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七
「――沙緒里? どうかしたの?」
沙夜子の声が離れた場所からした。
「すみません。お義姉さん。ぼくがいけないんですよ」
「ううん。沙緒里が勝手に泣いたの」
畳の擦れる音。沙夜子の声がしたあたりでとまった。くぐもった沙緒里の声。それと鼻を啜る音。
「そ、それじゃ、ぼく、ちょっとたばこでも吸ってきます」
ミシミシという音がして消えた。バタンと扉の閉まる音。あれは玄関の音だ。
「あなた、マサヒロさんになにかされたの?」
沙夜子の訝しむような声音。
≪ああ! あいつに泣かされたんだよ!≫
「違う。あのひと……優しくしてくれたわ」
≪沙緒里! ち、違うぞう! あいつはどうも様子がおかしい。きっと、なにかたくらんでいるんだ! と、とにかく沙緒里、マサヒロには近づくな!≫
畳を踏む音が近づいてくる。その足音を追いかけるように足袋の擦れるような音。
沙緒里の顔があらわれ、おれは娘と目と目が合う。
「……パパ、なんだか怒っているみたい?」
沙夜子が沙緒里をそっとひっぱり、おれの視界から遠ざけた。
沙夜子はなにか言いたげな顔をしたが、なにも言わず小窓を閉じた。
「ねえママ。わたしがパパの遺品の整理をしていい?」板をいち枚挟んだ向こうから沙緒里の声がした。
――すこし、間があった。
≪おれの持ち物を捨てるというのか?≫
「いいわよ。また落ち着いてから、ママといっしょにしましょうね」
沙夜子のこどもに言いきかすような声音。
「わたし、パパが死んだときに手に握っていたっていう”サングラス”を見つけたの。きっと、パパの物だと思ったから、それをパパの部屋に持っていったの。そのときに思ったの」沙緒里の声音がふだんと違うようにきこえている。「わたし、パパの持っている物にぜんぜん関心がなかったんだって気づいたの」沙緒里のしょげた声だった。「パパがどんな趣味だったのか、なにに興味があったのかしらなかった。わたし、パパともっともっと話しておけばよかった」
≪そうか……そうか≫
おれの目がしらが熱くなった。
――もうだめだ。涙で、涙で前が見えない。と、なるはずだったが、目がしらの熱さとは裏腹に瞳はドライそのものだった。
そう言えば、沙緒里にはおれの好きな音楽のCDとか、小説本とかを見せたことがなかったなぁ。
≪もっともっと娘と趣味の話でもしておけば、よかったなあ≫
「押入れには、パパの大切な物がしまってあるって」
≪そうか、そうか。おれの大切な物が押入れにあるなぁ……って、し、しまった!≫
おれは沙緒里のこの言葉で焦った。
しまった! 押入れの中に隠したエロ本とDVDが見つかってしまうぞう! あれは不味い、不味い処ではない! あんな物、娘に見られたりしたらどうすんだ! なかには『老舗旅館の若女将・淫らなおもてなしサービス』なんちゅうDVDまである! あんなモノを見たら、沙緒里はきっとショックを受けるに違いない。ショックどころかおれを軽蔑するに違いない! ちくしょう! ああ、神さま、仏さま! ど、どうかこの一瞬だけでも、おれを生き返らせてください! あの代物を捨てさる時間をおれにください! 嗚呼! ち、ちくしょう! あんな物、娘がみつけたら、この感動のシーンが台なしじゃないか! 嗚呼! 神さま! 仏さまぁ! くそう! こんなことになるなら、さっさと始末しておけばよかったあ!
畳を軋ませた音が遠ざかってゆく。
ツーゥーッ――、パタン。
襖を閉じた音。
静寂が訪れた。
≪まあいいか。どうせ、もう死んじまったんだからな≫
おれが、いまさらどうあがいたところで生き返るわけじゃないし、あいつらが押入れの中の物をみつけたところで、そのころにはおれは墓の中にいるわけだし、おれはあの世にいるころだろうしな。いくら娘や妻に軽蔑されたって、もうなんにも言われることもないじゃないか。……まてよ。
おれのこの様子はなんなんだ? おれは死んだんだろう? だったら、なんでこんな心配事をすることができる? 死んだのに? なぜか意識もあるし、考えることもできている。あいつらの声をきくこともできるし、目で見ることもできている。においもわかるし……。押入れの中の心配事もできる。
≪おれは、ほんとうに死んでいるのか?≫
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