87人が本棚に入れています
本棚に追加
※ ※ ※
ところ変わって理科準備室。
フラスコが棚から落ち、派手な音を立てて砕ける。ガラスの破片が床に散らばり、輝きの道を描き出す。
「あーあ、センセ、やっちゃったすね」
「落ちた、割れた、散らかった、びっくり」
女子2名がそれぞれ反応すると、教師は膝をつく。
「どうしよ。これくっつか……
ないよな。ヘタこいたな~、弁償かなこれ~」
いいオトナがみっともなくワナワナと震えながら、とんちんかんなことを口走って嘆く様がここにある。白けた目で見守っていたメルは、標本の荷詰め作業を中断すると、弱々しい背中に向かって近づいてゆく。
「ほらメルきゅん見てひどいよこれ~。
ご臨終だお通夜だよ香典カンパしてくんね?」
「落ち着いてくださいよ。
どうしてもってんなら貸しますよトゴだけど」
「見ぃてぇ~よぉ~。へっへへ、もっと近くで」
「せん、せい?」
ちょうど手の届く距離まで迫った瞬間、肩を異常なまでに震わす相手の様子に、剣呑な空気を感じ取る。
そして予感は的中した。
渡がバネ仕掛けじみた勢いで振り向き、フラスコの取っ手を握りしめている手を、真っ直ぐに突き出す。
「見てよメルきゅん、ゼロ距離で、さぁっ!!」
サメの歯みたいにギザギザに尖ったガラスの刃が、空を裂き、乱馬 メルの顔面へと吸い込まれてゆく。
※ ※ ※
「お久しぶりですね、No.2 羽根 可さん。
改めて自己紹介します、No.9の、九郎原です」
転校生の名指しに教室が色めき立つ。
え? あのふたり知り合いなの?
抜け駆けか。あんな可愛い娘と。
「単刀直入に、申し上げます。
今すぐ私の、奴隷になってください」
問題発言が、騒然としていた空気を凍てつかせる。
「参ったなぁ。キミみたいな美人さんの告白ってのは願ってもないんだけどさ……ごめん、今日のところは手を引いてくれないかな。いま僕は誰とも争うつもりないし、人の都合で動かされるのもまっぴらなんだ」
真意を知る可は、溜め息混じりに応じた。
対する真姫亜は、冷ややかな眼差しで彼を見つめ、
「それは、まかりなりません。
私がこうして名乗り出てあえて不利な状況を作ったのは、交渉の場を儲けてフェアな関係で取引したいと考えているからです。無理矢理にことを起こすつもりなら、容易かった。私どもの誠意を汲んでいただき、今いちど、熟考なさってください。断るとおっしゃるなら、残念ながら、これ以上の譲歩はできかねます」
ただ淡々と言葉を紡ぐ。
「譲歩だって? どこがだい? キミさ、言葉遣いは丁寧だけど言うことなすことぜんぶ無茶苦茶だよね。要するに、下手に出てやってるんだから文句たれずに従えって話でしょ。そんなの交渉じゃない、脅迫だ」
「そうですか……承知しました。
決裂ということで、よろしいのですね?」
両者の静かな舌戦に、飛びいる者がいた。
「ちょっと、転校生さん!
よくわかんないけど、彼が困ってるでしょ!」
可の前の席に座っていた、明日香だ。感情の高ぶりからか、日頃演じているキャラクターもなりを潜め、素の喋り方が出ている。今にも噛みつきそうな気迫で詰めかけてゆく、そんな彼女を、真姫亜は無視した。
「では実力行使に移行させていただきます。
参考までに申し上げますと、私の侵略条件は」
「明日香さんダメだ! 戻って!」
可は跳ねるように席を立ち、手を伸ばす。
脳内に巣くう別個の意識に呼びかけ、命じる。
守れ、と。
「『恐怖』です」
真姫亜が耳に手を当てながら、何事か呟いた直後、校舎三階に位置する教室の窓に多数の影が映り込む。腰に巻いたワイヤーによって吊り下げられる人影は、黒光りする鉄塊をそれぞれ小脇に抱え、構えていた。
「みんな、伏せろっ!!」
声が、爆音で押し流される。
学校にはそぐわない、弾薬による暴力の雄叫びだ。衝撃は窓ガラスを一斉に砕いて、教室に雪崩れ込む。
巻き起こるのは悲鳴、絶叫の多重奏。
永遠に近い悪夢の数秒が、過ぎゆく。
瞼を開ければ世界は、変わり果てていた。
可の安らげる空間はもう、どこにもない。
嗅覚に刺さるのは、むせ返る硝煙、大量の鉄と脂が混ざった異臭。視覚に刻まれるのは、散りばめられたガラス片、ひしゃげた机と椅子、穴だらけの壁、血の海と化した床に虚ろな瞳で折り重なって横たわる……
かつてクラスメイトだったもの。
「なんでだコギュー」
地獄絵図の中心で呆然と立ち尽くす少年の全身は、鋼の鱗が形作る外殻によって隙間なく覆われていた。おびただしい量の銃弾を埋没させたプロテクターは、役目を果たして砂となり、風に吹かれて消えてゆく。
「どうしてみんなを守ってくれなかったんだよ」
《デキルの生命維持を最優先したです。
今のワタクシには、この程度の肉体操作が限界で》
「そっか、そうだったよね……」
あるプライドのため、可はソピストとなって以来、ただのひとりも奴隷へと落としていない。すなわち、エイダスの栄養源となる高次知的思念エネルギーを、宿主自身の配給分量のみでまかなっているのだった。
彼は穏健派にして、大の人間好きだ。
自由を奪う行為が、単純に、嫌いだったのである。
「なんだ、じゃあ、僕のせいか……」
最初のコメントを投稿しよう!