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まもなく予鈴が鳴ろうという時間になって、変人で有名な渡 石郎生物教師がフラリ訪れ、教室を覗く。
「ねェ誰か来てくんない?
標本運ぶのに手が足りないんだけど」
不運にも目が合ってしまい、メルは顔をしかめる。
「メルきゅんでいいわ、頼まれて」
「ちょっ、なんで自分なんすか? つーか、わざわざ女子を連れ出さんでも、男手は余ってるでしょーが」
もっともな抗議に、定理も特有の言語で乗っかる。
「ま、招かれざる子羊のホームルーム始まっちゃう」
「あいりん先生にはあとで言っとくからさぁ。それにぼく知ってんのよぉメルきゅん。キミ校内腕力番付で連続1位のディフィンディングチャンピオンじゃん。ぶっちゃけ、そのへんの男よりもマッシブじゃん?」
「確かにちょっとは鍛えてますけど……ん?
あっセンセ、それって微妙にセクハラ!」
「んじゃよろしく、準備室来いな」
好き勝手を言うだけ言い、渡はさっさと出ていく。常日頃から奇行の目立つ人物だが、今日は2日酔いにでも苦しんでいるのか顔面蒼白で、妙にぎくしゃくともつれる足の運びもまた、怪しさを際立たせていた。
「しゃーね。行ってくるっす。
エセ京女に気を許さないでよね、ご主人クン」
「次会う頃にはもっと親密になってますさかい」
「垂れるまで言ってろ、おっぱいオバケ!」
明日香に悪態を投げ、メルは廊下に出る。
「てつだう。ま、まって……」
か細い手足を羽ばたかせ、定理がついていく。
引き戸の向こうに消える寸前、はたと立ち止まる。振り返り、ちょこっとだけ指先を覗かせた袖を振る。
その挨拶は、素数ひとりに対するものだ。
2名の姿が見えなくなり、しばらく経過。
可はあくまでさりげなく、悪友に問いかける。
「あのさ素数、結局あれからどうしたの?」
「なにが?」
「告白されたでしょ、定理に。
まさか、まだ応えてないとか言わないよね?」
「は? おまっ、なんで知ってんだよ!?」
はい、ビンゴ。わかりやすく取り乱す相手の反応に思わずニヤリと口角を上げ、心でサムズアップする。
「僕は、状況証拠に基づく仮説を立てただけだよ?」
「あ~カマかけたな! オメー、ペテン師野郎~!」
その場で見事なチョークスリーパーを決められて、真っ青になりながらも可のニヤニヤはおさまらない。
「で? 付き合ってんの? 付き合ってんの?」
「うるせぇ~くそぉ~ムカつくなぁ~っ!」
男のジャレ合いは、予鈴を合図にお開きとなった。
「あーい皆さん可及的速やかに席について。
ホームルーム、はじめちゃいますよーう」
担任の斑目 愛梨数学教師がスリッパをパタパタと鳴らして、スッ転びそうな危うい足取りで入室する。あいりんは今日もドジっ子かまして、上履きを忘れたらしい。案の定、含み笑いを漏らす生徒が続出する。
「先生まだ面白いこといってないよー?
えっなんでー? なんで笑うのー?」
ひとしきり子供っぽく慌ててから、教育者の威厳を保とうとしてか、あいりんはムッとして咳払いする。
「みんな! 今日は転校生が来てるんだよ!
先生を愚弄するといつまでも紹介しないよ!」
「それだと転校生の人が困ると思いまーす」
野球部一年エースの三蔵が、自慢の強肩ですかさず投げ込んだツッコミによって、クラスの全員が沸く。
「そだよね! えーっとじゃあもう……
すぐ呼んじゃうね! 入ってきてぇー!」
愛梨は、すんなり納得する。
そして、ひとりの少女を迎え入れた。
右側頭部で結わえた美しい黒髪のひと房が、優雅でいて無駄のない毅然とした歩みに合わせ、揺れ踊る。物憂げに伏す瞼の隙間から覗く瞳は、凛とした意志ともう一種、抜き身にも似た氷の冷たさを宿して輝く。
墨のような黒では実現できない、カラスの濡れ羽と表現するに相応しい艶をもつ髪に、白基調のセーラーワンピースが対比の効果でよく映えた。官僚コースとして実績を残す、名声学園高校指定の制服とわかる。
10秒ばかり遅れて気づいたらしい素数が、唸る。
「デキル、おい、さっき話した美少女だぞ」
廊下寄りの席から小声で語りかけられ、窓際に座る可は、改めて少女の姿をここぞとばかりに観察した。
「モデルレベルね、うん、確かにすごいおっぱいだ」
彼の純粋なスケベ心を感じとってか、少女は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、よく通る涼やかな声で名乗る。
「九郎原 真姫亜と申します。
よしなにお願い申し上げます」
巻き起こる拍手の中、突然の声が弾けた。
《デキル!》
頭の中の友達が、少年だけに届ける声は、
《敵です!》
これまで聞いたこともない緊迫の叫びだった。
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