのビルディングがあるかもしれない。  美味しい物も一杯あるだろう。B級グルメ、特産の果実、今日食べた蕎麦よりもおいしい蕎麦。  そんなまだ見ぬ魅力的な事の数々を頭の中で堪能していたが、何故か、そこには不破野が一緒にいた。しかも、いつもの制服ではなく涼しそうな青いワンピースを着ている。そんな彼女と様々な所を何故か頭の中で回り、美味しいものを食べる。  彼女は今日、夕日を見ていた様子とは真逆で屈託なく満面の笑みを浮かべている。そして、それは妄想の中の自分も同様であった。  一体こんな妄想をするとは、自分はどうしたんだと困惑しながらも、未だに続く熱帯夜の中、汗を背中が伝っていくのも忘れて、一人、帰路の中で今まで考えた事もなかった思考に夢中になっていた。    夏休み終盤は連日大雨が降り、夏休み最終日に不破野のバイト先に着く頃には、傘を差しているにも関わらず、服の袖やズボンの裾がびしょ濡れになっていた。 店内に入ると、クーラーがギンギンに効いている為、濡れた部分が冷えてしまう。その為、温かいコーヒーを頼んで席に着き、そこから自習をするのが自分の日課となっていた。 ブランクはあったが、段々と過去に積み重ねていた研鑽のコツを取り戻し、教科書も一日かけてだいぶ進めることができるようになっていた。もちろん、帰りの道や電車の中で不破野先生に問題の解き方を教えてもらっていた為に出来た事ではある。 ある日のバイト終わり、駅まで戻った後で、不破野が「今日は用事があるから」と言い、どこかに行ってしまった。今までも、こういうことは数回あり、そうなると、自分は一人で電車に乗って帰るのが常であった。 だが、その日はすぐに帰るのではなく、なんとなく駅前をぶらぶらしていた。帰っても特にすることはなかったし、もしかしたら、用事が終わった不破野とまた会えるかも知れない。そう考えたからだ。 彼女とのなにげない帰りのおしゃべりは、気がついたら自分にとって楽しいものになっていたのだ。 駅前の比較的広めの裏路地を歩いていると、見慣れた人物を見つけた。不破野だ。 左手にパステルブルーの傘を持ち、その肩に学校指定のカバンを下げている。もう一方の片手には携帯を持っていて、時折、左右を見渡しつつ携帯の画面をチェックしている。  近づこうともしたが、別れてからさほど時間が経ってなく、後をつけてきたのかと勘違いされるのも癪だったので立ち去ろうとした。 しかし、程なくして、自分がいる反対側の道からグレーの傘をさした女子生徒が向かってくるのが分かった。不破野は気がつくと、その女子生徒に手を振った。女子生徒は少し大きめの黒色のフレームの眼鏡をかけ、白いブラウスに紺色と水色とグレーのチェックのスカート、紺色のハイソックスという女子高生の一般的な服装といったいでたちをしており、髪型は黒色のボブカットをしていた。 不破野ははっきりとした「美人」という感じだが、彼女は少し丸っとした顔につぶらな瞳、そして全体的に少し太めで「可愛いらしい」という文字が似合う感じだった。ただ、その可愛らしい顔は不破野に気付いても曇っているのが遠くから見ても分かった。 「あの子もメイセイか…。」 自分は独り言を呟く。不破野に近づいていた女子の制服はかつて不破野のバイト先に来た男達と同じ学校の制服だとスカートの色で判断出来た。  眼鏡の女子が不破野の目の前に来た時に、何かを口走ったのが分かった。不破野は不安な顔をしながら何かを彼女に言い、彼女の手を握った。  その時の横顔は普段、彼女が見せることのない必死さがあった。本当に何かを望んでいて、それを誰かにお願いするような…。 その後も何言か話した後、二人がこちらに歩いてくるのが見えた。自分は二人に気がつかれないように、一目散にその場から離れた。 雨の波紋が幾つも出来ては消える駅への道を、早歩きしていると、よく分からないが、胸に何かモヤモヤとした感覚が残っていることに気がついた。それは今まで不破野の必死な顔を見たからだろう。そして、春に不破野が自分の部屋で言ったことを思い出していた。 「今日、来たのは君と取引に来たの。東海林君。」 何故、その言葉なのか、そして必死な顔を見ただけで胸にモヤモヤができたのか、それはなんとなくわかっていたが、その時は、それ以上深く考えたくはなかった。 八、勘違い 夏休みは思っていたよりもあっという間に過ぎ去った。一年の時は、夏休みがとてつもなく長い時間に感じられた。それもそのはずだった。話す人は両親のみで、その両親とも話をすることはあまりなかったからである。 今年の夏は、断絶していた勉強を再開したり、殆ど毎日外に出て、不破野と一緒にいたのが一番大きかったのかもしれない。本を貸し借りしていた事や勉強を教えてもらったりしてもらった事もあり、彼女と話すことがかなり多かった。 彼女自身、誰かと話すことや冗談を言う事が実は好きな性格だったのだろうか、他愛無い話も多くした。同い年の人と話すことが時間を短くする事をその時、初めて知った。 他の人から見たら、「可愛い女子と話すのはそりゃ楽しいだろう。」と考えるのかもしれない。確かにそういう側面もあったことは否定しない。だが、それまでまともに同じ年代、それどころか、人と話したことがなかった男からすると、ただ純粋に不破野という人物と話せることが嬉しかったのである。 だが、あの雨の日に不破野の必死な顔を見て以来、その考えにかげりが見え始めていた。そしてあの言葉、「取引」の二文字が反芻されるのである。 元々、不破野とは、自分に不都合なことをばらされない代わりに、彼女の言うことを聞くという「取引」で成り立っていた関係である。彼女は、バイト先を訪れた男達を恐れていた。そして自分がいれば彼らは容易に不破野に近づくことはない。 そう。自分は不破野にとって、そんな、ただの「虫除け」だったのではないかという事を思い出したのである。 「虫除け」は行き帰りの丁度いい話し相手ぐらいでしかない。だから自分に対しては常に作り笑いをし、自分に見せない様な真面目な顔をする相手は、あの眼鏡の子のようにちゃんといる。  あの雨の日以降、そういう疑念が自分の頭に浮かび、そのたびにかき消す日々が続いていたのである。    夏休み明けの教室は夏休みが終わった事に対して悲観の声が聞こえてきた。しかし、その中には、まだ先にはなるが、修学旅行への期待の声が混じっていた。 不破野のほうを見る。女子と何かを喋っているようだが、他の声と混じって、何を喋っているのか聞こえない。自分は腕で枕を作っていつもの様に机に突っ伏した。 帰りの道を不破野に出会わない様校門出ようとすると肩を叩かれた。後ろを振り向くと、不思議そうな顔をした不破野がそこにいた。 「なんかよそよそしくない?」 不破野は何気ない感じでそう言った。駅に向かういつもの道を歩いていたが、自分の胸中は穏やかじゃなかった。 「いや…、そんな事ない。」 ぼそぼそと自信なさげに返した為に、不破野に「え?なんて?」と聞き返された。 しばらくの沈黙の後、不破野は言った。 「何かあったの?」 自分は、そう言う不破野に本当の事を聞きたかった。 しかし、なんと聞く? 「俺は君にとって、何なの?」 「君は俺をどう思っている?」 そんな事はちゃんちゃら可笑しいのはわかりきっていた。彼女にとって、自分は元々、なんでもない人物だし、そんなこと聞いたらキモイだろう。 そして、その場では、「少し、体がだるいんだ」と言って誤魔化した。 その日もバイト先に行き、いつもの事を実行した。男達は来なかった。ただ、違いがあったのは、勉強が全然進まなかった事と、行き帰りの電車の中で二人とも寝ていないのに沈黙し続けていた事だ。 地元の駅に戻ってきた時にも、不破野は不審な顔をして、別れの挨拶を言った。自分はその挨拶に対しても、活力なく答えてしまった。人と話すことには少しは慣れたと思っていたが、上手く仮面を被る事は、まだ全然出来ていない事を自覚した。 夏の暑さはまだまだ残ってはいるが、日が沈むのは早くなった気がする。 そんな事を考え、家に帰る狭い住宅地の道を歩いていると、目の前に見覚えのある制服を着た人物がいるのに気がついた。 暗くなっていて、それが誰だかわかるのに少し時間がかかったが、自分がかつて着ていたものと同じ夏物の制服と姉にどこか似ているくっきりとした顔立ちから、その人物が不破野渉だということがわかった。 「こんばんは…。」 不破野渉は少し、おどおどした感じでお辞儀しながらそう言った。前回会った時の仕打ちを考えれば、このおどおどしさはしょうがないと思った。  「こんばんは。」  そう自分が返すと渉は少し、もじもじしていた。  何の用だろうか?  そう考えながら渉を見ているうちに、一つの欲望が体の中から湧きあがるのを覚えた。 「この子は、不破野の悩みや過去を知っている」  そう、彼に聞けば俺は不破野の悩みを知れる。彼女が何に悩み、何を恐れ、何によって救われるのかを知ることが出来る。 あの雨の日の彼女の必死な顔を思い出し、そして日頃自分に向けてくる笑顔を交互に思い出した。彼女の過去や悩みを知って解決出来たら、いつも向けてくる様な素顔を隠した笑顔じゃなくて、心の底から笑ってくれている彼女を見せてくれるかもしれない。そうなった時に、自分は彼女にとってただの「虫除け」じゃなくなるんじゃないだろうか…。 「実は、姉のこと…。」 渉は自分の両肩を掴まれると、出しかけていた言葉を止めてしまった。自分は、渉の顔を見て、自分でも驚くぐらい必死な声で口走ってしまった。 「不破野の過去のことを話してくれないか、頼む!」 自分の顔が必死になっていることが自分でもわかった。 その時に自分にとって不破野はいつの間にか大切な人になっていた事に気がついた。 初めて出来た、自分と怖がらず話してくれる同年代の友達だ。そんな彼女にとって自分がただの「虫除け」でしかない事に自分は恐怖を感じていた事をその時ハッキリと自覚できたのである。 「何してるの?」 その声を背後から聞いた瞬間に背筋が凍る。 いつも聞いている声で、声の主はすぐわかった。しかし、その声の冷たさは今まで一度も聞いた事が無かった。 背後を振り向くと、そこには不破野楓が無表情でこちらを見ていた。  「帰るよ、渉」  そう言いながら、不破野が渉に近づき、手を引っ張る。  こちらの方を一切見ようともしない。  自分はその時にみっともない声で叫んだ。   「待ってくれ、不破野!そういうつもりじゃなかったんだ!」  振り向いた不破野がこちらを睨みつける。  目は怒りに満ちて、体が震えている。 「はぁ…。」 そう怒り交じりのため息をつくと再び渉の手を引いて立ち去ろうとする。  「ちょっと待てよ!」 思いがけずに不破野の手を掴む。 その瞬間、鬼の形相で不破野がこちらを見たと同時に自分の手を振り払う。 「何が違うっていうの!?ちょっと一緒に帰ったりしたぐらいで勘違いしすぎなんじゃない!私の過去を知ってどうするつもりなの!?」 そう言った後、不破野は目を丸くした。 驚いたようにも見えたが、自分にはその顔の真意がわからなかった。自分はその言葉を聞いた瞬間に頭が真っ白になったからだ。 そもそもそういう話だったじゃないか…。なぜショックを受ける…。 そう自分に言い聞かせたが、内から湧き上がる感情を止める事が出来なかった。 「ああ、ああ、わかったよ。そうだよな。くだらない交換条件の繋がりだったよな。本当にくだらない…。」 不破野の目を見て言った。 「言えよ。言いふらしちまえよ。もう、うんざりだ。夏休み全部使ってバイト先にまで毎日行ったり、金の無駄だった。」 そう言って、自分は帰路の方を向いた。不破野の顔を見ないように。    「馬鹿か…。何で思っても無い事を言うんだ。」  そう考えながらも、ただ歩き続けた。 少ししてから、後ろの方で、二人の足音が聞こえたが、そのまま歩いた。 蝉の声は聞こえない。ただ不快な暑さで背中に汗が流れている事だけを感じていた。 九、思っていることを言う 不破野とはその後、話をすることは無くなった。日課となったバイト先に行くのもそこで勉強する事も無い。 エロ本の件は拡散されてはいなかった。不破野は言わなかったのだろう。だがそんな事はどうでも良いと自分に言い聞かせる。 今日も授業は寝て過ごし、誰とも話さずに帰る。古本屋で立ち読みをして時間を潰し家に帰る。その繰り返しだった。 不破野の方の席はなるべく見ないようにしていた。その席には誰もいないと自分に言い聞かせた。声が聞こえてくるのはわかったが、それは知らない誰かの声だ。自分を肯定をせず、否定もしなかった。考え始めたら今の状況に対して耐えられなくなるのがわかっていたからだ。 何も考えないでこの状況が元の状態だったということを自分に慣れさせればいい。そう、リハビリだ。そうすれば何もかも忘れて、大丈夫になっていくだろう…。 そんな考えが壊れたのは、あの不快な暑さがまとわりつく日とは違った、心地よい涼しさを感じられる季節になってからだ。  教室の中では衣替えがとっくに済み、黒い学ランやセーラーを着た同級生達が修学旅行が控えていた事もあってか、色めき立っていた。  各々がどこに行くのか、そこで何を買うのか、誰と行くのかを話し合っていたのである。  しかし、自分には関係のないことと考えていたし、誰も話しかける訳ではなかったので肘に頬をついてそれらの話を方耳で聞いていた。そしてその中で、少し引っかかる事があった。知らない誰かの声が聞こえてこなかったのだ。 きっと行かない修学旅行の会話に混じれないから喋ってないのだろうと自分を納得させて、それ以上考えるのを辞めた。なるべく彼女の事は思考に入れたくなかった。 放課後、いつもの孤独に戻る為のリハビリをこなそうとすると、見覚えのある学ランに身を包んだ少年が家の前に立っていた。かつて自分も着た事がある見覚えのある学ランを自分は無視した。すれ違うと学ランの少年は後を追ってきた。舌打ちをし、足を早める。急に立ち止まり、後ろを向いて、冬服の学ランを着た不破野渉を睨んだ。   「何の用だ?」 低く冷たい声で言った為に、渉は少し恐怖で顔を崩したが、すぐに持ち直し声をかけてくる。 「姉と話してください。」   自分はそのまま前を振り返り、再び歩き始めた。次の瞬間、左手を掴まれたのがわかった。後ろを振り向かず、その手ごと、渉を突き飛ばした。ドシャぁという音が聞こえると、また歩き始めた。  しかし、歩き始めて数歩しないうちにまた左手を掴まれた。今度は振り返り、押しかえそうとすると、渉が鬼気迫った顔でこちらを見ていた。 その顔は不破野の過去を教えるのを拒んだ時のように強い決意に溢れていた。 自分はその顔を見ると、少し気圧されてしまった。溜息をつき、この諦めなさそうもない弟の話を聞く事にした。  公園の青いブランコに座る渉に缶のお茶を渡す。渉は軽く会釈をして、 「ありがとうございます。」 と言った。 「いいよ。謝罪だよ。突き飛ばして悪かった。」 隣のブランコに座り、自分の分のお茶を開ける。渉もお茶を開ける。「カシュっ」という二つの音が公園の中で小さく鳴った。少しお茶を飲み沈黙した後、渉が話を始めた。 「姉はああいう言い方をしましたが、あれは僕と姉自身を守りたかっただけだと思います。」 その言葉に自分は少し困惑したが、その表情を見た渉は付け足した。 「あ、すみません。詳しい事は自分から言えないのですが。えーっと…。姉はああいう言い方をしていましたが、東海林さんのことを心から嫌っていた訳では無いという事です。」 そう言われたが、納得はしなかった。 「そんなの本人じゃないとわからねえだろうがよ。」 自分は少し吐き捨てるように言った。そうすると、渉はこちらを向き、優しく微笑んで言う。 「わかりますよ。姉があなたと一緒に過ごすようになって、楽しそうに話してくるのを聞いてたのは自分だったから。」 自分は俄かに信じられないという表情をした。 「姉から、自分達がここに引っ越してきたというのを聞いていたと思います。越してきたのが、1年とちょっと前ぐらいでした。 その頃の姉はある目的と理由のために笑ったりする事が稀なぐらい、自分を追い込んでいました。」 渉は手に持ったお茶を眺めながら続ける。 「バイトをして、学校の課題をこなし、家事をする。夜には死んだように眠るという毎日が続いていました。そうする事で何かから逃れる様に…。 ですが、ある日、姉があるクラスメイトの話題をしてきました。皆から怖がられているけど、実は、その人が今の時代エロ本を隠れて遠出して買っていたり、古い小説を読んでいて、意外とその小説が面白かったり、勉強を見たり、うっかり電車を乗り過ごしてしまってうどんを食べに行ったり。」 渉は少し、少し言い澱んだ後に続けた。 「まるで、中学時代、姉に友達が沢山いる時のようでした。」 渉は真剣な顔をこちらに向けた。 「東海林さん。姉は今、困った立場に置かれています。今までバイトや学校を休んだ事のない。いえ、休むわけにはいかなかった姉がここ数日休んでしまう程です。 こんな言葉を言えた立場や義理ではないですが、姉を救ってください。お願いします…。」 突然言われたことに困惑した。救う?何から?そう思ったが、すぐにあのバイト先に来た連中の顔が思い浮かんだ。 「…俺じゃなくて、そういうのは保護者に言ったほうがいいんじゃねえかな。」 そう言うと、渉はうつむいたまま言った。 「保護者を頼るのは色んな意味で出来ません…。それに、あなたじゃないと…。僕や保護者や教師だとダメなんです。」 困惑の溜息をついた。一度は突き放された自分に一体何ができるのか。 「なら、その不破野の問題について教えてくれよ。」 「…これは姉の口から直接聞いてもらわないと、多分、姉は救われないと思います。」 どうしろと…と言おうとする前に、渉に遮られた。 「自分はまた、姉の口から東海林さんとの楽しそうな話を聞きたいです。  姉はきつい口調の時がありますが、嫌いな人のことは口に出しません…。  東海林さんは姉が嫌いでしたか…?」 その言葉は卑怯だろうと思った。嫌いなわけないだろ! 不破野と話さなくなってから、毎日がつまらなかった。俺の人生で唯一まともに会話できたクラスメイトだ。バイト先に行くのも、勉強を見てもらうのも、帰りの会話で何気ない話をするのも、全部経験したことのない程、幸せな時間だった。嫌いなわけがない。 不破野の事を忘れようとしたのも、その事が心からどうしようもなく溢れてきてしまいそうで、また自分は暴走してしまいそうだったからだ。 深い溜息を吐いて腹を決める。 「…わかった。今から不破野に会えるか?」 渉の顔は満面の笑みに変わり、元気よく頷いた。 可愛い顔をしているが、こいつは姉以上に心が強いのかもしれない。そんな事を考えながら渉の後について不破野家に向かう事となった。 結構な距離を歩き、民家がまばらになった所まできた。駅から歩いたら結構な時間がかかるだろう。学校からも自分の家からも遠い筈だ。 「こんな遠い場所を毎日通っていたのか…。」 小さな声でそう呟く。 不破野はバイトが終わってくたくたな体をこの家まで運んでいたのだろうと考えると、自分が彼女についていったバイト先の距離など大した事はないと思えた。 周りには田畑しかない古い民家が点在するような場所に来た。その中にある、長い坂道を登った先にある屋根の赤い古民家が不破野の家だという。 「では僕はこれで。」 そう言うと渉は家の方向とは別な道を進み始めた。 「お、おい、ついて来てくれないのか!」 そう言うと渉は振り返り、笑顔で言った。 「大丈夫です。東海林さんが今姉の事を心配していることを正直に話してください。姉が何を言ってもです。」 そういうと、再び渉は道を歩き出した。 家の前に着くと「不破野」と書かれた木目の板が下げてあった。確かにこの家らしい。 少し考え、息を吐いた。経年劣化で黄ばんでいる呼び鈴のボタンを押すのが怖かった。半ば衝動に近い形でそのボタンを押す。ピンポーンという音の後にサンダルを履いた音が聞こえてくる。 ガラガラという音と共に引き戸が開き、大きな目がこちらを見た。 久しぶりにその顔を見た時、緊張で胸の奥がキュッとした。その顔は驚きの表情を見せており、そして少しやつれているように感じた。 格好もいつもの制服ではなく、胸に大きく英字が書いてある白いTシャツに三本のラインが入っている学校指定と思わしき膝丈の青いハーフパンツだった。 「なんで…?」 「…渉に聞いた。」 少し沈黙があった後、不破野の表情が鋭くなるとすごい勢いで引き戸が閉じられようとした。 急いで引き戸に手を入れる。これじゃまるでストーカーみたいだ…。 「離して。」 冷たい声で不破野が言う。 「…困ってるって聞いたんだ。」 「関係ないでしょ。」 その顔を見てると手を離したくなった。同時にそれは嫌だった。この手を離した瞬間に不破野とはもうまともに話せなくなる気がした。あの笑顔の不破野がもう二度と見れなくなると思った。 「頼む…。話をしてくれないか。君は俺のことをどうでもいい奴かと思っているかもしれないけど、俺には君は大切な友人なんだ…。」 すごい恥ずかしさで顔が真っ赤になるのがわかった。気持ち悪い気持ち悪いという言葉が体から湧き上がってきた。それでも言葉を続けた。 「不破野と話さなくなってから毎日がつまらなかった。自分の生活がいかにつまらなかったかわかった。というより、不破野と話したり、バイト先にいったりするのが面白かったんだ…。 今まであんなに幸せに思う事なんてなかった。俺はこの後も不破野と話して笑い合いたい! だから…、何か困ってあることがあったら…、話してくれ…、心配なんだ…。」 全て言い終わった時には不破野の顔を見れなかった。恥ずかしさと不破野が引いている顔を想像して恐怖で手が震えているのがわかった。さっきよりも強い明確な拒絶が飛んでくるのではないかとびくびくしていた。 少しして、何も返答がなかったので恐る恐る不破野の顔を見た。その顔には拒絶や引いている様子は無く、下を向いて思案している様子がうかんでいた。 そして彼女の大きな目が閉じられると同時に彼女は閉じようとしていた引き戸を開けた。そしてこちらを見て言った。 「上がって。」 家の中は広く、ふすまで区切られた部屋や、その上の欄間の模様から古風な日本民家の印象を受けた。だが、ふすまは所々、表面が剥がれていたり、欄間も一部壊れている所が見受けられ、裕福な古民家というよりは、何とか家を維持して暮らしている印象を受けた。 色々見渡していると、 「今、おじいちゃん達、畑に行っていると思う。」 と不破野が言った。 居間や小さな部屋を渡って一番奥の扉を不破野は開けた。そこが彼女の部屋らしい。 部屋の中で彼女の部屋というのを印象付けるものは壁にかけられた冬用の学校の制服と隅においてある学校のカバンだけだった。それ以外には、部屋には淵がボロボロになっているテーブルや古い箪笥と本や教科書類が入った安そうなカラーボックスがあるのみだった。 腰を下ろすように言われて待っていると、麦茶が入ったグラスを盆に載せて不破野が戻ってきた。 不破野が腰を下ろすと互いに麦茶を口に運んだ。 互いに何も言わないまま、少し時間が経った頃、不破野が口を開いた。 「ここ、殺風景でしょ?」 その顔は少し自嘲気味だった。自分はそんな事は無いと首を振った。 「いいよ。私もそう思っている。」 そう言った顔は少し元気が無かったが、少し前は良く見た不破野のいつもの笑顔だった。その顔を見た時、不意に口から言葉が出た。 「なにかあったのか?」 自分でもいきなりすぎたと感じた。不破野が口に出すのを待つべきだったと後悔したが、その言葉に対して、不破野が口を開く。 「うん。ちょっと参った事になった。」 その顔からは疲れがにじみ出ている。 「この前は弟さんに昔の事聞いて悪かった。もうあの事は聞かないから、今困っている事を教えてくれないか。助けになる事なら協力したい。」 そう言うと彼女は首を振った。一瞬拒否されたかと思ったが、次の言葉で違う事がわかった。 「ううん。昔の事を話すよ。知りたかったんだよね。  というかバイト先に連れ回して自分だけ喋らないなんて人が悪いよね。ごめんね。」 そう言うと彼女は下を向いた。 「それに今回の事は昔の事が原因なんだ…。」 十、彼女が恐れるもの 「前に私が、通っていた中学はここらへんじゃない県外のとこって言ったよね。  私と渉はここに来る前にちょっとした都会に住んでたんだ。そこで私と渉は父親と母親と一緒に住んでた。ごく普通のごく一般的な家族。」 そう言った不破野の顔は微かに残った過去の幸せを思い出しているかのように少し微笑んでいた。 「学校も楽しくて、友達と毎日遊んでから帰ってた。今みたいにバイトじゃなくて客としてハンバーガー屋にも行って他の客の事も考えずに大笑いしながら喋ってたりもした。好きな男子もいて、結構仲も良かったんだよ…。」 そして不破野の顔から微笑が消えた。 「でもね。ある日そんな日々が壊れたんだ。父親がね。ちょっと大きな…、その…、犯罪をやっちゃったんだ…。」 その一言に自分は内心驚いたが、不破野のテーブルの上で左手を握っていた右手が震えていたのを見て、その事について詳しく聞くのは憚られた。 「元々、あんまり気の強い人じゃなかった。優しかったし、大きな声で叱られたことも殆ど無かった。きっと私達が思いもよらない重い悩みをを我慢してたんだろうね…。私も何回か会った事もある親友って言っていた人に騙されたみたい。それで…。」 不破野はそこで言葉を詰まらせた。 「いいよ。言わなくて。大丈夫だから。」 自分がそう心配そうに答えると、不破野は下を向いたまま頷いた。 「それでね。それまで仲良く放課後に馬鹿笑いしてた友達も私を遠ざけるようになってきた。私の知らない連絡グループもいつの間にか作られたみたい。 そしてね…、昼ごはんも一人で食べる事が殆どになった。学校で話をする人が先生だけになった。好きだった人が私の顔を他の男子と見てにやついて見て良くない事を言う様になった!学校で机に突っ伏している事が殆どになった!学校が!…これぽっちもね、…楽しくなくなったんだよ…。」 そう言った不破野の目から大粒の涙が流れていた。 自分はここまで取り乱した不破野を見た事が無かったので、呆然とするしかなかった。出来たのは静かにごめんと言いながら涙を拭く不破野にいいよ…と相槌を打つ事だけだった。 少し落ち着くと不破野は話を進めた。 「私は中学三年生だったからまだ傷が浅かった。でも渉はそうじゃなかった。  それまで五年間友達として仲良くやってきた友人達がいじめる側に回った。最後にはランドセルがまともな形を保っていないぐらいだったんだ。  それを見て私と渉でお父さん側の祖父母がいるこの家に引っ越してきたの。お父さんが婿入りだったから私と渉の苗字も変わった…。」 そこまで聞いた所で疑問が起こった。そして自分は愚かにもその疑問を考えもなしに口に出してしまった。 「母親はどうした?」 不破野の雰囲気が冷たく変わるのを感じた。 「逃げたよ。ここに引っ越すっていう算段がついた時に。」 そこで自分は迂闊な質問をした事に気づいた。 「それまで付き合いがあった人とどっかに行っちゃった。母方の祖父母に連絡したらね。『あなた達とはもう家族ではありませんから教える訳にはいきません。』って言われちゃった。離婚したって知ったのも面会に行った時にお父さんに教えてもらった。」 その言葉を告げる不破野の口調は感情が完全に死んだ淡々としたものだった。 「で、逃げてきたのは良かったんだけど。運が悪かったんだろうね。私以外にもここに同じ学校から逃げてきたやつがいた。」 「それって…」 「そう、君が見たバイト先に来た男達のうちの一人。」 夏休みに入る前に見た集団で来て自分を見て引き返した男達を思い出した。 「あいつは、元住んでた所で優等生のふりして色々な事をやってた。大人に見えないように。」 「つまり悪いことってことか。」 「そう、暴行事件とか他諸々。  特に女子に対する性的な暴行が酷かったみたい。タチが悪いのが上手く立ち回って表では成績優秀で模範的な生徒として扱われてた事。私とはクラスが違ったのと、彼が先に問題が明るみに出たおかげで元の学校では関わりがなかった。」 不破野は肘をテーブルに置き、両手で頭を抱えた。 「でも、高校二年の春になってから市街地で出くわしたんだ。元の苗字で呼ばれたから動揺しちゃってバレた。今では殆ど監視になってない監視つきで一人暮らししているみたい。 元々お金と力のある家の出みたいだから、元の学校でも悪さは表に出さなかった。」 その時大体のことが頭で繋がった。ここまで揃えば大体のことはわかる。 「つまり、過去の事を使って脅された訳か。」 不破野は頷いた。 「うん…。言われたくなかったら、あいつが今いる自宅に来いって…。 だからバイト先を特定された時にあいつを遠ざける何かが必要だった。そんな時に君にあの本屋で会った。」 これで不破野がバイト先でした大きなため息に合点がいった。自分が春から夏の間、不破野のバイト先に行く事になったのは、不破野自身の身を守るための行為だったのだ。 彼らがバイト先から離れていった事で不破野は安心したのだ。 「でも今の時代ネットやSNSで拡散される可能性もあっただろう。」 不破野は頭を横に振った。 「前の学校での出来事があったからそこらへんは徹底してるらしい。私以外にもう被害に遭っている子にあったんだけど酷い事された後に写真撮られたりして、変なそぶりしたらネットに流すって…。」 不破野は下唇を噛み悔しそうに言葉を紡いだ。 「でも君と喧嘩したあの日から少し経って、あいつらがバイト先にやってきた。 今度は私の周辺だけじゃなくて、渉の学校にいる伝のあるやつにも過去のこと流すって。私の事ならまだなんとかなったけど渉のことまで掴んでいたなんて。完全に油断してた…。」 渉の存在を彼らが知っていたのは、あの中にいた唯一自分が知っていた小太りの男経由だろう。 高校は市街地の方だが、あいつ自体の住まいはここら辺で、かつて自分の中学とは遠くない中学に通っていた。地元経由での知り合いが渉の中学にもいるはずだ。 「誰かに相談したのか?先生は?お前の過去を知ってるはずだろ?」 「知ってるけど、言ってない。チクッたら渉の学校にばらすって言われている。それに あいつは私と違って今の学校で過去のことを知られていない。むしろ相変わらず模範的な生徒として見られているみたい。」    「何か策は無いのか?何でもいい、それを突き詰められないか?」 不破野は頭を振った。 「一つ進めていたことがあったけど、それも絶望的になった。策は無くなったの…。」 口を開けようとした瞬間、不破野は諦めが混じった笑顔を向けて言った。 「大丈夫。東海林君に話を聞いてもらってちょっと楽になった…。私が諦めれば渉だけはどうにかなりそうだから…。今までありがとうね。そして…ごめんね…。」  その後、自分の家に帰る道を歩きながらずっと不破野の事を考えていた。 彼女から諦めの言葉を聞いた後は、ずっと諦めるなと彼女に言ったが、彼女の決意は固かった。遂に彼女を説得する事は叶わなかったのである。 家を出る前に言った彼女の言葉を思い出した。それは彼女の願いと彼女が今までずっと恐れていた事だ。 「東海林君、怖い物ってある?」 その言葉に自分は首を横に振った。本当は不破野に関係を断絶されるのが自分の怖い事だったが、恥ずかしさで言えなかった。 「私はね。怖いことが三つあるんだ。一つは、渉のこと。 渉の人生が無茶苦茶になる事。 お母さんが逃げた時にね、へこんだけど、すぐに私がこの子を守らなくちゃいけないってなったんだ。今もそのために生きてる。あの子ね、私よりも頭良いんだよ。だから将来は良い職について幸せになって欲しいんだ。…それだけが今の私の望み。」 その顔は決意に満ち溢れ、そして同時に何かに取り憑かれている様にも見えた。 「二つ目はね…同年代の子が怖いんだ…。」 その言葉に驚きを隠せなかった。自分の目に映っていた不破野はクラスメイトと談笑し、なんなく関係を築ける事が出来ていたからだ。 「前の学校のことがトラウマになってるみたい。 まったく話さなければ楽なんだけど、あの学校ってあんまり品行方正がいい学校って言えないじゃない?だからクラスメイトと摩擦起こさないようにして、バイト先は学校の知り合いと会わないあんな遠い所にしたんだ…。 理由話したら先生が学割の定期を出せるようにしてくれた。結果、最悪の結果になっちゃったけどね…。 だから、渉に過去の事を聞いてた時に東海林くんが私の昔の親の事を知ったら、見る目が変わるんじゃないかって…。怖くなって…。」 その言葉に自分は少し声を荒げて否定する。 「変わらねえよ。それに俺も褒められるような人生送ってねえよ。それだけの事で不破野の事笑ったり、嫌いになる訳ないだろ。」 不破野はその自分の言葉に驚いていた。そしてそのまま静かに呟く。 「そう。だから三つ目はね…。」 不破野はそこで口を閉じた。そして笑ってこう言った。 「ごめん。三つも無かったよ。」 不破野のあの時の様子は気になったが、今は置いておこう。  渉は自分ならどうにか出来ると言った。だが、自分には今の不破野を穏便に救えるとは思えなかった。 先生と話すなんて小学校を最後にしてまともにやった事なんて無い。 人脈を使い救い出す…。自分には敵の方が多いしクラスの人ともまともに話せない男がそんなこと出来るわけ無いだろう。 「なら残すのは…。」 そう呟くも、そこで躊躇した。それは高校に上がってからはずっと忌避していた事だ。 両親に迷惑をかけ、自分が望む道を断った原因だ。 だが、すぐに思いなおした。これまで見てきた不破野の笑った顔、蕎麦屋から出た後の感情を殺した顔、そして先ほど見た涙を流す顔、それが自分の頭の中を駆け巡ったからだ。 もういいだろう。彼女は十分苦しんだ。毎日遠い距離を登校し、クラスで怖いにもかかわらず同年代に対して必死に仮面を被り、バイトでへとへとの中をまた遠い距離を歩いて帰る…。 成績が優秀だったのは彼女がそんな中でも勉学を諦めなかったからだろう。 左足を一歩前に踏み込み、空に向かってストレートを打ち、直ぐに手を引っ込めるが、少し鈍ってるという印象を感じる。 これは、中学時代に護身のために通ったボクシング教室の講師から習ったものだ。 最初は優しかった二十代後半ぐらいであろうその人は自分が喧嘩でその技術を使っていると知った時に苦虫を噛んだ顔になって自分をジムから追い出した。 またあの顔を見る事になるかもしれない。それも両親や教師からだけじゃない。不破野や渉からもだ。 それでいい。自分は全てを諦めた。勉強も喧嘩など毛ほども知らない優秀なクラスメイト達との学園生活も。自分の人生で一番望んでいたものを少しでもくれた友人の為なら、自分の人生を棒に振ろう。 「不当な暴力に対しては、徹底的に対抗するべき。」 過去の忌まわしき信念を再び口にして、自分は再び帰路についた。 十一、決闘 家に帰ると早速準備に取り掛かった。 玄関のドアノブに鍵がかかっている事に少し喜んだ。 中に本当に誰もいないことを確認すると茶の間にあるデスクトップ型パソコンの電源をつけた。 そしてメイセイこと名入成蹊高校の文字を立ち上げたネットの検索バーに打ち込む。一番上に出てきた公式ホームページをクリックし、これから入学する人達という文をクリックする。 そこにある授業カリキュラムを確認する。授業が終わりホームルーム諸々が終わるのが3時半頃だ。 大体自分の高校と終わる時間は同じだが、放課後に向かうには遅すぎる。学校を抜け出すか学校に向かうと見せかけて直接向かった方が良さそうだ。 PCの電源を切り、自分の部屋へ向かう。押入れを開け、下の段にあるダンボールを一個取り出す。 中から古めの小さいデジカメを出す。もはや今のスマホの方に追いつかれているか下手すると抜かれている画質のものだ。 充電が切れているようなので、充電器も取り出して本体とコンセントにさす。ケーブルに繋いだままドアを取る。ピント自動補正でボケ無しで撮れており、画質も申し分ないのを確認する。 そして、汚れた野球の硬球ボールを取り出す。 その汚れは血による汚れであり、今見ると、汚いな…という印象がまず湧いてきた。そして、更に中にあった防犯スプレーを取り出す。これもちゃんと中身が出るか気になったので、扉に向かって吹きかけると、ちゃんと噴出される事が確認できた。 最後に、一階に再び降り、押し入れの中をいじくりまして、ビニールテープを手に入れた。 あらかた準備は整ったので近くの公園へ向かい、試しにハイキックをしてみる。 一応出来るのだが、中学の時よりも鈍っているのがわかった。数十回やっていくうちに汗が額と背中に流れ、中に着ていたシャツが濡れるのを感じる。 傍目から見たら、ただの若気の至りで痛いことをやっている青年で済ましてくれるだろう。実際昔もそうだった。 最初よりも幾分かマシになったところで足を止めた。次にジャブ、ストレート、フック、アッパーなども同じように反芻する。ぎこちなくなっていたステップも直ぐに勘を取り戻した。実行はなるべく早い方がいいだろう。そう考えながら、もはや涼しさを感じる夕方の風と早くなった日の沈みから秋の訪れを感じた。 次の日、いつもの様に学校に行くと見せかけて、黒いバックパックを背負い、自分は駅に直行する。  電車に乗って市街地の駅に着くと、不破野のバイト先の近くにどこか長居の出来る場所がないかを思案した。  しかし、不破野のバイト先は周辺にパチンコ屋やコンビニしかない。 その為に、自分は外での待機をする事を腹に決めて、今年の夏に毎日と言ってもいい程通った道を歩き始める。  アダルトショップとは反対にある大きな坂道を下り、その先にある橋を渡り、不破野のバイト先の更に奥にあるコンビニで温かいほうじ茶と弁当を購入すると同時に、思い出した様に重要な物を忘れていたとコンビニで売っていたデジタル腕時計を購入する。  そして、再び橋を渡ると、橋の入り口脇にある堤防の斜面に腰を下ろした。  その斜面は丁度橋の入り口が見える位置であり、入り口からはその場に伏せてしまうと発見され辛くなる為に観察し続ける場所に適している。  コンビニで購入したデジタル時計を箱から出して時間を見ると9:30となっている。早く来過ぎた感は否めないが、ギリギリに来てチャンスを逃すよりはいいと思いながらバックパックから本を取り出し読み始めた。季節はもう秋に分類されるであろうが、その日は快晴であり、まだ日中は外にいても寒さを感じる事は無かった。    昼に弁当を食べるなど、本を読むなどして暇をつぶし、日が少し傾きかけた時に橋に見覚えのある姿を見た。不破野である。自分は見つからない様に堤防の斜面に伏せて身を隠す。  あれからすぐに職場に復帰しようと考えたのは素直に凄いと感心したが、その顔はどこか悲しげであった。  時間を見ると、16時過ぎになっていた。そろそろ準備をすべきかと思い、バックパックから野球の硬球と防犯スプレーを取りだし、スプレーはブレザーのポケットの中に入れた。  そして、少し時間が経過した後、橋に繋がる道の向こうに、あの4人組の姿を見た。夏の頃とは違い、メイセイのグレーのブレザーを各々が崩して着ていた。  「…まじであの女連れ込めるんすか?」    見覚えのある小太りした男がリーダー格の優男にそう聞いているのが聞こえきる。自分はバックパックをその場に残て立ち上がり、ゆっくりと橋の入り口に向かう。  「お前、声デカいんだよ。まあ、弟の事もあるし例の野郎とも別れたという話を聞くからもう大丈夫だろう。…まあ、まずは俺優先だけどな。」  優男が下卑た笑顔をして、そう言い返すのが聞こえる。背中に隠した野球ボールをぎゅっと強く握りこむ。  自分が橋の入り口に立ち、4人の進行を阻むと、それまで笑っていた4人の顔から笑みが消えた。  対峙した自分と4人の中に沈黙が流れる。  しばらくして、優男が口を開く。  「なんだよ。」  自分は冷たい声でそういった優男に一言返す。  「友達を助けたいと思ってね。」  その瞬間に小太りの男が口を開こうとする。    「そいつ!やき…。」  言わせるか。馬鹿が。  男が完全に言い終わる前に、自分は小太りの男の顔面目掛けてボールを投げる。  丁度顔面にクリーンヒットさせると男は顔を抑えて悶絶し始めた。  残りの3人が呆然としている中で、今度は防犯スプレーを取り出して屈強な男に吹きかける。  しかし、こちらは事前チェックしていたのにもかかわらず不発に終わった。  自分は「ちっ!」と言った後に、ブレザーのポケットにスプレーを入れ、その場からダッシュで退散して堤防上にある道を走り始めた。  その後を脱色の男と屈強な男が追いかけてくる。意外な事に足が速かったのは脱色男の方であった。そして、脱色男が自分に追いつきそうになった時に、自分は反転して急ブレーキをかけようとした脱色男の首にラリアットをかます。  綺麗に脱色男はあおむけに倒れ、その顔面を追い打ちをかけるように踏みつける。「ガズン!」と嫌な音が聞こえたが、まあ死んではいないだろう。  そして、すぐさま屈強な高身長の男が追い付いてきた。男は追いつくや否や、両手をこちらに向ける構えをしてきた。何か格闘技をしているかと予想はしていたが、その予感は見事的中したといえる。 「柔道か…。」  服を掴まれたら投げや締めに回られる為に、要注意が必要だ。過去に地面に叩きつけられ、意識が飛んだ事がある。  相手がこちらに踏み込んだ際に、一歩引き、ジャブ、一歩引きジャブと軽い打撃を入れて、相手の注意力と士気を段々と下げようと3発目のジャブを入れた時に、急に何かが自分の目の前を通り過ぎた。  それは、自分が投げた野球ボールであり、投げたのは小太りの男だった。そのボールは当たる事は無かったが、自分の注意を惹きつけるには十分過ぎた。  次の瞬間、屈強な男が自分の懐に飛び込んできて、地面に押し倒された。なんとか、後頭部を強打する事は避けたが、男は自分の首を両手で絞め始めた。  その顔は激昂で真っ赤になっており、目も常軌を逸していた。首の締め方も下手すると人をそのまま殺してしまいそうな程に強い物だった。自分はその顔にパンチを入れたが、姿勢と首を強く絞められていた為に力は入らず、男はびくともしていなかった。  小太りの男の笑い声が空中に響き渡る中、自分は先程、不発に終わったスプレーをポケットから取り出す。心の中で念じて屈強な男に向けて再びスプレーのボタンを押す。    「素直につけ!クソが!」  そうすると、少し詰まった音がした後にスプレーから気体が勢いよく発射された。スプレーがつかないと油断しきっていた男は目を抑え悶絶し、両手を離した。  自分はすぐに立ち上がった後に、仰向けになって目を抑えている男の溝を思い切り踏んづけた。  「グゥエ…。」  男はそう言いながら口から少し吐瀉物を噴き出す。そして、トドメと言わんばかりにその目を抑えている手ごと上から勢いよく踏みつける。    「ガゴォ!」  男の後頭部がコンクリートの地面に打ちつけられ、手がぷらんと離れて露わになった目は白目になっていた。  自分はのそりと振り向くと怯えきった小太りの男の元へとゆっくり歩いて行く。男は最早、自分の足を動かす事も出来ずに、わざとやってるのかと思えるぐらいに膝を震わせていた。    「ごめんなさい!もうしませんから!あいつの言う事に逆らえなかったんです!」  自分が目の前まで来た時に、急に頭を思い切り下げながら男はそう言った。さっきまで大笑いしてたくせによく言う。    「もうちょっと、頭下げたら許してやるよ。」  「え!?こうですか?」  喜びを言葉の端に滲ませながら、頭をさらに下げた男の頭にかかと落としを食らわせる。思い切りコンクリートの地面に顔を打ちつけた男は尻を突き出す姿のまま動かなくなった。  さて、次はいよいよ本命だ。そう考えながら、橋の入り口付近を見てみると、優男の姿はどこにもなかった。直後に背中に衝撃と痛みを感じる。  優男が後ろから両手大の石で背中を殴りつけてきたのだ。かなりの痛みを感じ、「うっ!ぐぅっ!」と声を漏らしてしまった。恐らく、自分と同じく堤防の斜面に寝そべって身を隠していたのだろう。  しかし、優男が喧嘩慣れをしていなかった為か、頭を殴られなかったのは幸いだった。自分は横目で男の姿を視認し、そのまま、顔目掛けて後ろ回し蹴りを見舞った。  顎に直撃した事によって、男は急に全身の体の力が抜けたように倒れこんだ。    優男に殴られた背中はまだ痛んだが、ぼやぼやはしていられない。過去に喧嘩をしていた際に通行人によって通報された事によって警察のお世話になった事がある。しかも、今回の喧嘩の舞台となった場所は道路に面していて、通行量も少なくはない。早く本来の計画を実行に移さなければ。  自分はバックパックを拾い上げ、優男を抱えあげ橋の真下に向かう。男の体重が軽かったのは幸いであった。橋の真下は道路からも隠れ、堤防の道からも見えにくい為に、計画を実行するには良好な場所であった。自分はバックパックからビニールテープとデジカメを取り出す。  ビニールテープで男の手を後ろに縛り、そして、ズボンをパンツごと下に引っ張った。下半身が露出した男のポケットから財布を取り出し、更にその中の顔写真の入った学生証カードを見つけ、白目を剥き、よだれを垂らしたまま開いている顔と並ぶ様にデジカメの手前にかざす。  「これで、いよいよ落ちる所まで落ちるな。」  そう心で無感情に呟き、自分はデジカメのシャッターを押した。 十二、証拠隠滅  その後、自分は男達を放置して不破野のいるファストフート店の先にあるコンビニを訪れた。  スマホを持っていれば、先程撮った写真をクラウドサービスに上げたりする事も可能だったのだろうが、そんな事は出来ないので写真をその場で現像した。そして、ふと気がつき空のスマホケースを購入する。今日は出費が多いなと心の中で思う。  そして、不破野のバイト先に向かう。不破野は驚いて、バイト中なのに普通に話をかけてきた。  「どうしたの!?今日学校休んでたから風邪でもひいたのかと思ったよ!?」    「ああ、ちょっとね。…バイト終わったら話あるから一緒に帰ってもいいかな?」  不破野は少し驚いた顔をしたが、うんと頷いた。  「…あと、お腹減ったから、てりやきバーガーのポテトLでドリンクは温かいコーヒーをお願いしてもいいかな?」  その注文に不破野は少しふふっと笑い。オーダーの声を挙げた。  橋方面が見える窓際の席に座ると、スマホケースを箱から取り出す。そして、温かいコーヒーをミルクも砂糖も入れずにすする。思ったよりも体が冷えていた様だ。コーヒーが体に染みた。  間も無くして、橋の方向から4人組がやってくるのが見えた。そして、自分の姿を見るや、怒りを露わにして早足で向かってくる。それに対して、自分はスマホケースを中身が空だとわからない様にスッと目の前に掲げた。デジカメだとすぐにバックアップは取れないが、スマホの場合、写真を撮った次の瞬間からネットの海に写真を漂流させる事は可能だ。  その事に気がついたのか、優男の足が止まり、周りの足もそれに伴って止まった。そして、優男は鬼の形相をしたまま仲間の間を通り、来た道を引き返していった。仲間たちは不可解な様子を見せて、その後を追う。自分はその様子を見ると、持っていたスマホケースをテーブルに置き、てりやきバーガーを食べ始めた。まんまとひっかかってくれて助かる。  ふと後ろから視線を感じると、不破野が目を丸くしてこちらを見ていた。自分は「なんでもないよ」というかの如く、手を軽く上げた。    不破野のバイトが終わる時には、日が落ちきろうとしていた。不破野を人質に取ったり、写真を奪う為に4人の襲撃があるかもしれないと考えたが、特にそういった事は起きなく無事駅に着き、自分達の住む町に繋がる電車に乗り込んだ。  警戒もしていた為に、自分は無言で歩いており、不破野もその気配を察してか、駅までの道を黙って歩いていたが、電車に乗ってしばらくして口を開いた。  「ねえ?なにかあったの?あいつら凄い怒ってたけども…。」    「ああ、そうだな。ちょっとシメた。」  不破野はその発言に驚きと困惑の顔を浮かべた。自分はバックパックから一つの写真とデジカメとその充電器を取り出した。  「男の下半身が出てるから、すぐに鞄にしまった方が良い。  あと、パソコン持っているか?この写真の元データが入ってる。無いならスマホで直撮りしてバックアップを残した方が良い。それでお前はあいつらから身を守れ。」    不破野に見せない様に、伏せて写真を渡したが、不破野はその写真をすぐに見た。そして彼女の見せた反応は、過去に自分が見てきた表情だった。  困惑と恐怖の入り混じった顔。これが自分に今まで友達がいなかった理由で、そして自分の行いの自業自得な結果だ。  そして、駅が目的地に着く。不破野はすぐに席を立ち、逃げるように去って行った。自分に出来た最初で最後の友達はこうして自分の元を去ったのだ。     それから自分は学校を休んだ。最早、完全にただのヤバい奴に成り下がった男は、さも自分が他のヤバい奴とは違うとでも言い訳するような行為を止めるに至ったのである。勉強も一時はやる気を取り戻したが最早必要ない。  これまでは喧嘩をした相手にも非があった為に相手も警察に垂れ込むなどはしなかったが、今回の相手は赤の他人からすると何も非が無い私学の生徒だ。ましてや自分はこれまで非行を行ってきた不良であるが為に、あの4人組の悪行を喋っても信じてくれる人はいないだろう。あの優男が自分達は急に暴行されて、名誉を汚される写真を撮られたと警察に訴えれば自分は少年院に直行だ。  しかし、その写真が自分の手元にないと知ったら、あの優男はすぐにその在りかを察するだろう。不破野楓が持っていると。そうすればあの男は不破野とその弟に容易に手を出しにくくなる。不破野姉弟はあの写真によって守られる事になる。  これでいい。自分に一生出来るかわからなかった同世代の唯一の友人が救われれば。もう勉強も青い青春も捨てきった自分にとってはこれ以上幸せな事は無いのだ。自分はそう考え、その後は特に何もする事無く、無駄に時間を過ごした。  そして、その日は不破野と最後に話をしてから1週間と4日と意外に時間が経ってから訪れた。 学校からある事に関する事情を聞きたいという電話が入ったのである。「自分は来たか…。」と思い、両親が心配する中、素直に学校の制服を着て学校に向かった。  学校に着くと駐車場にパトカーが止まっており、そういえばパトカーに乗る事になるのは久しぶりだなと考えた。職員室に行くと、教師達の目がこちらを向く。どれも困惑の目に満ちている。いつも自分が授業中寝ていた事を見て見ぬふりしていた中年の教師も、この日に限ってはこちらをガン見していた。    「いつも寝てて申し訳なかったです。」  自分がどこに行けばいいかを小柄で白髪がかなり多い女性の担任に聞いた後に、そんな事を職員室の全員に対して思いながら職員室から出た。  行く先は指導室ではなく、まさかの校長室だった。まあ暴行事件として取り扱われているから事態は重く見られているのだろう。  校長室の前に立ち、久しぶりに学校のドアにノックをするという行為を行う。  「どうぞ。入ってください。」  そう言われると自分は無言でドアを開く。中に入ると、そこには40代程の制服姿の警官が同様に立っている、60代のこの学校の校長や教頭と深刻な顔をして話し合いをしている。  そして、その奥のソファには女性の警官と何故か泣きじゃくっている不破野楓の姿があった。自分が不破野の姿に虚を突かれていると、不破野がこちらの姿を見て、一目散に走ってくる。    「累ぃッ!!」  初めて下の名前を呼ばれたと思ったら不破野は自分の体に抱き着いてきた。あまりにも急な事で困惑していると、女性の警官が近づいてきて不破野を憐れんで言った。  「あなたが東海林累くん?彼女、話を聞いていたらパニックになってしまって…。 無理もないわ…。彼女のこれまでの事を考えたら。ちょっと話を聞かせて欲しいの。いいかしら?」  困惑してて呆然としていると、不破野が体の締め付けを強めて催促してきたので、意味も分からず「はい。」と答えた。  女性の警察官の話によると、事態のあらましはこうだった。  市街地にある私立の名入成蹊高校で、ある男子生徒が女子生徒と交際を始め、一人暮らしの自分の家に連れ込んだ際に、彼を含んだ4人組の同校の男子生徒が女子生徒を集団で性的暴行し、その時の写真を材料に女子生徒に金品を要求したり、更にその友達を部屋に誘い込むように脅迫。  被害女性は5人を数え、定期的に主犯の男子生徒は被害に遭った女子生徒達を自宅に呼び寄せ、性的暴行を行っていた。しかし、つい最近、ある女子生徒が隠し持っていたレコーダーの録音で性的暴行の記録に成功し、それを事件の詳細と共にSNS上で発信。事件がネット上で大きく広まる事になった。  その後、他の4人の女子生徒が被害届を出した事も相まって、警察が捜査に乗り出す事になった。そんな中、不破野の元に警察がやってきたのは、事件を公にした女子生徒が他に被害者がいないかと聞かれた際に彼女の名前に出した為であった。    「君は彼女から事件の話を聞かされていた?」  その女性警察官の言葉に肯定の言葉で返答しようとしたら、ソファで隣同士に座り、片手を繋がれた不破野からかなり強く手を握られたので否定の言葉を警察官に返した。  その後、様々な質問を受けた後に不破野が被害女性ではなく4人組に脅されただけに済んだ事を知った警察官達は学校を後にした。女性警察官は自分に向かって、  「ちゃんと彼女の事を見てあげてね。今でも怯えてしまっているから…。」  という言葉を残して去って行った。  校長や教頭から担任から指示を仰ぐように言われると、不破野はお化け屋敷で怖がる子供の様に自分の腕にずっと掴まりながら歩いていた。職員室に入っても同じ状態だったので流石に面を食らったが、不破野に離れろと言っても無視されたので、担任から今日はもう帰って良いという言葉を聞いた時も同じ状態で聞くハメになった。  不破野が自身の荷物を教室に取りに行く際は、流石に同級生に見られるのを恥ずかしがったのか腕から離れたが、不破野が荷物をまとめている最中にクラス全員の目が自分に向けられていた。  そしてその目からは困惑や好機の視線が自分に浴びせられている事に気がついた。      「で?どういう事だ?」  学校を出て、しばらくしてから不破野に質問した。不破野は何も言わずに先を歩き、半ば業務連絡をする様に淡々と言った。  「君の家に行きます。」    その言葉に自分は「は?」と返すしかなかった。自分の家に着くと不破野はまた学校の時の様なか弱い女子の演技を始め、驚いた母は不破野から事情を聴いた。  不破野は彼女が4人の強姦魔に狙われた際に、通りすがりの自分が阻止してくれた事で交際する様になり、それ以降、不破野の申し出で4人から身を守る為にバイト先に通ってもらっていたというまるで騎士と姫の様な物語を繰り広げた。  母はその話を真に受け、自分の息子に対して涙と感動で溢れたまなざしを向けてきた。  不破野の感動話が終わりを迎え、彼女が家に帰るとなった時に自分は母の視線に耐え切れずに「送ってくる」と言って家を出た。  「不破野!」  追いついてそう言っても不破野は何も言わない。流石に説明が無さ過ぎると思って、彼女の肩を手を置いて引き止めたら睨みの視線を向けてきた。  「な…?怒ってるのか?」    「…うん。そうだよ。凄い怒っている。勝手に自己犠牲精神で私に相談しないであいつらをシメた事に。」    「いやでもさ…。」    「いやでもさじゃないよ!なんだよ!自分は騎士気取りか!そいうとこがキモいんだよ!」  急に不破野は自分の胸を叩き始めた。痛くはないが、かなり困惑していると、その腕が段々と止まって鼻をすすりだした。  「ありがとうね。でも今度はちゃんと言ってね。私はもう友達がいなくなるのに耐えられないんだから…。」    その言葉に自分は、ただ「ごめん…。」と返す以外なかった。  その後、落ち着いた不破野から近くの公園でブランコに座りながら、ようやく事の詳細を聞けた。まず、あの4人組についてである。警察からの説明の通りに、被害者の1人の女子生徒の告発によってネットで炎上。メディアも報道をしており、最早隠すことは不可能となったらしい。    「その告発した子が私が前から協力していた舞園さんっていう子。時々会ってたんだ。」  そこで、自分は雨の日に不破野が会っていたメイセイの女子生徒を思い出した。時々、不破野が携帯で連絡していたり、別な用事があると言ってたのはそういう事だったのかと納得できた。  「お前の家で言った前から進めていた計画と言うのはそれか、ダメそうと言ってたけども上手くいったのか。」    「…まあそんなとこ。舞園さんのおかげであいつらはかなり炎上した。見てみ?」  そう言うと、彼女はスマホでSNSの画面を見せてきた。 ♯メイセイヤリ部屋等のタグが付いたSNSのタイムラインには「クズ」や「人間じゃなくて猿」、「猿に失礼」などの過激な発言が飛び交っていた。ニュースでも取り上げられており、あの4人組の名前と住所はネット上で特定されて晒されている様だ。      「こうなると、君にシメられた事なんてどうでもよくなっているだろうね。」    「まあ、そうなりそうだな。」  全てが自分がやった事と関係なしに解決に向かっており、もしかして自分は余計な事しかしなかったのではないかと考え始めた。  「なんか全員包帯巻いてたりしてたらしいよ。」    「…ああ。」    「でも、それも何かあいつらがやらかしたんだろうと考えられて、君はあいつ等とは全く関係ないと思われているよ。でも、君、その事知らなかっただろうし、学校に来ないから仕方が無く『累がいないと私話せない!』って警察の前で泣き叫んで呼んでもらったんだ。」    「やめてくれよ…。」  不破野はふふっと笑うと、膝に抱えた鞄からビニール袋を取り出した。  「そして、君からもらった写真はこうした。」  受け渡された袋の中に入っていたのは、かなり細かく刻まれて再現は不可能そうな例の写真の屑だった。  「で…。」  そう言いながら、不破野は次はカバンから自分が渡したデジカメを取り出し、操作画面を自分の方に向けて撮影した例の写真を削除した。そして、自分にカメラを渡しながら言う。  「これで証拠隠滅だね。」  不破野は満面の笑みで言う。その顔を見ながら自分は質問をする。  「…怖くなかったのか?俺がこんな写真を撮った事に。」  無意味になったものの、やった事は人を殴り、その相手を辱める行為だ。過去には人を殴っても辱める事はしなかった。はっきり言ってしまえば。あの4人組と同じ様な事を自分はしたのだ。不破野はブランコを少し揺らしながら正面を向いたまま返す。  「そうだね。写真を貰った時は怖かったよ。私、君の事ヤバい奴じゃないって言ったじゃん。でもその時、違うと思った。」  不破野はブランコを揺らすのを止めて、こちらを向いて優しい顔をして言った。  「でも、一方でさ、君がこの時代にエロ本をコソコソ買いに行って、女子と上手く話す事も出来なくて、昔は勉強が好きで、実は読者家な事私は知ってる訳じゃん。だから、そのヤバさも君の一面なだけと思ったら怖くは無かったよ。」  その言葉に自分は嬉しくなった。人生で初めて、自分を怖がらない友人がいたのだ。そして、自らその友人を失おうとしてた事に今更背筋が凍る感覚を覚え、失くさなくて本当に良かったと安堵した。  「まあ、女子に急に下半身裸の男の写真を渡すのはどうかと思うけどね。」    「…すまない。」  そんな会話をして、2人で笑った後に、急に不破野が真面目な顔になってブランコに座る自分の前に立った。  「でもさ、もう人を殴ったり蹴ったりするのはお終い。君があの4人をシメた事実は無くなって、君はこれから好きだった勉強をやって小説を読んでたまにエロ本を買いに行くただの高校生になるんだ。約束してね。」  不破野の目は渉が過去の事を言う事を拒否した時と同じ強い信念を持った目をしていた。そこでやっぱり姉弟なんだなと思い、自分は頷いた。  「本当だね?約束破らないでね?」    「本当だよ。もう人に暴力は振るわない。…だからさ俺も一つお願いしていいか?」  そう言うと自分は不破野の前で立ち上がり、少し恥ずかしさを感じて言う。  「これからもバイト先行っていいか?」  不破野は目をパチパチさせて驚いた後に笑みを浮かべて言う。  「もちろんっ。」  もう夜は寒さを感じる季節となったが、この日だけはその寒さを忘れる程に体の中から湧き上がる温かさを感じる事が出来た。 十三、青い青冬  不破野が学校で自分の肩に掴まり続けた理由は次の日わかった。  登校時に合流した不破野と2人で教室に入ると、クラスメイト達のこちらを見る目が好奇心に満ちた目となっていた。  いつもと違う教室の雰囲気に自分は驚いたが、不破野は何事もないかのように席に着いた。自分も遅れて席に着く。そのまま窓の外を見ながらボケーとしてると、外見チャラついた感じの同級生が恐る恐るこちらに近づいて来た。  「あ、あのさ、あの例のメイセイの奴らを不破野守る為に追い払ったってマジ?」  …なんか変な話が伝わってるなと思ったが、不破野の方を見る、丁度目が合い、彼女は目をパチンとウインクさせた。それを肯定の意と捉えて自分は言う。  「ああ…。まあ…。」  男は驚いた後に興奮気味で言ってくる。  「マジかっ!俺あの中にいた田端ってやつと中学同じだったけども柔道で全国行く様なやつだったんだぜ!?」  誰だ?と思ったが、柔道使いと言ったらあの屈強な坊主頭の男子しかいない。結局柔道の技を出す事はなくその前に終わってしまったが、もし投げられてたら本気で危なかったのかも知れない。  そこで、朝のチャイムがなる。それでも男は話を続けようとしたが、  「席着いたらどうだ?」 と言うと、「あ、ああ…。」と恐る恐る席に戻っていった。    HRが終わり、一時限目の授業が始まると、自分はつい癖で机に突っ伏そうとした。そしてハッと気がつき、不破野の方を見ると、ジトッとした目でこちらを見ていた。  「わかってるよ。」  そう小さく言うと、自分は学校に始めて持ってきたバックパックから教科書と真新しい青い缶ペンを取り出す。そして授業を受ける姿勢になると、教師が二度見してきた。そりゃ驚くよな。自分だって驚いている。  そんな先生の驚愕を時間割が変わる度に見た後、昼休みに不破野と人気のない階段で昼食をしている際に、クラスメイト達に何をしたか聞いてみた。  「まあ君が呼び出されて学校に来る前にクラスメイトだけじゃなくて先生にも君のお母さんにした様な話をしてたかな。  そして彼氏の腕に泣きつく心に傷を負った女の子の演技をすれば、更に説得力が増すって話よ。まあ私の親のこと知らない同級生達の前でやったら流石に大袈裟すぎてウザがられるかなってやめといたけども。」  「なんで…、そんな事を…。」  「君が普通の青年になる為だよ。これで君は先生や同級生からの評価が変わった。」  「まあ、そのおかげで人生で久し振りに同級生男子に話かけられたが…。」  「そうだよ。なんで追い返しちゃったの?話続ければよかったじゃん。」  「チャイム鳴ってたろ?」  「君になら先生も注意しないって。」  そういうことじゃないだろ…。  しかし、あの同級生と話してみるのも悪くないなと思ったのも事実だ。  自分達が昼食を終え、席に戻るとあの男が再びやってきた。不破野と会話はこれまでしてきた事もあるのと、同性相手だった為に会話はスムーズに出来た。  これまで怖い男達と話をしてこなかった為か、ちょっと高圧的になってしまい、相手は終始ビビりながら話を聞いていたが。  それから徐々に自分の生活は変わっていった。チャラい男の名は田尻と言い、柄が良い訳では無いが、好奇心と人懐っこさがあった。そいつから、他の同級生との輪は広まっていったのである。  一つわかった事は、みんながみんな、別に誰かに暴力を振るう様な奴じゃなかった事だ。彼らの認識する楽しい事の範囲が広すぎて、若干公序良俗に反するお遊びをしてる時があり、自分はそれを引き気味に見ていた。しかし、そんな時、皆から一番公序良俗を逸していたのは東海林くんじゃんと言われ、何も言えなくなった。  女子とも少しだけ話す様になった。  不破野で慣らしていたとは言っても、そこはまだ異性であり、自分は不破野以外の女子と殆ど喋っていなかった為に、女子と話す時はかなり口数が減った。その姿を見られて、不破野に後で冷やかされるという事が多々あった。  先生の様子も変わっていった。これはどちらかというと、副次的な事ではあったが。  勉強に再び向き合う事になった自分は、不破野に教えをもらいにいったが、何故かその度に先生に聞きなよと言われた。  仕方が無く職員室に行くと、最初は部屋全体にピリリと緊張感が走っており、質問をした先生からも警戒や恐怖で応対されていた。  しかし、何度も質問に行くたびに、先生達も自分が本当に勉強の質問をしにきただけと理解し、中には質問後に「がんばれよ。」と言ってくれる先生も出る様になった。  不破野はその後、4人組の恐怖から解放されたが故か、相変わらずバイトにのめり込んだ。自分も出来るだけ彼女のバイト先に行ったが、だんだんと電車代と何かを注文するお金が苦しくなった。その為に、自分もバイトを始める様になった。場所は不破野のバイト先近くにあったあのコンビニである。  最初は不破野のバイト先と近すぎるなと思ったが、4人との喧嘩の際に色々お世話になったし、家の近くで働くと、中学時代の厄介な奴らの接客をする可能性があったので、丁度良かった。  バイトが終わると、不破野とまた駅までの道を歩いて帰り、貸した小説や映画の話、田尻達との話、その他雑多な話をした。  ある日、バイトのシフトも入っておらず、学校も修学旅行で休みになった日に不破野のバイト先を訪れた。不破野はバイト中だった為に小声で話かけてきた。  「行かなかったの?修学旅行?」    「ああ。まあ、金払ってなかったしな。」  恐らく修学旅行に行っても、孤立するという事はなくなっていただろう。  今では田尻とその友人の男子達と幾分か仲良くなっており、彼らの後ろをついていけばそれなりに楽しい修学旅行を送れた筈だ。  また、親に言えば、息子が他人とまともなコミュニケーションを取る様になったと喜んで後納の修学旅行費を出してくれたかもしれない。しかし、自分は修学旅行には行かなかった。  一番一緒に行きたい奴が来ないとわかっていたからだ。  バイトを終わらせると、不破野は赤いマフラーを巻き、ブラウンのダッフルコートを制服の上に身にまとっていた。スカートの下にもタイツを履いている。自分もマフラーまではしてないが、グレーのPコートを着ている。もう秋は終盤を迎え、冬の気配が近づいている夜だった。  「不破野。この後、ちょっと時間に余裕あるか?」    「ん?なんかあるの?」  不思議そうにしている不破野についてきてと言い、普段の道から外れたコースを行く。着いたのは住宅地の中にある神社で、自分はそこの階段を登り始めた。  「えー…。結構急だなあ。私今、足パンパンなんだけど!」  「まあまあ。」  不満を言う不破野を諌めて、階段を登って行くと、空いっぱいの星が眼前に広がっていた。  「おー…。凄いね…。ここまで星がはっきり見えるのテレビとか以外で初めて見た…。」    「まあ田舎で明かりが少ないこの神社だから見れるっていうのもあるからな。というか、お前の家の周りでも見れないか?」  不破野は空を見上げながら言う。  「あそこに越して来てから空を見る気力も余裕もなかったから…。そっか、こんなにはっきり見えるのか。」  本当は寝過ごしたあの時の様に電車で少し遠出したかった。でも、不破野は首を縦に振らないだろう。  彼女にはどこか遠くに行く時間は無かった。余裕があれば、今でも他のバイトを入れるぐらいには彼女は働く事に執着していた。それは、きっと、以前言っていた渉の為なのだろう。  だから、駅に帰る途中に立ち寄れるここに来たのだ。修学旅行の代わりと言ってはなんだが。  「まあ足が痛くない日に来たらなかなか良かったかもね。」  「…気に入らなかったか?」  その言葉に、星に見とれていた彼女は静かに返した。  「ううん。綺麗で素敵だと思う…。」  そう言いながら、不破野は目を輝かせながら、その光景をじっと見ていた。  自分はその時、その目に心を奪われ、彼女の目をもっと輝かせる場所に連れて行きたいと強く思うようになった。 十四、彼女が生きる理由  その後、自分は学校生活とバイト、勉強、そして不破野との会話で毎日を過ごす様になった。  バイトは最初接客の慣れなさ故に結構なポカをやらかした。しかし、店長と他の大学生のバイトの先輩が優しい人であった為に、3年の春頃には何も問題なく接客が出来る様になった。  勉強も最初は中学生の頃の復習から再開し、最初は頭にハテナが付いたまま終わっていた授業にも追いつくようになった。3年夏休み前の期末のテストでは、テストの順位が一桁代となった。不破野は2位であった。  「この学校真面目に授業聞いてれば一桁代楽勝だよ。」  その言葉を聞いて、自分が入った学校の偏差値の低さをその時改めて知った。田尻達クラスメイトは下から数えた方が早い順位だった。  そしてある日、自分はある事を試してみたくなった。そして、ある朝に親に頼み事をしてみたのだ。  「あのさ…。俺、大学受けたいんだけどいいかな?」  テレビのニュースを見てご飯を食べていた白髪が目立つ様になった父は、こちらを驚きの目で見ながら箸を止めた。母もキッチンで皿を洗う手を止めてこちらを見ていた。    その日のバイトの帰り、ジメジメとした夏の雨の中を不破野と2人で歩いている時に大学受験を受ける事を伝えると不破野はかなり喜んだ顔をした。  「本当!?がんばりなよ!君は地頭いいんだから!」  物凄い喜んでくれた不破野に自分は少し落ち込み気味に話す。  「まあ、だからこれから勉強に集中するから、近々バイトは止めるかもしれない。そうすると、ここに来る頻度も減るかもな…。」  不破野は少し黙った後に、再び元気よく言った。  「それでいいんだよ!もう無理に私に付き合う必要もないし、君は付き合いも増えたんだから!勉強にちゃんと集中するんだよ!」  そう言われると逆にヘコんだが、その場では「ああ…。」とだけ言った。  バイト先の店長は自分がバイトを辞める事を口惜しく思ってくれていた。 「東海林くん。真面目で仕事もちゃんとしてくれるからねえ…。惜しいけどしょうがないねえ。」  自分も初めてのバイト先ではあったが、こんなコミュニケーションを今までまともに取れなかった男を人の前に出せる店員にしてくれた場所だ。辞めるのは口惜しかった。 「大学受験を今から初めて、受かるのは至難の技だ。それでもがんばれるか?」  3年になって仲良くなった日本史の先生にそう言われたが、やってみない事にはと思い、その問いに頷きで返すと先生はエールを送ってくれた。  そしてそれから勉強漬けの毎日を送った。不破野のバイト先にも顔を出したが、帰る時以外はずっとそこで勉強をしていた。  しかも受ける大学は日本でも頂点に立つであろう大学。無茶だと言われても自分はある目的の為に、そこを受けるという信念を固めていた。そして、だんだんと不破野のバイト先に行く機会も減っていった。  受験は惨敗に終わった。しかし、それは事前に分かりきっていた事だった。自分は親に再び受験を出来る様にお願いをする。そして同時に再びバイトもして生活費に入れると言ったが、親はそれよりも勉強をしなさいと逆に塾を勧めてきてくれた。その時には、これまで迷惑をかけて裏切った息子を信用してくれる両親に心からの感謝をした。  そして自分は、不破野のバイト先に久しぶりに向かった。  受験前は無駄だとわかっていても追い込みをかけていた為に、不破野のバイト先に行く事はなかった。学校でも、休み時間は参考書を読み、昼休みはパンを手に持ちながら片手に参考書を持っていた。不破野も空気を読んで、その時は話をかけてくる事は無かった。  自分が夕方にバイト先に着くと、こっちの姿を見た不破野は小さく手を振った。すると奥の方から、50歳くらいの背の小さい女性が不破野に声をかけた。  「楓ちゃん。もう上がって良いよ。」  「え?でもまだ10分ぐらいありますよ?」  「いいのよ。今日で最後だし、この3年間がんばってくれたんだから。」  「…はい。ありがとうございます。」  不破野の声は少し涙声になっていた。  制服に着替えた不破野はどうやら今日がバイト最終日だった様で、スタッフの色々な人達に挨拶をしてきてから店から出てきた。  久し振りに歩いた駅までの道を歩きながら、不破野が話し出す。  「もう卒業だね…。思えば早かったね…。」  「そうだな…。今年は受験もあったから長い様でかなり短かった。」  「あ。そういえば結果どうだったの。」  自分は手と首を横に降る。  「まあ、分かりきった事だったがな。…今年も受けようと思う。」  「本当!?がんばれー!きっと君ならもう一回やれば行けるよ!」  「どうだろうな…。不破野は?卒業したらどうするんだ?」  不破野は少し何かを考えていたのか、間を開けてから返答してきた。  「私?あぁ…。そうだね。市街地にある会社で事務職に決まったよ。4月1日からだけど、色々入り用が出来たから本当はバイトをギリギリまでやりたかったけどもここまでにしとこうかなって。」 「そうか。じゃあ、一応時々は会えるか?」  その言葉に不破野は何も返さなかった。そんな彼女に言葉をかけようとした時、なぜかとてつもない不安に襲われた。不破野が少し先行して橋の入り口に立った瞬間、傍から人影が急に現れた。思わず、不破野の体を思い切り引き寄せる。人影の正体は男で、手には何か太陽の日で反射している物を持っている。  その顔には見覚えがあった。髭を生やして目はギラギラしているが、あの4人組の1人の優男であった。そして手に持っていたのは、銀色に輝くナイフだった。  「写真はどうした!?」  男は目を血走らせながら言った。  「消したわよ!もう無いわ!」  咄嗟に不破野が言ったが、男は逆上して向かってきた。  「嘘つくんじゃねえよ!!」  不破野を後ろに下がらせ、咄嗟に男のナイフを持った手を掴む。しかし、ここ最近は受験の勉強続きで体が完全に鈍っていた事や、不破野の約束が頭に浮かび、咄嗟の反撃も躊躇してしまう。なるべくナイフがそれ以上押し込まれない様に耐えるが、男は段々とナイフを近づけてくる。  そこに不破野が男の後ろに回り込んでバックを振り回して頭に直撃させた。軽そうに見えたバックだが、意外と効いた様で男は橋の欄干に体をぶつけ、ナイフもその拍子に落ちた。  自分はその機を逃さず、ナイフを男の反対側に蹴飛ばした。男はそれでもまだ向かってこようとしたが、不破野がその直後に大きく叫んだ。  「助けて!誰か!」  大きく手を降る彼女に気づいたのか、一台の車が止まった。すると、男は不利になると考えたのか、そのまま逃走。車から出てきた中年の夫婦は「どうしたんだい!?」と不破野と自分の様子を心配していた。    それから夫婦が警察に連絡をしてくれて、事情を聞いてもらった。中学生の時に会うと自分に疑いの眼差ししか向けて来なかった警察は今や急な事件に巻き込まれた被害者として自分を扱ってくれた。  夫婦の助けもあってか、事情を聞いた警察は自分達に後で経過を教えるからと連絡先を聞きナイフを回収してその場から去っていった。夫婦から安全の為に送って行こうかと言われたが、そこまでされるのは申し訳無かったので丁重に不破野と断った。  その後、地元の駅に着くと自分は心配になって不破野を家まで送る事にした。不破野も話したい事があるからと了承する。  先程の攻撃でカバンは大丈夫かと聞くと、不破野は中身を開いて見始める。中には「オフィス用マクロ大全!」という分厚い本が出てきた。成る程。これで殴られたらそりゃ痛い。  「学校からの借り物なんだけどなあ…。」  そういうと、彼女はちょっと角がへこんだ本をさすっていた。もう仕事用の勉強始めてたのかと言うと、彼女はまあねと笑顔で返してきた。  駅からしばらく歩いて彼女の家が遠方に見え始めた時に、不破野が何か覚悟を決めたかの様に少し息を吐いてから話始めた。  「さっき、反撃しようとしなかったね。私が余計なこと言ったから…?」  「…まあそれもあるが、気にする事はないさ。俺もお前も無事だったんだ。俺もやり返してたら前みたいに徹底してただろうし。」  「…ありがとうね。…君はもう大丈夫だね。」  その言葉を疑問に思った自分は彼女に問いかけた。  「何が大丈夫なんだ?」  「もう君は普通の青年って事だよ。大学受験に勤しんで、学校に話す友人も出来て、暴力には暴力で返さない。」  「そうか?自分ではまだ大学受かってもいないから何も変わってない気がするぞ」  「変わってるよ。変わったんだ。そして、大学に受かったら大学生活を心おきなく楽しんで、素敵な恋人を作って、良い会社に入って趣味を堪能して結婚するんだ。」  「随分具体的だな。それに今はそんな典型的な幸せ以外にも幸せはいっぱいあるさ。だからさ、俺が大学受かってもまた会ってくれないか?」  その場の空気が止まる。不破野は急に黙ったままだ。  「なんか俺キモかったか?」  すると、不破野はふふっと静かに笑い始め、少し先行して歩き出した。今の自分からは不破野の後ろ姿しか見えない。  「そこは変わらないんだね。違うよ。そのネガティブな所も直さないとね。でもそれは私じゃなくて自分か他の素敵な人に直してもらいなよ。  「会ってくれないのか…?」  不破野は少し間を置いて静かに話始めた。  「私さ。前に怖い事あげたじゃん。覚えてる?」  自分は「ああ」と返す。  「その中で渉の事を言ってたけども、多分それはきっと渉を利用して私自身を守ろうとしてるんだよ。」  急な意図が理解できない言葉に自分は聞き返す。  「…どういうことだ?」  不破野は少し重い口調で語り始める。    「私、母親が逃げた時に、渉をどうにかしなきゃと思って色々がんばった。そうしないと私自身が折れそうだったから。  でもこの3年間ね。渉を守らなきゃという気持ちと私はあの母親とは違うって気持ちがどっちもあったんだ。それが混ざり合って、渉が立派に育ってくれた時に私はあの女と違うって証明出来るんじゃないかって思う様になってた。」  自分は少し驚いたが、黙って不破野の話を聞いていた。  「だから殆ど毎日バイトのシフトを入れても大丈夫だった。勉強も眠気に勝ってがんばれた。同世代が怖くても軋轢を産まない様に必死に仮面を被った。だから過去がバレそうになった時に渉がどうなるのか本当に怖くなった。私自身が被害受けそうだったのにおかしいよね。」  不破野の鼻をすする音が聞こえた。  「でもさ。君と会ってから実は凄い楽しかった。同年代の友達が久し振りに出来たし、凄く純粋で私のパパの事知っても変な目で見ないでくれた。お蕎麦屋さんで一緒にご飯食べた時嬉しかった。星が見える神社も探してくれたんだよね。ありがとう。君とバイト先に言ってた時、私は中学生の笑ってた時に戻れたんだ。」  「なら…。」  自分が喋ろうとしたが、不破野はその声を止めるかの様に話を続けた。  「でもダメなんだ。私、何回かもう良いんじゃないかって思い始めてるんだ。渉も無理しないでって言ってくれる。私も君と卒業後に会いたいなって思い始めてる。 でも…。そう思うたびにあの女が思い浮かぶんだ。そして、逃げるんだねって中学生の私が言ってくる。そうなると、足がすくむんだ。君がバイト先に一時的に来なかった時、実はホッとしたんだ。私は君が来なければ逃げないで済むって。」  不破野はそう言うと、くるりとこちらを振り返った。  目には大粒の涙が流れている。しかし、顔は笑顔を作っていた。  「だからね。もうここでさよなら。  私はもう普通に戻れそうにないから。こんな女といたら東海林くんも不幸になっちゃうよ。ごめんね。」  自分は立ち去る彼女に何も言えなかった。バイト先にただ不破野に会いたいという理由で通ってた自分が彼女を苦しめていたという事にショックを受けて頭が真っ白になっていた為だ。  どうやって帰ったか、あまり記憶は無かった。ただ母親が警察から連絡が来て、あの優男を確保されたと言っていた事は覚えている。写真はこの世に存在しないけど彼にはあの恥としか思えない写真を撮られた記憶はある。  あの襲撃に暴力で返さなかった自分を不破野はまともになったと言ったが、違う。あれは自身のまともじゃない行動が返ってきた自業自得な結果だ。自分はまだ、まともになんてなれていない。だから、まだ去らないでくれ不破野。  その夜は、そんな事を考えながら、再び彼女に会えるであろう卒業式の日に話しそうと思い、深い眠りについた。  卒業式当日、自分は不破野の姿がどこにも無いことに気がついた。  「累っち!?もう卒業式始まるよ!?」  就職先が決まり安心しきった田尻の制止も気にせず、自分は不破野の姿を探す。  どこだ不破野!?まだ俺の話をちゃんと聞いてもくれてないだろう。勝手に自分だけが納得してくれるな。そう考えた時に不破野が借りていた本を思い出す。図書室は今日開いてないから、先生に預けたのか?そう思い、職員室へと走る。担任の元へ早歩きで近づくと、久し振りに恐怖した顔でこちらを見てきた。  「不破野?ああ。今日、この本を渡しに早朝来たぞ。」  そう言うと、あのオフィスマクロ大全をこちらに向けてきた。角が昨日の出来事でへこんでいる。 そして担任は続けて言う。  「卒業式には出たら良いんじゃないかと言ったんだが、県外の社員寮に無理言って早く入らしてもらった様でな。もう荷物はあっちに送って、今日行くらしいぞ。」  「いつ!いつ来たんですか!?不破野!?」  「今朝の7時前頃かな…。」  自分はその言葉を聞いた瞬間、走って外に出た。後ろで担任が何かを言っているが、それどころじゃない。まだ、出発してないかもしれない。そんな僅かな期待を求めて自分は学校の校門を走り抜けた。 十五、不破野楓(26歳) 「不破野さん。消灯お願いね。」 「はい。承知しました。お疲れ様です。」  残業が出来なくなって久しくなったが、私はつい癖で遅くまで仕事をしてしまっていた。PCの電源を切り、消灯をする。最早慣れきったカードキー式の施錠をして、会社が入っているビルのエレベーターに乗る。  エレベーター内の鏡に写った自分の姿を見る。ライトが暗いせいもあるのかもしれないが、顔には化粧でも隠せない程の疲れが出ている。  「酷い顔…。」  今朝、弟の渉から仕事にも慣れてきたとの電話が入った。弟が入った企業は食品会社でもホワイトで有名な誰が聞いても一流だと思われる企業だ。初任給が私の初任給とはかなり違くて驚いた覚えがある。 「姉さんありがとう。もう俺、大丈夫だよ。」  その弟の感謝の電話に最初は達成感と高揚感を覚えたが、しかし通話後すぐに罪悪感とそして喪失感を感じた。  高校卒業後、私は県外にある企業の事務職に就職した。弟の渉を一人前にするという目的の為に仕事に打ち込んだ。休みの日も許されている副業に勤しみ、渉の学費を稼いだ。一見すると弟の為に必死に働く家族思いの姉に見えるだろうが、それは違った。  私は私が折れ続けない為に弟に立派な高校、大学そして一流企業という道を歩ませたのだ。自分勝手この上ない人間だ。だから、私は弟に罪悪感を持ったのだ。  そして、私はその目的を果たした。しかし、私自身青春を全て捨てて、趣味もなく、ずっと弟という存在に依存し続けてきた為に、残ったものは仕事と目的を失った人生だけだった。  「…これからどうしよう。」  目的を達成した私の眼前にあったのは深い霧で、その先は全く見通せなかったのである。  ビルから出ると高校生の男女2人が仲良く歩いていた。そして、高校2年生の時にあった男子の事を思い浮かべる。彼は地元では有名な不良だったが、あの時代でも珍しく密かにエロ本を買いに行くという面白い事をしていた。  父が人を殺め、私と渉はその事によって、母から見捨てられて、父の故郷に逃げた。誰にも知られてはいけない誰も信用してはいけない。信用して過去なんて話そうものなら、私達は居場所を失う。そう考えていた。  しかし、その男子は私達の過去を知っても、決して対応が変わったりしなかった。それどころか私達の窮地を助けてくれようと奔走してくれた。それで今度は彼が窮地に陥るようになった。  メイセイの集団性的暴行事件で実は彼に隠していた事がある。彼に主犯の弱みとなった写真を渡された後に、私は舞園さんに頼んで、あの4人とコンタクトを取れるように頼んだのだ。  録音で証拠を取ろうとしたのは元々、私だったのだ。それ程、私は彼の暴行が明らかになる前になんとかしようと焦っていた。彼を助けたい気持ちでいっぱいだった。  それまで告発しようとだけしか言ってこなかった私に舞園さんは驚いていた。当然だ。結局、私は彼女達が告発でリベンジポルノされる危険性を知りながらも、ただ告発しろと言い続けていた身勝手な女だったのだから。  ただ、急に自身の身を差し出した理由を聞いてきた舞園さんに、私は友達を助けたいと言った。すると彼女はあの部屋でされる事は凄く嫌な気分がするからと言って、証拠取りを請け負ってくれた。  彼女とは事件後も連絡を取った。彼女は助かったのは、私が告発を勧めてくれたおかげと言ったが、私は納得できなかった。その後、彼女から何度か男性への恐怖を払拭できないという相談に乗った。今ではそれも彼女は乗り越え、かなり良い夫と1人娘と共に幸せに暮らしている。  私が彼にその事を隠していたのは、彼のあの必死な行動を無駄にして、私自身がその身を売ろうとしたのを知った彼の失望する表情を見たくなかったからだ。  当時、彼に言わなかった私が恐れていた事の3つ目は彼から嫌われる事だった。それ程までに、彼の存在は私の中で大切な物になっていた。  彼が渉から私達の過去を聞き出そうとした時、私は渉の手を引きながら涙を流してた時にその事に気がついた。  だが次第に私は彼がいる状況に段々と私は恐怖していった。  あの時感じていた友情が彼と過ごす中で何か違うものに変わろうとした時、私は渉を立派にするという目的を放棄して良いかもと思い始めていた。  その時、私は自分に母親の影を見た。自分の幸せの為だけに辛い事から逃げた、あの女みたいになるのではないかと思い始めたのである。その考えが頭に浮かんだ時、母親に逃げられた時の中学生の私がこちらを睨んだ様な気がした。  私は会社向かいにあるパーキングに歩き始める。  彼は幸せな家庭を気づいているだろうか。過去に彼に話した「大学に受かったら大学生活を心おきなく楽しんで、素敵な恋人を作って、良い会社に入って趣味を堪能して結婚する」という彼から典型的と称した幸せ。  あれは、私が望んだ幸せだったのだろう。父が特に何も起こさず、元いた中学をそのまま進んだら私が経験出来たかもしれない幸せだった。  26歳ならまだ大丈夫だと言う人もいるだろうが、私は男性との出会いも碌に知らない。それどころか、女の友人も少ない。過去のトラウマが今でも残り、同じ年代の人と話す時に、今でも恐怖を感じるのである。  そして今、私は人生の楽しみ方を知らない。自分が何をしたいかも失った。自分がわからない。  パーキングについた時に、そんな考えが反芻してクラクラした。  大人になった今、気がついた事だが、私が最後に私でいられたのは高校生の時が最後だったのだ。そしてその最後の自分でいられるチャンスを彼を自ら突き放した事で失った。  そう考えた瞬間に私は思わず車の前の地面に私はへたり込んだ。  私は気がつかぬうちに空っぽになり、もう取り返しがつかない状態になっていた。  座り込んで、少し時間が経った。  スカートが汚れる。立ち上がれ。そう脳から指令が届いた。  へたり込んでいる私に手を貸してくれる人なんてもういない。それは私がもたらした結果だ。  そう考えていたら、後ろから急に男性の手が差し出された。  少し振り向くと男性は高そうな縦のラインが入ったスーツを着てるのがわかった。  「大丈夫か?」  少し距離が近い人だなと一瞬思ったが、親切な人にそう思うのは流石に失礼だと思い、手を借りずに立ち上がろうとすると、腕を掴まれて立ち上がるのを助けられた。  「うわぁっ!」  変な声を出してしまった。  流石に距離感が近すぎておかしいと思い、若干パニックになりながら男に言う。  「え?あの?ちょ!?」  振り向くとそこには、「彼」が立っていた。 十六、マタ逢ウ日マデ  自分は高校の卒業式をすっぽかし、駅に向かって走っていた。  県外に行くにもあの駅で電車に乗っていかないといけない。そして不破野の家に車は見当たらなかった。彼女の祖父と祖母が送ったりはしないとなるとやはり出発は駅になる。  「間に合え!」  心の中で叫んだ。こういったのは間に合うべきなんだ!小説や映画ならそうなんだ!  駅に息を切らせながら着くと改札に不破野の姿はない。  じゃあ、駅前か?若しくはホーム?それとも?  「姉はもう行ってしまいました。」  聞き覚えのある声が後方から聞こえてきた。  中学校指定の学ランを着た不破野渉がそこにいたのである。  「渉!不破野は県外のどこに行ったんだ!?」  そう慌てて聞いたが、渉は首を横に振る。  「東海林さん。多分あなたが今会いに行っても姉さんは変われないと思います。」  渉の冷静な声に自分は不破野の言葉を思い出す。  中学生の頃の私が見ているという言葉を。  不破野の言葉通りだと、彼女は自らに呪いを課してしまっている。では、その呪いが解けるのはいつなのか。  「なあ。不破野はいつになったら解放されるんだ?」  「おそらく僕が独り立ちした時です。具体的に言うと、大学を出て企業に就職するまで…。」  …と言うことは、約8年間、不破野は過去の自分の呪縛に囚われる事になるのか…。  その時、自分は何もする事が出来ないのかと歯を食いしばった。  そんな様子を見てか、渉が再び声をかけてくる。  「東海林さん。姉を助けたいですか?」  「なんか策があるのか?」    「はい。8年待ちます。」  自分は淡々と渉が出した提案に少し驚いた。しかし、あの信念に満ちた目を渉がしていた為に、それが本気だと言う事がわかった。  「僕は姉がもう自分の手助けが必要ないと言えるまで立派に自立します。僕も姉が自分はただ弟を利用していると思ってそうなのが気にくわないんです。僕自身が姉を助けたいと思っている事を考えてない事に腹が立つんですよ!」  渉は憤りながらそう言った。  最初はただ、気が弱そうな不破野の面影がある少年と思っていたが、そうじゃない事がわかった。こいつはこいつで1人の立派な人間だ。そして渉は聞いてくる。  「東海林さん。僕は1人だけでもやるつもりです。しかし、以前言っていた通り、本当の意味で姉を助けられるのは、姉の心を開いた東海林さんだけです。  しかし、8年は結構な時間です。僕からは無理には言えません。どうしますか?」  渉は深刻な顔で聞いて来た。  無論だよ渉。そんなの一つに決まっている。  大学受験の勉強は寝食を忘れる程に集中していた。  8年後は8年のタイムリミットでもある。もう一年浪人となるのは流石に避けたい。全てを勉強に費やす。あの星を見ていた時の不破野の目を思い出す。そもそも大学を受けたいと言い出したのも、まともな職を得て、彼女と遠くに行きたかったからだ。  無事に国内トップの大学を1年目で合格したが、これはまだゴールじゃない。自分は大学でコミュニケーション力を身につける事と、社会に出た時に活用できる術を身に付ける事を心に決めた。    サークルに入り、授業はちゃんと受け、飲み会に出席し、自主勉強をする。飲み会を自ら開催する。人脈を広げる。  はっきり言って、元のコミュ力が低い自分には最初は地獄だった。しかし、そんな時は電車の中での不破野との会話を思い出す。今度彼女と会った時には、もっと上手く話せるようになるんだと考えたら乗り越えられた。  ゼミではプレゼン力やリサーチ力を高め、自身の知識と技術を高め続けた。教授にレポートを投げられて返された事もあった。しかし、そんな時は不破野の「君は普通の青年になるんだ」という言葉を思い出した。俺はもう暴力を振るう男じゃない。  そして、次第に実力がつき、教授から企業に推薦されるまでになった。 コネ作りもしっかりした。大手企業の先輩と太いパイプ作りをする為の紹介を在学中の先輩からしてもらったり、インターンで企業から目を付けられるように自分の能力を最大限に発揮した。フラフラになりながら帰宅した後は、不破野と蕎麦屋に行った事を思い出し眠りについた。  晴れて卒業して、ホワイト企業として名の知られる大手電機メーカーに就職した後は、成果を出すために効率的な業務をし、アイディアを広げる事に余念がなかった。  大学時代も社会人になっても言われた事がある「生き急いでいる」と。  確かにそうだった。最終的に成績は首席で人脈はかなり広く、会社では必要とされる人材となった。かつて自分が言われたがった「優等生」という言葉をかけられた事もあった。  だがそんな事はもうどうでも良かった、1人の恩人、友人、そして好きな人を今度は助ける事だけが自分の望みだった。  そして、今、その人に8年ぶりに会い、そして道路にぺたんと座り込んでいたのを助け起こした所だ。  「東海林くん?」  キョトンとした顔で不破野はこちらを見てくる。顔に疲れは見えたが、ずっとお前の事を思い出してたから、すぐにわかったよ。  「久しぶりだな。不破野。」  「なんで…。私…。」  不破野は困惑していたが、自分は、まず言いたかった事を言う。  「何が市街地だよ。働いてるの県外じゃねーか。」  「ごめん…。でも、なんで私の働いている所わかったの?」  不破野は不思議そうにこっちを見てくる。  「お前を8年間心配し続けた大学の後輩に教えてもらったんだよ。僕も目標を達成したんで、迎えに行ってくださいってね。」  「…渉?」  「そうだ。」  「なんで…。」  自分は不破野の目をしっかり見ながら言う。  「昔言ったよな。自分が折れない為に渉を利用してるって。違うよ。そうじゃない。利用してたら1人の人間をトップの大学まで通わせて、大企業まで行かせるなんて無理だ。」  「でも、それは私がそう強いたから…。」  「それも違う。はっきり言って、渉が歩んだ様な道を俺も同じ様に歩んできたが、あんなの自分から望んでやんないと、ただただ辛い。渉が自分の意思でがんばったんだ。お前はそれを助けたんだよ。強いたんじゃない。」  これは渉から預かっていた事付けだった。あいつの計画はようやく完遂した。そしてここからは自分の目的だ。  「不破野。青春を取り返そう。高校時代だけじゃない。中学時代も、そして今日までの分も。」  不破野は目を丸くした。目は赤くなっている。  「でも、実は私…。東海林くんに隠してた事が…。」  「ああ、メイセイの事件の時、お前が証拠を取りに行こうとした事だろう。舞園さんに聞いたよ。」  流石にその言葉に不破野は戸惑っていた。  「社会人2年目の時に、渉に連絡が来たんだ。  お前がずっとあの時の事気に病んでて心配だって言ってた。お前昔、俺の事、ナイトとか言って冷やかしたけども、ナイトはお前だよ。  性的暴行をする男達から女性を解放し、自分も辛かったのに弟を養う為にめちゃくちゃ働いて、人生を諦めていた男を救ったんだ!もうお前は逃げた母親と違うんだ!お前がなんと思おうと!」  そこまで言って息を吐いた。自分でも驚くぐらい興奮していた。  不破野は目から涙を流していた。高校時代はそういえばよく泣いたよなと思い出す。目をこすり、溢れる涙が止まらないと分かると、不破野は顔を覆った。  しばらくしてようやく落ち着いた不破野は不安そうに言う。  「でも、私。昔以上に何もないよ?青春を取り戻そうとしたって、私と一緒じゃつまらないかもよ…。」  その言葉に自分は吹き出した。  そして言う。  「お前、昔俺の事ネガティブって言ったけどもお前も大概だよ。」  「なっ!」  そうそれでいいんだ。その反応で。  時間は巻き戻せないが心だけはちょっとの間なら戻せる。大人になって高校よりも辛い事が増えたから戻る時が必要なんだ。何より、何も無かった俺に何かをくれたのはお前自身だ。  「不破野。昔のお前はまだお前の事を睨んでるか。」  不破野はハッとした後に笑顔になって首を横に振った。  「じゃあ、これからも俺と一緒にいてくれ。」  その言葉を聞いて、不破野は顔が真っ赤になっていた。そして、自分も顔が熱くなっているのが分かった。もう年齢が年齢だ。この言葉に含まれる意味はもう昔の様に軽い物ではない事は自分でもわかっている。  しかし、これは8年間ずっと溜めていた。卒業式の時に言えなかった言葉だ。  不破野は流石にパニックになりながら言った。    「流石に!ちょっと考えさせて!ちょっと頭がぐちゃぐちゃで…。」  まあそうだよな…。ちょっと性急すぎた…。  2人の間に変な空気が少し流れたが、その後、自分は取りなす様に言う。    「ところでさ、有給って取れるか?溜まってるだろう。好きな所に行こう。」  不破野は少し驚いた様子を見せたが、少し笑みを含んだ顔をして言った。  「聞いてみないとわかんないけど…。というか東海林くんは大丈夫なの?」  自分は自身のある笑みをして不破野に言う。    「大丈夫だ!」  その為にがんばってきたんだ。あの神社から見えた星よりも、あの蕎麦屋よりも、同級生が行った修学旅行よりも更に君の目をもっと輝かせる事が出来る様に。  そんな事を思っていると、急に「グー」という音が鳴る。不破野はお腹に手を当てた。その顔は高校生の時に寝過ごした駅のホームの時の様に少し恥ずかしげだった。  不破野は申し訳なさげに言う。  「その前にお腹減ったかな…。実は夜ご飯まだなんだ。」    「いいぜ。奢るよ。なんでも言ってくれ。」  「本当?お寿司も?」  「回らない高級な所でも大丈夫だ。」  「焼肉も?」  「目の前で高いのを焼いてくれるとこでも行ける。」  「満漢全席も?」  「…ここら辺にあるかどうかわからないが見つかれば!」  そこで、不破野はニヤりと笑みを浮かべて言った。  「…じゃあ。私達がよく知ってるハンバーガーを食べたい。」  自分は吹き出し、不破野も笑っていた。  その時、自分達はやっと高校時代の続きを再開出来たと思った。 十七、エピローグ  その後、私達は見覚えのあるハンバーガーショップでテーブルにハンバーガーのセットとタブレットを置きながら談笑していた。タブレットにはレジャーサイト、注目の映画、話題になっている小説、美味しいグルメが次々と映し出される。  東海林君と私のこれまでの話や渉の話、舞園さんの話、これからやりたい事。会話は尽きる事は無い。  先程まで私にあった不安感はどこかに消えている。  夜が更けても高校生の様にはしゃぐ2人の会話はまだまだ終わりそうになかった。
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