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数ヵ月後。
この時の日絵は、進級を喜ぶどころではなかった。
「……パッて死んじゃえたらいいのにな……」
暮れなずむ半端な空の下、河川敷の斜面に腰かけ、赤黒く煌めきながら波打つ水面を無感動に見つめる。彼女のロングヘアは野良猫の毛並みじみて乱れ放題、ブレザーのボタンはちぎれ、頬や膝にスリ傷がある。
「どうしたのです日絵ちゃん!
ぼろぼろではないですか!」
通りがかりの真姫亜に叫ばれ、驚いて肩を揺らす。
「わきゃっ! お姉ちゃん? 塾帰り!?」
とっさに、右手をポケットへと差し込む。
最も見られたくないものが、そこに刻まれていた。
「えっとねコレはね、なんでもないの。
よ、四つ葉のクローバー探してたら転んじゃって」
「そういう時はすぐに連絡なさい!
だいたいあなたは昔から注意力が散漫なんですよ。周りを見て行動なさいとあれほど忠告したでしょう。しかもクローバーて、理由がお子様! てかどんだけ転げまくったんです、なんか変なニオイさせてるし」
愚痴りつつも真姫亜はタオルとペットボトルの水、救急箱まで取り出して、傷の応急処置を施してゆく。きょうび、友達のためと緊急アイテム一式を通学鞄に常備している中学生が、果たして存在するだろうか。
「まだまだ目が離せませんね。
これではあなたが心配で卒業していけません」
ガーゼを貼ってもらいながら、日絵はハッとする。
あ、そっか。お姉ちゃん、もう受験生なんだよね。
「はい、これでよし」
真姫亜はタメ息をつくと、日絵の横に腰を降ろす。二人ともしばし無言で、黄昏色の川の流れを眺める。
「お姉ちゃん、名学いくんだっけ。
すごいなぁ、あそこって、官僚コースでしょ」
「ごめんなさい」
幼馴染みの表情が露骨に曇り、日絵は焦った。
「えっなんであやまるの!?」
「いえ、せめて高校までは一緒にと思ったのですが、急かされてしまって……父に余裕がないのです……」
政治団体・神明党の総帥である九郎原 亜弥文と、娘の真姫亜は、祖父と孫ほど歳に開きがあるという。
「お父さん、お体よくないの?
ごめん、悪いこと聞いちゃって」
「構いませんよ。ただ、心細いのでしょう。もしもの事がある前に、女のお前は早く兄達の助けとなれと。本人は病体をおしてまで、選挙活動に励んでいます。一刻とて無駄にできません、私は、期待に応えねば」
二人の兄は、とっくに議院勤めをしているらしい。将来、神明党が政権を握る前提の計画なのだろうが、それほどトントン拍子にうまいこといくのだろうか。どちらにせよ、日絵には、政治の世界はわからない。
今の自分に、ひとつ、できることがあるとすれば。
「応援してるよ。わたしならだいじょうぶ!
お姉ちゃんに心配かけないようにがんばる!」
すっくと身を起こし、ぎゅっと拳を作る。
「日絵ちゃん、有り難う存じます」
真姫亜も遅れて立ち上がり、珍しく瞳を潤ませた。日絵の前髪を、そっとかき分け、額に唇をあてがう。
「……お、おねおね、おねえひゃん……」
鼻先をくすぐる友の前髪の、甘い香りに抱かれて、日絵は、このまま死んじゃえたら幸せだとさえ思う。
今までホントにありがとう。
大好きだよ、お姉ちゃん。だから私、たたかうね。
次の日の放課後、日絵は体育倉庫の中にいた。
そして、壁に追い詰められていた。周りを取り囲むのは、嫌らしく目を細めるリオと、ただれた仲間達。
「日絵ちゃあァ~ん、昨日は楽しかったね。
今日はなにする? ま、もう決めてんだけど」
春から不運にも連中と同じクラスになったせいで、日絵は熱烈なスキンシップの標的となったのである。
「私、そば打ってきたんだけど、食べてくれるよね」
そう言うとリオは、分厚い工作用のハサミを使い、水が滴るトイレ用モップの毛をズタズタに切り刻む。それを、わざわざ演出用に用意したのであろうざるに盛り付けるなり、日絵の顔面にぐいぐい押し付ける。
「ほらほら、遠慮しないでいっちゃいなよ。
江戸っ子らしく、ズ~ルズル音たててさぁ~」
「いや……! やめて、くださいっ!」
か細い抗議を受けて、リオの口がへの字に曲がる。
「もうたくさんです、こんなこと」
ためらい傷が浅く残る右手首を左手で握りしめて、自傷行為に及んだ後の悔しさを思い起こすと、叫ぶ。
「わたし、あなたのいうことなんてきかないから!」
「いつもおとなしい子が急に強気だね?
ま~たマキえもんでも呼ぶつもりかな?」
「ちっ、ちがうもん!
わたしだけの力で、あなたに、かたないと……」
大きな目に、いっぱいの涙を溜め、敵を睨む。
「お姉ちゃんが安心して……
名学に行けないんだぁぁぁぁ~っ!」
ありったけの勇気を心臓にくべて、血潮を燃やす。
しかし、ようやく踏み出せた足はリオの突き出した爪先によって払われてしまい、抵抗は虚しくも散る。
倒れこんだところを取り巻き達に押さえつけられ、雑菌漬けのざるそばを、無理やり口に詰め込まれる。
「もが、もごむぅ~っ……!」
嘔吐感に悶える中、頭に浮かぶのは、力強い背中。必死にもがき、手を伸ばすも、掴むのは虚空ばかり。
やっぱりだめだ。
たたかえないよ。
たすけて、お姉ちゃん!
涙でとろける、視界の隅に、求めた姿が映りこむ。
幻ではない。九郎原 真姫亜、その人だ。
半開きの扉の向こうで、こちらを覗き込んでいる。
覗き込んでいるだけだ。
苦しげに、眉を曲げながら。
たすけてたすけて、お姉ちゃん。
なんでみてるの? たすけてよ。
「呼んでも来ないよ」
ここで真姫亜に気付いたリオが、せせら笑う。
「うちの親父、九郎原んとこの支援団体の代表なの。親父がいなくちゃ、勝てる選挙も勝てないってわけ」
日絵の中で時間が止まり、心の動きも止まる。
「政治のお話よ。わかる?
わかんないかぁ日絵ちゃんバカだもんねぇ~」
「ほらほら食え食えってば。おかわりもあるでよ~」
その間もリオの仲間は手を休めずに、モップの切れ端を補充しては、日絵の喉の奥へと押し込み続ける。
日絵は、されるがままになっていた。
肉体からは、もう完全に、気力が抜け落ちていた。
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