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ふたりは走り続け、叡知中学校舎の北に建つ無人の礼拝堂まで辿り着いた。グラウンドから運動部の掛け声が聞こえる中、奥まった場所に佇む聖母像にもたれかかって呼吸を乱す日絵は、隣の三蔵を睨みつける。
「はっ……なんで、はぁ……きたの……よっ!」
「ぐーぜん通りがかったんよ。したらさ、あいつらが物騒なもん持って古鳥ん家に入ってくのが見えてさ」
「説明しろってことじゃあないわよ、バカっ!」
「逆に聞くけどなんで怒られてんの俺。
感謝のキスくらい、あってもよくねー?」
少年は呆れ顔で肩をすくめるが、少女の頬を伝ってこぼれ落ちる涙を見た途端に、ぎょっと目を見開く。
「今までずっと、誰も助けてくれなかった。ママも、先生もクラスの奴らもみんな、見て見ぬふりしてた。それが、当たり前だと思ってたのに、どうして……」
弱々しい声は、やがて嗚咽に変わる。
「どうしたんだよ急にそんな。
あっ手の怪我、痛いのか? 悪い、握っちゃって」
慌てふためく三蔵の言葉で、指の重症を遅れて思い出した日絵は、恐る恐る自身の右手に視線を落とす。
そして、異常に気付く。
強がりな彼女にとって涙の口実として好都合だったはずの怪我は、何事もなかったように治癒している。
「あれ、気のせいだったか?」
日絵は、夢でも見ていたかのような気持ちに陥る。殴られた激痛は、確かに本物だったのに、どうして。
「とにかく、だ」
頭に手を置かれ、撫で回された。
恥ずかしさのあまり、思考が停止してしまう。
「あとで一緒に警察、行こう。そうすりゃあいつらも終わりだし、学校だってきっと無視できねぇだろ?」
駄目だ、安心してしまう。この男が今、共にいるというだけで、甘い戯れごとが頭に浮かぶ。ひた隠しにしていた想いと言葉が、喉を突いて出てしまいそう。少女は心底、自己嫌悪して、唇をきつく噛み締める。
ひどいこと言ってごめんなさい。
すごく嬉しかった、助けてくれてありがとう。
あのね、ID、消したって言ったけど本当は。
「ん? 怖かったか? もう大丈夫だって」
「別になんでもない。でも……」
心配そうに身を屈める三蔵に対し、慌てて答える。日絵は無意識に肩を抱き、どうにか震えを抑え込む。
「言いたいことあんなら言えよな。
なんだよ、また『頼んでない』とかってか?」
「ちっ違う。あの……あ、あり……が……」
途切れ途切れでも必死に紡ごうとしていた言葉は、扉の開閉音によって吹き飛んで、虚しくも霧散する。
「マーニインアルト!」
底抜けに明るく高らかな声が礼拝堂内に響き渡り、周囲の澄み切った空気をビリビリと激しくかき乱す。まばゆい西陽を後光みたいに背負うマルゲリータが、他のシスター3名を連れて扉の向こうに立っていた。
「やっほー日絵ちゃん。さっきぶり!」
シスターのひとりが、妙に馴れ馴れしく手を振る。修道服一式を着こみ、フードを目深に被っているので日絵は一瞬だけ判断に迷ったけれども、その3人組はまぎれもなく忌々しいリオとイエスマン達であった。
「びっくりした? 私ら、入信したの。
この学校の宗教じゃなくて、この人に、だけどね」
状況の整理が追い付かず、目眩を起こす日絵。
さらには、マルゲリータが次に発した言葉によって事態はまたも急転して、神経を激しくシェイクする。
「ちゃお、ちゃお! アナタですネ、我が信徒であるリオの恋人をたぶらかす古鳥 日絵とかいう魔女は」
「は? いったい、なに言って……」
「そうです、この女です! 他人の彼氏に色目使って尻を振る、汚らわしいメスザルですよ、コイツは!」
反論を遮ったリオは、三蔵を猫撫で声で呼ぶ。
「ごめんね、くらっち。あのまま脅して連れてきてもよかったんだけどぉ、街中じゃあさすがに人目につくじゃん? だからお願いしたの。辛かったでしょー、そんな奴の汚い手ぇ握るとか、とんだ罰ゲームよね」
対する三蔵はというと、先程までとは全くの別人のような嫌らしい笑みを浮かべて、リオへと歩み寄る。
「全然いーよ、リオっち。
演出的にもだいじだったろ、あーいうのはさ」
言葉も出ない日絵を、返す刀が切り裂く。
「はいここでネタバレ~。
実は私ら、とっくの昔に付き合ってましたぁ~!」
「遊びだよ、ただの芝居。
今までのこと、ぜーんぶな」
したり顔の男女は、これ見よがしにキスを交わす。
「な~聞いて。あいつな、超ちょれーんよ? 最初はツンツンだったのに、ちょっと優しくしただけでもう即デレ! 泣いて喜んでんの。頼んでないんだから~つって、今日びツンデレかよ~マジ引くわ、へへへ」
「うわなにそれ、きんも、無理だわ~。どーせシモの方でも泣いてたんじゃねーの? きゃはははははっ」
ゲスな会話を脳の片隅で聞いて、日絵は時を遡る。2ヶ月前、自然公園にて。ボールを拾ったきっかけで知り合った野球少年は、暗い性格の自分とは対照的に眩しかった。1ヶ月前、連絡先をしつこく押し付けてくる彼を疎ましく感じながら、屈託ない笑顔に惹かれ始めていた。そして今日、皆が見捨てた私を、守ってくれた、すくってくれた。くやしくてなさけなくて、でも、かつてないほどうれしくて、なみだがでた……
「あのな? ずっと言いたかったんだけど」
身動きひとつしない少女に、三蔵は何を思ってか、真顔を作ると、一切の感情を廃した声で吐き捨てる。
「気分悪くなるんだよ、お前見てっと」
刹那、日絵の深層心理で、とあるスイッチが入る。
「さァ麿チャンのテクで素直なよゐこにしたげマス。信徒達よ行くのデス、古鳥サンを捕らえナサーイ!」
マルゲリータが、腕を振るい、合図を飛ばす。
「イエスマム!」
リオの手下2名が、床を蹴り、走り出す。
全ての動きがスローモーションに流れゆくのを知覚しながら、日絵の意識は白の彼方に飛び去ってゆく。
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