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三
「――だから、お義姉さん。安心してくださいよ」元義弟マサヒロが言っている。「”死後硬直”っていうやつですよ」
「な、なによ? それ――」
「えーっ! 見せて、見せてぇ!」と、男の子と女の子の声が入り交って、バタバタと走ってくる音がする。――おれの体が地震のときのみたいに揺れている。
「うわ~! 目が開いてるぅ! キモイ~!」と、姉の長女の由香子がおれを覗き込んできた。
「ぼ、ぼくにも、み、見せてよぉ~」と、ひときわ幼い声が言う。由香子の弟、ヨシノブだ。
小窓にはこどもの顔がひしめきあっていた。
≪おい! つばを飛ばすんじゃない!≫
目に入った気がする。
「これ! おやめなさい! バチがあたりますよっ!」姉は怒鳴って、小窓を閉じた。
「うわ~ん! ぼく、まだ見てなかったのにぃ!」
こどもの泣き声が発生。――ヨシノブの。騒々しいたらありゃしない。
「仏さまをおもちゃにしてはいけません!」と姉の一喝。
「コラァ、ヨシノブゥ!」きっぷのいい声がした。――おれの妹のエリコだ。「おかあさんの言うことをききな」
「まあまあ、喜佐子お義姉さん」マサヒロのでしゃばるような声。「ほうら、こっちにおいで、おじさんがいいこと教えてあげよう」と、みょうに余裕しゃくしゃくな声。「あとで、こそっり見せてあげるから」と言った声はくぐもっていた。
バタバタと床を揺らす足音――また体が揺れた――と入れ違いに、畳を踏みしめるような軋み音。
こんどは随分明るくなった。小窓のついた板切れが持ち上がっていた。
義兄に姉や、妹の顔が見えている。……沙夜子、妻の顔もあった。
かれらはなぜか、そろいもそろって黒ずくめの格好だった。おれをおどおどと見ている姉の首には真珠のネックレスがたれ下がっている。
「ほう、めずらしいこともあるもんですなあ? わたし、死人が目を開けているところなんかはじめて見たよ」と、姉の夫の幹夫義兄が言った。「これが”死後硬直”ですかぁ?」
「あら~? ほんとうね。お兄ちゃん、目をパッチリと開けているわ」とエリコ。
沙夜子は黙っておれを見ていた。
「――さて、どうしたものか? やはり目を閉じたほうがいいのかね?」とふたたび幹夫義兄。
「でもぉ。触ってもいいのかしら? 仏さまに触って、バチがあたるんじゃないの?」姉が言った。
≪なに? 仏さまって、なんだ?≫
「案外、まだこの世に未練があってのことかもしれんなぁ。例の女とは別れの挨拶もできなかっただろうしなぁ」なぜか、義兄の顔がほくそ笑んでいるように見える。
「う、うう……」沙夜子がおれから顔をそむけた。目に涙があった。
「ちょっと! あなた! こんなときに不謹慎なことを言わないでちょうだい!」姉が怒った。幹夫義兄さんがたじろぐ。――おれもたじろいだ。すぐさま姉にこづかれてふたりそろっておれの視界から退場する。「――あんたってひとはもう! すぐ冗談ばかり言って!」おれの見えないところで姉の罵声と義兄のあぅあぅ―― 言う声。
≪冗談ってなんだ? 不謹慎ってなんなんだ?≫
「もうちょっと、状況を考えてものを言いなさいよ!」とさいごに姉の一喝。
「ああ、すまん、すまん。沙夜子さん申しわけない」と言う義兄は心底謝っているように思える声と、こんどは憐みのこもった眼差しでおれを見下ろす。
「いいのです。――もとはと言えば、みんなわたしが悪いのです」
エリコが沙夜子の肩を抱く。「沙夜子さんが悪いんじゃないわ。もとはと言えばぜんぶお兄ちゃんが悪いのよ!」
≪おれが悪い? なんで、おまえにそんなことを言われなきゃならない?≫
妹のエリコが睨んできた。おれは目をそむけたつもりだったが、まだ、エリコの怖い目を見ている。
「隠れてコソコソ浮気して!」
≪えっ? 誰がそんなことをした!?≫
「そのあげく、その女の腹の上で死んでりゃ、世話ないわ!」
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