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※ ※ ※
そこは、異様な部屋だった。
8ビットゲームの世界に、迷い込んだような。
あたり一面サイケデリックな原色で塗りたくられた四畳半ほどの空間は立体的な奥行きを持つのに対し、散在する家具などはすべてドットが寄り集まって形成された、紙のように平面的な物体として知覚される。
ドアノブのイラストが描かれているだけの、決して開かない扉の前に、日絵はいつしか棒立ちしていた。
「ここ、どこ?」
《外部と時の流れを隔つ『頭蓋領域』。
我輩と貴様の、無意識が混ざる小部屋だ》
低く、厳かな声が響く。
振り向いた彼女の眼前に突如、男が姿を現す。
ひょろりと長い四肢を備える長身に、タキシードを纏っているが、首から上はまさに異形のそれだった。
巨大な頭部は赤黒く刺々しい甲羅で覆われており、顔に生えた二本の管の先にある目玉が、淡く煌めく。
最大の特徴と呼ぶべきものは甲羅から下に伸びる、男の背丈の倍以上も長い、節足動物特有の脚だろう。左右五本ずつ、やはり赤黒い殻によって包まれ、床にズラリと並び立って体を数十センチ持ち上げていた。うち前方の二対だけ特別製らしく、先端がハサミ型の構造となっており、時おり開閉して打ち鳴らされる。
どこか、見覚えのある生き物にも思えた。
しかし、どんな理由があってこんな姿になったのか理解できないという意味で、ひたすらに薄気味悪い。
「バケモノ……」
日絵が思い描いたのは深海の甲殻類。
タカアシガニの、イメージであった。
《その単語は侮辱のつもりか、ヒトメスよ。我輩には『ザラトストラ』という、高貴かつ素敵な名がある》
頭の甲羅が縦に割れて、もう一つの顔を剥き出す。漆黒の長髪を肩口に流す、青ざめた肌の紳士である。やや面長ながら奇妙な色気すら匂わす壮年の美貌は、服装と調和して古い洋画の男爵めいた雰囲気を放つ。
「あんた、何者よ?」
《既に知っているだろう。
我輩をプログラムの牢から解放したのは貴様だぞ》
父の地下室で、頭の中に飛び込んできた光。あれが何を意味するものだったのか、ようやく理解できる。
「……エイダス……?」
彼らは地上のあらゆる電気信号に乗って、どこからでも標的の脳内へと潜り込み、寄生する能力を持つ。
《いかにも! 喜べ下賎の者!
貴様は我輩のよりしろとして選ばれたのだ!》
疑問符の洪水が、日絵を呑み込む。寄生された? 一般人の自分がなぜ? なんの得があってそうする?
《おっと、そんじょそこらの下級種と同列にするな。我輩は、貴様らヒトの概念でいえば貴族ってやつさ。王から託されし、崇高なる使命もある。ヒトメスよ、貴様の自我を消さずに残してやったのもそのためだ》
異形の紳士の口角が、尊大な笑みの形に歪む。芝居がかった動作で腕を広げて、耳障りな哄笑をあげる。
《くふははは。さァ我輩の傀儡となって動け、踊れ。見返りとして貴様には、能力の一端をくれてやろう》
「ちょっと待って! 今なんて?」
《なんだ恐怖してるのか? まァ矮小なヒト風情には無理からぬ事よ。だが今さら拒否したって遅いぞォ》
「だから待てよ、誰が拒否するっつった?」
許容を越える理不尽の連続により、日絵はかえって吹っ切れて、恐怖心などとっくの昔に麻痺していた。
《え?》
戸惑いの色に染まるザラトストラへと詰め寄って、ジャンプして襟首を掴むと、無理やり鼻先を寄せる。
「操り人形にでもなんでもなってやる。
いいからさっさと力をよこせ、復讐させろ!」
煮え立つ心中で、先程までの状況を噛み砕く。
裏切られた絶望と、弄ばれた憎悪。そして己が人生哲学の正当性が立証された、えもいわれぬ歓喜をも。
「そうだ、私は間違ってなかった!
優しさなんて信頼なんて、何もかも嘘っぱちだ!」
そして、唱える。希望のような、呪詛を。
「所詮この世は……侵略する者、される者っ!」
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