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時間ギリギリにライブ会場のミニシアターに着いたため、後方の席に座ることとなった。前列の方は、観客で埋まっているが、啓太と貴司のいる後方の座席はチラホラと空席も目立つ。
ステージの明かりも届きにくく、ポップコーンと煙の臭いがかすかに漂っていた。暗闇の中、隣同士の席に座る距離は、二人並んで歩くよりも近く、そして遠く感じた。
80年代を彷彿とさせるマイケルジャクソンのナンバーで幕が上がった後も、啓太の脳内はレモンシトラスとシャネルの5番の香りでいっぱいだった。ビリー・バッドを聞きながら、啓太は本や雑誌を繰り返し読むことで、自分の記憶に染み付いたマリリンの人生を無意識に回顧していた。
スクリーンの中で男たちを骨抜きにし、思いのまま虜にしていたマリリン。現実の彼女は、幼少のころから親戚の家を転々とし、性的虐待も受けていたと言われている。その時の体験が間違いなく彼女の人生に永遠の影と栄光をもたらしたのだろう。ビリー・ワイルダーやアンディ・ウォーホルにインスピレーションを与え、ケネディやジョーディマジオに愛されながらも彼女は生涯自分を形作る複雑なコンプレックスから脱出することはできなかった。
曲目はいつの間にか、リッキー・マーティンのヴィヴァラヴィーダに変わっていた。
啓太は、必死で貴司と涼介に正樹、そして生まれ故郷の遠足で毎年行った竜王山や、四人でよく泳いだ川を思い浮かべようとした。貴司が女の子からチョコレートをもらった話や、合宿で見た星空を思い浮かべようとした。
それでもマリリンの残像はあまりに強烈で、都会的で、刺激的で、洗練されていて、この上ないほど官能的だった。
ふとした拍子に貴司の手が触れた。啓太はすぐに手をひっこめた。子どもの時と違って、大きく骨ばってきている。それでいて、滑らかですべすべとしていて、居心地の良い温度でとても清潔だった。マリリンの手はどんな具合だろうか、と考えた。きっと、もっとふっくらとして、啓太の手に収まるちょうどいいサイズに違いない。わずかにお白粉とハンドクリームの匂いがするのだろうか。それともシャネルの5番の香りだろうか。西洋の墓地をイメージした舞台で、フランケンシュタインやドラキュラが繰り広げるロックパフォーマンスは、もはや啓太の耳には入っていなかった。
頬が冬の日のリンゴのように紅潮し、視界がボウっとかすんだ。ピンク色の温かく優しく、
その癖にどこか卑猥でいやらしい霞が啓太の頭に立ち込めるようだった。甘い香水の香りが鼻腔を満たし、脳髄を麻痺させていった。生まれて初めて知る官能の味わいだった。
パチパチという大きな拍手で我に返った。啓太も漫然と手を打ち合わせる。
「普通にうまかったな、あの人たち。」
「あ?ああ、そうやね。」
感心している貴司を横にして、上の空でいた自分が情けなくなった。
「お前、さっきの金髪美女のこと考えとったっちゃないとや?」
「は!?ち、違うし・・・」
貴司はにやにやと笑っている。啓太は生まれて初めて、貴司に羞恥と若干の嫌悪を感じた。
女の子のことで、貴司からからかわれたのは初めてだった。そして、そんなことでからかわないところが好きだった。彼の言う通り、女の人のことばかり考えているのも、親友に勝手に幻滅しているのも、うんざりだ。啓太は、早く正樹たちと合流したかった。そうすればまだ、気持ちも紛れる。
会場の外に流れる人の波についていくように、啓太と貴司も外へと出ていった。
「うわ。なんかすごい天気やな。」
コンサートの前よりも、天気が崩れ始めていた。雨こそ降り出してはいないが、手の届きそうなほど近くまで、雲が厚くどんよりと立ち込めている。周りの人達もきょろきょろと空を見回している。ずっとその雲を見つめていると、息苦しくなるような圧迫感を覚えた。
「楽しかった、あいつらまだ終わってないやろうな。」
「多分ね、どっかで休憩する?」
「そうやな、土産物屋でも見ようや。夜になったら、混むやろうし。」
「うん、おっけー。」
ハリウッドコースターの反対側にある、映画館を模した土産物屋に向かった。まだ夕刻というには早く、午睡を貪る時間帯であったが、土産物屋にはすでに大勢の人でにぎわっていた。
人の波に身をまかせるようにして、二人は進んだ。時折、手が触れ合う気恥ずかしさを隠してくれる人いきれが啓太にはありがたかった。ずっとこのままこうしていたい、と思った。人の波に流されながら、誰にも気づかれないように一番近くにいたい、と思った。
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