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どこから、それがやってきたのか誰も気づかなかった。しかし、わかるものなどいるだろうか。霧がどこからやってくるか、ということは。後からその時のことを振り返った啓太は、今でも思うことがある。貴司に聞いても曖昧に微笑まれるだけだが、晩夏の昼下がり、曇り空の日に霧が立ち込めるはずなんてない、と。  しかし、それは確かに霧だった。かすかに桃色を帯びた霧だったように思えるのは啓太の勘違いだろうか。どこからともなく現れた霧は次第に濃くなり、隣の人の残像さえ見えなくなった。どこかでこの霧を見たことがあるような気がした。啓太は、貴司の袖をぎゅっと握った。離れていってしまわないように。この霧に食われてしまわないように。  そして、何の前触れもなく霧がスーッと晴れていった。啓太はきょろきょろと辺りを見渡した。あれほどごった返していた人たちが跡形も無く消えてしまった。貴司の袖を握っていたはずの手も空をつかんだ。圧倒的な恐怖が啓太を襲った。霧に包まれるよりも、自分ひとりだけこの世界に残される恐怖の方がずっと大きかった。啓太は叫びたかった。叫んでもこの世界では誰も聞き取る人がいないことを思うと、叫べなかった。 完全なる静寂の世界にコツという物音がかすかに、そして静かに響いた。乾いたレンガを真っ赤なハイヒールが叩く音。音が伝わってきた石畳の道をふと見ると、啓太は違和感を覚えた。舗装された石畳の道が、確かに古くなっている。苔むし、風雨にさらされている様子は本物の石畳だ。映画館も蝋人形館も、確かにテーマパークのものだったが、全て本物だった。映画館を模した土産物売り場には、本当にチケット売り場ができていた。風に吹かれて舞い踊るハンバーガーショップの隣に陳列されている雑誌は、1950年代、全盛期のベティペイジが表紙を飾っていた時のものだ。まるで、一秒前まで多くの人で賑わっていたかのような雰囲気だ。 コツコツという音が次第に大きくなる。人っ子一人いないなか、街道の向こうから誰かが歩いてくる。音の無い世界に唯一響いているタップは、片足だけを6mm切った赤いローズレッドのハイヒール。コルセットできゅっと締め上げた魅惑的なウエストに、芍薬のように広がるフレアスカート。きめ細やかで白く、それでいて血色の良い肌の色にこれ以上ないほどマッチしたけぶるほどのプラチナブロンド。  啓太は、ごくりとつばを飲んだ。恐怖も不安も愛も全てを吹き飛ばして、完全な美に魅惑されていた。この目で見ている景色も、縁石を舐める風の音も、映画館とポップコーンの混ざった匂いも、全てが本物の感覚なのに、全てスクリーンの中のものとしか思えなかった。  啓太が見ている映画館や、ポスターのように、今歩いているのは紛れもなく本物のマリリンモンローだった。何度も擦り切れるほど見ていた雑誌やポスターからそのまま抜け出してきた本物の彼女だ。先ほど遭遇したマリリンのキャストとは到底比べ物にもならないほど、完璧な美しさだった。ゆっくりゆっくりと啓太の方に歩いてくる時間は永遠に感じられた。わざと不均等なバランスで歩く特徴的なウォーキングは彼女自身を象徴するものとなった。耳元の髪をかき上げる仕草も、ふわっと香る香水と体臭の混じった危険な香りも、グラマラスなプロポーションも全てが男を魅了するためのものだ。  男をその気にさせる天才。キャスティングカウチによって「ナイアガラ」で成功を収めるまでは、売春で食いつないだこともあったと言う。中絶した回数は一説によれば13回。かわいい奥さんになって、子どもを持ちたいという彼女の夢は、とうとうかなわなかった。20世紀の最大のアイコンであり、その後も様々な芸術家やパフォーマーに絶大な影響を与えた。その一方、暇があれば本を読み、歌やダンスのレッスン、ハリウッドからニューヨークに移ってからもアクターズスクールに通い、必死にコンプレックスを克服しようとした。マスメディアによってつけられたマリリンモンローのイメージを自分の実力によって乗り越えようとした。セクシーで頭の足りない女というイメージは彼女にとって相当不本意なものであったに違いない。それでも彼女は、「バス停留所」によって、華麗なカムバックを果たし、演技者として評価されもした。しかし、スクリーンや大衆によってつけられたセックスシンボルというイメージの呪いからは、一生、いや死んでからも逃れられなかった。  それでも、豊満なバストときゅっと締まったヒップを振りながら歩いてくるマリリンは、自信に満ち溢れているようにしか見えなかった。心の中に不安やコンプレックスを抱えていても、いつでも光に溢れていた。どれだけドラッグやセックスに支配されていたとしても、スクリーンの中の彼女は完璧だった。  啓太の横を通り過ぎる時、そっと流し目をくれた。それだけで十分だった。全てが完璧に計算されていて、これ以上ない絶妙の仕草だ。もう、こんな風にカメラの前で喋り、歩くだけで全世界を虜にする人は二度と出てこないだろう。啓太の全身を電気信号が駆け巡り、毛細血管には音楽が響き渡った。生まれて初めての禁断の感覚だった。マリリンのすべてを知りたいという欲求に突き動かされた。彼女の肉体だけでなく、その思考も感覚も孤独も全てを味わいたいと思った。マリリンは断じて古い時代の象徴などではない、と初めて分かった。彼女こそが永遠なんだ。通りの向こうに去ろうとするマリリンを追いかけようとした。だが、マリリンの輪郭は淫靡なピンクの靄に次第に滲んでいき、風景の中に溶け込んでいった。啓太自身の体も、桃色の気体に囚われ、意識は朦朧となっていった。どんどん曖昧になっていく感覚の中、啓太はシャネルの5番を嗅いだ気がした。
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