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【平/残り香】
――リクエスト品:「てるちゃんの妊娠がわかった瞬間からの平目線での出産への日々」――
仕事を終えロッカールームに戻ってまずするのは、携帯のチェックだ。
元々てるちゃんは細かいことが嫌いなので、まめにメールを打ってくる方ではない。だから来ているとしてもホントに用事……『納豆買ってきて』とかそんなんなんだけど……。
だけど、三ヶ月毎のこの時期だけは違う。
今年の春に教職を辞して、自宅待機中のてるちゃん。一男一女を想定して、実家のリフォームも完了させた――そう。つまりてるちゃんと俺は現在妊娠を待望中で、発情期の結果がそろそろ判定出来る頃なのである。
前回までの発情期後は、てるちゃんは普段通りに元気いっぱいでなんの予兆もなかった。だが今回は微熱があったり腹がちくちく痛んだりしているらしく。
――これは、かなり期待大なのではないかと。
かねてから用意していたのに出番のなかった妊娠チェッカーを、てるちゃんが颯爽と取り出して来たのは今朝だ。
「今日やってみるぞ」
厳かに宣言されて、俺はチェッカーとてるちゃん様に手を合わせてから出勤してきたのだが。
――駄目だったのかなあ……。
携帯をかばんに放り込みながら、俺は溜め息をついた。
連絡がないってことは、そういう事なんだろう。
きっと落胆しているに違いないから、ケーキでも買って帰ろう。
てるちゃん御用達のケーキ屋さんの箱を下げてたどり着いた我が家は、普通に明かりが灯っていた。
「ただいまぁ~?」
てるちゃんはどんな様子かなぁといささか緊張しながら玄関を入ったのだが。
「平ッ! おっかえり――――!」
リビングから裸足で駆け出して来たてるちゃんは、ひゃっほー! と歓声を上げながら俺に飛びついたのである。
「て、てるちゃ……っ」
框の段差分の勢いがついたてるちゃんを、俺は必死で抱き留める。
「ちょ、どうしたのどうしたの? ご機嫌なの? いいことあった?」
「あった! できてた! 子ども出来てた‼」
「え、ええええ――⁉」
驚愕の新事実に俺まで叫んでしまう。だって音沙汰ないから、てっきり駄目だったんだと思い込んでたんだ。まるっきりの不意打ちだった。
「だ、だったらそんな走ったり飛んだりしちゃ駄目でしょ⁉ あぶないじゃんか!」
しっかり抱きかかえていたてるちゃんを、俺はそっと框に降ろす。てるちゃんは不服そうに俺をねめつけた。
「だって落とさないだろ~?」
「……落としませんけど!」
そこはアルファの意地にかけて、自分のつがいを落としたりしませんけど。
「落とさないけど万が一があるからね? それにほら、こっちはてるちゃんの身代わりで落ちたようなものじゃんか」
俺が指さしたのは、玄関タイルに落ちた赤い箱である。留めのシールは黒地に白抜きで店名が印刷された、なかなか特徴的なものだ。
「あ、……リサのケーキ……」
てるちゃんのつぶやきは、可哀想なくらいに悄然としたものだった。それを聞いてしまったら、てるちゃんに甘い俺が怒り続けるなんて出来るはずがなくて。俺はてるちゃんを抱き寄せて背を撫でた。
「どっちも落とさずに出来ればよかったよね。ごめんね?」
「う……俺も……、いや、俺こそごめん。嬉しくてつい。メールで知らせようかなって思ったんだけど、直接顔を見て言いたくて……でもお前いっつもより遅いから焦れちゃって、ごめん」
「ああ……駄目だったかと思ってケーキを。――でもじゃあ、ケーキがこうなっちゃったのは仕方ないよね。赤ちゃん、いたんだもの」
「……ごめん」
「ううん。赤ちゃん、来てくれて良かった。言うの遅くなったけど、〝おめでた〟だね。てるちゃん、ありがとう!」
吃驚して叱りつけちゃったけど、これが一番大切だったよね。ごめんね。
「うん。平もありがと」
てるちゃんも、いつもどおりの明るい笑みを見せてくれた。
ケーキはやっぱりぐちゃってなってたけれど、勿体ないから食べちゃいました。
さて、妊娠判明後もしばらくは元気いっぱいだったてるちゃん。たまにお腹がちくちくするかな~とは言ってたけど、そのくらいだったんだよね。
つまりは、『つわり? なにそれ』状態だったわけ。
だけどだんだん週が進むにつれて症状が出て来て、……吐いたり起きれなかったり。もう日に日に元気を失っていくの。
心配だけど仕事を休む訳にもいかず。こういう時こそ実家が隣の利点を生かすべきじゃん、とてるちゃんには今からの里帰りを勧めてみた。
でもてるちゃんはやだって言って、ずっと仁科家にいるようだった。
本当にそれで大丈夫なのかな。
鯨井のお母さんの目から見て、てるちゃんの状態ってどうなんだろう? メッセを打って相談してみると。
『そんなに心配しないで照の好きにさせてあげたら』
って返ってきたんだよね。
「でもうちだと不便でしょう? 親父達も出入りするからリビングで休んだり出来ませんし」
俺たちは基本二階で生活して寝室も風呂も洗面もトイレも二階にあるけれど、キッチンは一階にしかない。そこはほら、料理人の家庭としてこだわりすぎているキッチンを二階にまで作れなかったっていう事情があって。だからてるちゃんは二階で寝ていても、食事をするためには一階に降りなくてはいけなくて。それは今の状況だと大変じゃないかなと思う。そのくらいなら、鯨井家の居間と繋がった和室で過ごせばいいのに。
『昼間は私がお邪魔させてもらって、部屋まで食事運んでるのよね』
「ええ……だったら尚更鯨井家に行った方が……」
『自分たちの寝室が一番落ち着くんですって。――たいちゃん、近いうちに有給とんなさいよ? 照に黙って。そしてこっそり帰って様子見てみなさい。そしたら仕方ないってわかると思うわ』
――と鯨井のお母さんに言われたので、俺は有給をとった。しかしながら『照に黙って』とも言われたので、仕事に行く態で家を出、駅前の喫茶店でしばし時間を潰す。
そのうち鯨井のお母さんから着信があり、『照が寝るって言って寝室に行ったわ』ということなので、いそいそと家に引き返した。
水音を聞きつけてリビングに行くと、鯨井のお母さんが洗い物をやって下さっている。
「お母さん済みません」
「いいのいいの。ほら、さっさと照の様子見てきなさいな。笑っちゃうから」
お母さんの忍び笑いを背に、俺は抜き足差しで二階に上がる。寝室のドアの前で様子を伺うが、中からは物音一つ響いてこない。
――てるちゃんてば、一体どんな感じで寝てるんだろうか。
お母さんは俺に是非見せたいらしいけど、これがてるちゃんのプライバシーに関わる事だったらちょっと可哀想だなあと思う。うん。その場合はそっと知らないふりをしよう。起こさないまま家を出て、昼出勤をしていつも通りに帰ってくればいい。
そう決めて寝室のドアをそうっと開けた俺が見たのは――。
遮光カーテンを閉めたほの暗い部屋の中、ベッドに横たわる影がある。それは当然我が愛しのつがいてるちゃんなんですが――位置が違う。いつも俺が寝ている側で寝てるっぽい……?
そうっと近寄ってみると、うん。やっぱりそうだ。だけど枕が……枕はてるちゃん本人のものだ。あれ、じゃあ俺の枕どこ行った……と眺めていて、妙な事に気付く。羽根布団から覗く肩、襟元が……俺のパジャマ……? 横向きに転がったてるちゃんはぐっすりと眠っているらしく、深い寝息を立てている。だから俺は起こさないように細心の注意を払って羽根布団をずらしてみた。
そして、あっと驚いた。
てるちゃんは、俺が今朝脱いだばかりの――しかも洗濯カゴに放り込んだはずなのに――パジャマを羽織り、胸にしっかりと俺の枕を抱き込んで寝ていたのだ。
「……っ」
声をあげそうになった口を、慌てて手で押さえた。
え、なにこれ。
……いっつもこうやって寝てんの……?
――だから、うちが良かったの? だから鯨井家の和室じゃ駄目だったのか……?
そうと悟った俺は、歓喜にじわじわと頬を染めた。嬉しさに心臓がばくばくするし、指先までじーんと火照ってしまう。ちょ、もう、てるちゃん最高にかわいいじゃんか。
「見てきた?」
てるちゃんに元通り布団を着せかけて階下に戻ると、お母さんはちょうど洗い物を終えた所だった。
「はい。……驚きました」
「ね、見て良かったでしょう?」
「――はい」
くすくす笑うお母さんと、頬の赤みが引かない俺。格好悪いけど、お母さんは義母っていうより第二の母って感じだから取り繕う必要もないんだよね。
「じゃ、私は家に帰るけど、お昼ご飯は照とたいちゃんの分も用意しとくわね」
「あ、いえ。自分で作りますよ。てるちゃんが食べられそうなら、久々に凝ったもの作ってもいいですし。あ、あと掃除もしとくといいのかな……?」
寝てるように見えて、必死で赤ちゃんを育ててるんだてるちゃんは。だったら俺も休んでないで何か役立つことを、と思ったのだが。
「たいちゃんも照と一緒に寝たらいいのよ」
とお母さんに言われた。
「え、でも」
「十分きれいなこの家に、一日分のほこりが増えた所でどうってことないでしょ? それよりはせっかく居るんだから、照と寄り添って寝たら? 残り香より本物の方が安眠効果高いわよ。ねえ?」
あ。
「じゃあ、そうします」
「はーい。じゃあごゆっくりねー」
ひらひら手を振るお母さんを見送って、俺は二階に戻る。さっきと同じようにそうっと入ってパジャマに着替え、ベッドに滑り込む。
てるちゃんに寄り添って起こさないように抱きかかえ、てるちゃんの香りを吸い込んだ。
――確かに落ち着くね。
好きな人を身近に感じて、気持ちが穏やかになるのを感じる。緊張がほどけて、すっと身体が楽になるような……。
「……平……っ⁉」
鋭い叫び声にぱちっと目を醒ました。
「ってるちゃんッ? どしたの⁉」
何事か。勢い込んで身を起こしてみれば、頬を真っ赤に染めたてるちゃんがベッドにへたりこんでいる。
「具合悪い? トイレ行く?」
「お、おまっ、おま、なんでっ!」
抱きかかえようとした俺の手を振り払い、そこではっと気付いたのか、わたわたと俺のパジャマを脱ぎ出すてるちゃん。でも抱えてた俺の枕が膝を占領していて、裾が上手く引き抜けないようだ。
あ。
嬉しさのあまり失念してたけど、これっててるちゃんにとっては『恥ずかしい事』だったのかあと気付く。ごめん。プライバシーだったんだね。
俺は枕を持ち上げ、絡んだ裾を解放してやった。
「なんかちょっとしんどかったからさ、有給にして途中で引き返してきたんだ」
何でもない風に枕を戻して、ふたたびベッドへ横たわる。
「え……、大丈夫なのか……?」
「うん。寝たら良くなった気がする。でももうちょっと寝たいかな」
そして俺はぽんぽんと傍らを叩いた。
「てるちゃんももっかい一緒に寝る?」
「あ――ちょっとトイレ行ってからな」
脱いだ俺のパジャマを後ろ手に丸めて部屋を出て行くてるちゃん。多分そのまま洗濯カゴに突っ込んで来るんだろう。
咄嗟に見ないふりをしたけれど――気付かれてないって思い込めるてるちゃんもてるちゃんだよね。ほんとかわいい。
「熱とかないのか? 目眩とかは?」
戻ってきたてるちゃんは、俺の額にぴとっと手を当てる。てるちゃんの方があったかい手をしてるよ。
「大丈夫だよ。寝たいだけ」
「腹は? 減ってない?」
壁の時計は十一時を差していた。
「減ってないかな」
「ふうん。今から寝るとなると寝過ごしそうだし、かーちゃんにメールしとくわ」
てるちゃんは布団に入ると、俺の腹に背をくっつけてメールを打ち始めた。画面丸見えですよ。
『平が具合悪くて帰ってきてたんだって。一緒に昼寝するから昼ご飯いつになるか分かんない。ごめんだけどラップしといてくれる?』
あは。お母さん笑うだろうなぁ。
送信しおわるとぽいっと携帯を放り出して、てるちゃんはくるっと回転した。俺の胸に抱きついて、すんと匂いを嗅いでいる。
俺も腕を回して抱き寄せ、腕枕の体勢になった。
「平と昼寝とか贅沢だな」
てるちゃんが嬉しそうにしてくれているのが嬉しい。
「そうだね。土日は結局忙しくて、昼寝なんてしないもんね」
「だな。いっつも俺ばっか、り、……ねて、て――、」
相づちを打つ間にも、てるちゃんは目をとろりと閉じていく。ああ本当に、寝ても寝ても足りない眠たい時期なんだなあ。本人から『寝てるだけで何にも出来なかった』って口惜しそうな報告を受けているけれど、むしろ寝るのが仕事だと思って欲しいくらいだね。お腹の赤ちゃんの為に寝ているのだから。
てるちゃんの寝顔を見ながら、てるちゃんが動けない代わりに動こうとするのも大事だけど、もう少し一緒にゆっくりする時間もとろうと反省した。お母さんの言葉じゃないけど、『残り香よりも本物』だよな。肌や香りを触れ合わせるだけでリラックスになるなら、いくらだって抱きしめてあげたいし。
――それにしても、本物を認めた途端にぽいされたパジャマは哀れだったな。うん、俺がいない時に代わりに頑張ってくれたまえ。
(おわり)
出産への日々……というほど長い期間は書けなかったのですが。どうぞお納めください。
この時お腹にいるのが巧で、別の話では成人してつがいもいるって考えると不思議ですね。照と平がおじいちゃんおばあちゃんなんですよ……(遠い目)
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