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「ただいま」  応える者など居ない自宅の玄関をくぐった日絵は、深いタメ息ののち、ブレザーのリボンタイを緩める。いったんリビングに立ち寄り、スナック菓子とソーダ飲料を持てるだけ持ち出し、階段を駆け降りてゆく。  そこは、父の残した地下室。  熱を吸い込むコンクリートの壁で囲まれた空間に、多種多様なアーケードゲームの(きょう)体が乱立している。プログラマーにして重度のゲーム中毒だった父親が、5年越しの貯金を切り崩して築いた、電子の阿片窟(あへんくつ)。  主不在の今、日絵が心安らげる唯一の場所だ。  パイプ椅子に腰掛け、デスクトップを立ち上げる。これは日絵が生まれて初めて自らの手で組み上げた、主に裏仕事の際に使用するハイスペックPCであり、もはや彼女の手足同然の必須ツールといっても良い。 「さてと、やりかけた事やっつけなくちゃ」  3面ディスプレイが別々の作業行程を映し出すと、日絵の脳ミソは、情報の海の深淵へと潜行してゆく。キーボードを激しく打ち鳴らす指も、プログラミング言語の奔流を追う眼球も、全身がどろどろに溶解してあらゆるデータと混ざり合い、精神と肉体の境界すら崩れ散ってゆくかのような心地よい錯覚に呑まれる。 「あぁ、はあぁぁ……」  トランス状態にある日絵は、恍惚の吐息を漏らす。したたる涎がスカートに染み込んでも、気付かない。  現実逃避の末に彼女が行き着いたのはクラッキング請負という、アンダーグラウンドの汚れ仕事だった。現在、着手しているのは、国内最大手ITメーカー・鳩間(はとま)コーポのセキュリティを破るウイルスの製造だ。無論、しくじれば一生を棒に振る破滅的な冒険だが、彼女にとっては、生の実感を得るための手段である。 「多重防壁でガチガチだけど隙を残してる。  ありふれたヒューリスティックと思わせてブラフのホールで捕縛するのか……悪いけど見え透いてるわ」  狭く薄暗い部屋に、自己陶酔の独り言が反響する。ウイルスのプログラミング作業と、違法ダウンロードしたセキュリティソフトのサンプルを利用しての潜入テストを同時進行させつつ、いよいよ大詰めに移る。 「こっちに迂回路を作ってと……ほーらトドメよ!」  チェックメイトのエンターキーを、叩く。 「エ、ク、ス、タ、スぃぃぃぃ……」  脊髄を駆け巡る、電撃様の快楽に、日絵は震えた。  しかし次の瞬間、絶頂感は、寒気へとすげ変わる。3つのディスプレイが一挙にブラックアウトしたかと思えば、不気味なノイズと共に再起動、運河のごとく溢れ出す記号群や演算式でたちまち埋め尽くされた。何かの介入により、恐ろしいスピードでプログラムが書き換えられている、と気づく頃には手遅れだった。 「はえ? なにこれ? バグ? ウイルス?  引っ張ってきたサンプルになんかくっついてたっていうの? まさか嘘、そんな凡ミスありえないっ!」  錯乱する日絵の目に、奇怪なアイコンが映り込む。デタラメに集まったかに見えた記号の塊で形成され、かくかくと動き回る姿にはどこか愛嬌があり、かつて父と共に遊んだレトロゲームのキャラを想起させる。 「スペース……インベーダー?」  懐かしい名を表示した途端、ディスプレイが日絵に向かって紫電を放ち、強烈な熱と痛みで脳髄を刺す。 「あづぁぎゃああああアァッッ!」  たまらず、動物めいた悲鳴を張り上げて仰け反った拍子に、パイプ椅子ごと勢いよく床に倒れてしまう。  デスクトップにはもう何も映っていない。  しばし、聞く者の居ない呻きだけが地下室に響く。疼きが治まる頃には急激な吐き気に襲われ、トイレに走る余裕もないまま、その場で(むせ)ぶように嘔吐(おうと)した。我が身に、何が起きているのか、まるでわからない。
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