私は幸せでした

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 思い出したのは金曜の夜だ。飲みに誘って、恵子の態度に対する憤りと悲しみと寂しさを散々聞いてもらったその帰りに彼女の家に誘われた。 「断っただろ」  それを断って、それでも飲み過ぎて終電は逃していたから仕方なくネカフェに泊まることにした。毎晩の僕のように心配してくれるかもと期待して連絡しないまま。 「でも終電までの時間稼ぎはできました。もう時間がなかったんです。手術は月曜日。出て行く理由が恵子には必要だったから……」  僕が飲みに誘わなければ無理矢理引っ張ってでも店に連れていったと璃子さんは言った。確かにあの日は帰りに声をかけたのにもかかわらず、店の予約がとれていたのが不思議だった。 「それで……恵子は、家出に見せかけてココに来たのか」 「そう。先輩と、ちゃんと別れてきたって、泣いてた」 「勝手なこと言うなよ」 「それからもう一度頼まれたの。幸せにしてって。4年間だけど独占できて嬉しかったって」  勝手だよ。勝手だし、バカだよ。こんな手術しないといけない病気を抱えて俺の幸せなんて考えるなよ。もっと、もっと、自分の幸せを考えろよ。 「私は幸せだったから。次は先輩がこの先も幸せでいることが、恵子の願いだった」 「…………ふざけんなよ。こんなの……幸せじゃねぇから!」  恵子の側にいるのが幸せなんだ。最後まで側にいることが幸せなんだ。何で分かってくれないんだ。 「うん。そう思ったから連れてきたの。恵子と約束したから。先輩を幸せにしてって」  悪戯をする少女のような笑顔で璃子さんは言った。これが正解なんだと、僕を励ましてくれている。 「…………ありがとう」 「後はお願いします。そろそろ眼を覚ます頃って、看護師さんが言ってたから」 「ああ」 「明日休むなら、ちゃんと会社に連絡してね」 「ちゃんとするよ」 「部長が一方的に言って切られたって、昨日困ってましたよ。心配かけない連絡の仕方をして下さい」 「……わかりました」  反省した僕の返事を聞いて、璃子さんは帰っていった。 (……あ)  最後に恵子に向けた視線は何だったのだろうか。安心するような、苦しそうな、嬉しそうな……色々混ぜ合わせたような顔をして璃子さんは去っていった。  璃子さんは恵子の親友だ。きっと、全てを知っているからこそ辛かったこともあるはずだ。そんな彼女が恵子の愚痴を零す僕のことを見てどういう気分だっただろうか。  見捨てられても仕方ない。それなのに教えてくれた。約束を破って……恵子の幸せを思って……。 「ありがとう」  必ず、幸せにする。恵子のために、幸せになる。  僕は恵子の手を握り締めてそう誓った。  妻が眼を覚ましたのは、璃子さんが帰った3時間後。面会時間ギリギリの時間だった。 「…………え?」 「おはよう。恵子」  目覚めた妻はまだ状況が掴めていないのか目をキョロキョロ動かしていた。その目が僕の視線に気づき、微睡んでいた瞳が見開く。  驚いている妻を僕は優しく抱きしめた。 「僕は……恵子がいる今が一番幸せなんだ」  今度こそ伝わって欲しい。  僕の幸せはここにあるんだ。 「……わたし、そんなかわいいわけじゃないし」 「最高に可愛いよ」 「わたし、ほんとにりょうりはにがてだし」 「食べてる顔が好きだ」 「わたし、もう死んじゃうんだよ?」 「知ってるよ」  そんな理由で嫌いになるわけじゃない。って、君に伝える。  君が嬉しかったように、僕も君の最後の時間を貰えてとても幸せなんだ。 「恵子の最後を見届けて、こうやって抱きしめたい」 「…………へんたい」 「そうかも」  肩が濡れる。遅れて泣き声が聞こえてくる。これは、嬉し泣きなんだろう。やっと背中に回った細い手が、嬉しかった。  やっと、思いが通じた。 「わたし、すごいしあわせ……」  ずっと聞きたかった言葉を聞けて僕も涙が出た。  二度と放さない。離れない。  それから妻と二人で心配をかけた璃子さんに謝った。彼女は笑顔で許してくれた。強くて優しくて思いやりのある友人に、僕も妻も頭が上がらない。  恵子が旅立つまでの2年間は、充実していた。毎日病院に行って、妻の心からの笑顔を見れて、笑った。  僕は、最高に幸せだった end
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