⑪女と男

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 午後5時に病院の仕事を終わらせた俺は、また赤電(遠鉄)に乗って、『第一通り』駅で降りた。  スマホを見たが、まだ返信は無い。  藤原は忙しいのか。  俺は、再び有楽街に向かい、居酒屋レストラン『恵梨香』に入った。  またここの“お座敷席”が飲み会の会場だった。  障子の閉まっているが、そこには、既に先客がいる気配がしていた。  俺は、少し緊張して障子の縁を軽く叩いた。  中から「はーい、どうぞ」と武井の声がした。  障子を引く。  この前のメンバーが、この前の通りに着座していた。  一番奥には“ボス”の武井。その左隣にはモリ。さらにスペースを空けて、ユウノ、会が座る。  武井の右隣には、“実は裏切り者”の野田がいた。  俺は、自然とその野田の隣に座るべく移動した。  「あっ、どうも!」  「…鈴木さん、お疲れ様です」  「お疲れさんっす」  「…」  「…」  モリとユウノ以外が俺の到着を労った。  会とユウノは、まるで前回以来の再会であるような顔をしていた。  この場では“口が不自由”キャラである俺は軽く会釈してそれらに答えつつ、野田の隣に座った。  今日も白縁メガネの野田が、俺に意味ありげな微笑みを向けた。  今日はその顔に反応したくない。  可哀想だから。  …というか、もうコイツらと酒を飲みたくない。  今回は先に飲み食いはしていないらしい。店員が注文を取りに来た。  俺はまた日本酒を飲みたい気持ちを抑え、メニューの『梅リンゴサワー』を指で弾いて野田に伝えた。  野田が少し笑って「…はい、そのサワーっすね」と応じた。  (…分かっているな)という事らしい。  俺はやりきれない気持ちになった。  ここまで武井にへりくだりながら、野田はその武井を裏切っている。武井から“逃げている”妻である奈津美に横恋慕し、二人の仲を割こうと苦心している。しかも、武井にバレないように…。  それは何故か。  おそらくだが、野田にとって武井は“上司”であり、自分の“食い扶持”を確保するための“手段”なのだろう。  だから、奈津美が欲しくても、武井をまともには裏切れない。  …いや、実質は“裏切っている”のだが、それを武井には悟られたくない。  何故なら、“食べていけなくなる”からだ。  武井が自ら奈津美を諦めるという事に淡い期待を持っている。  だが、そんな期待をしている野田を、奈津美は裏切っている。野田の“本心”を奈津美が気付いているかどうかは分からないが、奈津美の心は、野田に無い。  無論、既に武井にもないのだが…。  俺は満足そうに、俺の注文を店員に伝える野田を虚しい気持ちで見つめた。  注文を聞き終えた店員が下がっていった。  すると、武井が急に声を高めて左手を挙げた。  「はいはーい。皆さん、少し良いですか?」  話していた会とユウノが武井の方を見た。  武井が少し笑ったような気がした。  「…あのですねぇ。少し、嫌な話なのですが」  (…なんだ?)  武井が俺達の顔を順番に見回しながら話出した。  「…何と言うか、この中に“裏切り者”がいるようなんですよ、これが」  隣の野田の肩の動きが止まった感じた。  武井は小さく笑った。今度は笑みと分かる顔の動きだった。  「…ま、何と言うか、そういう事をね、されると困るわけですよ、僕は」  俺は野田を見ないようにしながら、野田の心の動きを感じた。  今、野田は生きた心地がしていないだろう。  武井は野田を見ずに、会の向こうの障子を見ているようだった。  「ま、僕は良いんですよ、別に。だけど…、困るんすよね」  武井の隣のモリは、野田の手元に射るような目線を送っていた。  武井は野田の“裏切り”に気付いたのか。  「ははっ、別に困ってないだろ?」  会が場の空気を混ぜ返すように笑いながら、武井にツッコんだ。  「ふふふっ…」と武井が楽しそうな、そうでも無さそうな笑い声を出した。  「お待たせしましたー」  店員が注文された飲み物を先に持って来た。  それでその場の空気が変わった。  「…じゃ、まぁ、乾杯!」  武井の音頭で飲み会が始まった。  だが、この前とは明らかに違う雰囲気だった。  会とユウノが2人で話し込むのはそのままだが、野田は俺には一切話しかけて来ない。武井とモリの方に寄っていくのが、よく分かった。  武井とモリはそんな野田と少し距離を取っているのも分かった。  俺は1人、久しぶりに飲む『梅リンゴサワー』に虚しさを感じた。  野田は必死だった。  恐れていた事が現実になったのだろう。  暗にだが、武井に『自分は、貴方の忠実な部下である』とアピールしているようだった。  そんな野田の姿はやはり虚しく映った。  俺は、ほとんどジュースとした思えないサワーを一時間かけて、チビチビと飲んで、武井が好みで頼んだ『唐揚げの甘辛煮込み』を食べた。  二杯目はビールくらい頼みたかったが、孤軍奮闘する野田を見ていると、忍びなく、俺は『生レモンサワー』を注文した。これを飲むのも十数年ぶりだった。  時折、武井や会が散発的に俺に声をかけてきた。  俺は苦笑いを浮かべて、無言で頷いた。  何とも虚しさだけが漂う酒席だった。  一時間半が経ち、武井が「それじゃ、そろそろ行きましょうか?」と宣言して、ようやく“お開き”になった。  武井が先に立ち上がり、会計をすべくカウンターに向かった。  このどうしょうもない酒の、唯一の“利点”は支払いが武井持ちである事のみだ。  だが、もう出るのは辞めようと思った。  出来たら、野田への“偽報告”も断ろうかと思った。  …と言うか、野田は今後、武井からの猛烈な疑念と攻撃が待っているだろう。  武井はどこまで分かったのか。  あの“報告”が嘘だという事か。  もしくは、野田と奈津美の関係か。  俺は、自分の靴を履きながら、武井が野田の“裏切り”にどこまで気付いているのか考えた。  履き終えると店の出口に向かった。  レジでは、財布に今夜の支払いの長いレシートを仕舞う武井がいた。  「…」  俺は“奢ってくれた事”に対する感謝として、無言で頭を下げた。それくらいの礼儀は俺にもある。  「鈴木さん…」  武井が俺の顔を正面から見つめた。  「…ありがとうございました」  何故、“過去形”だった。。  (…『今夜、来てくれて、ありがとう』という意味か?)  俺は再度、頭を下げた。  店から出て、階段を降りて、またコンビニの前で他のメンバー同士が別れの挨拶を繰り返した。  ズボンの尻ポケットに入れた俺のスマホが震えた。  野田からメッセージが入っていた。  『今日はこのまま、解散で』  別に野田と“二次会”の約束をした覚えは無い。  たが、彼はこの前のように、『わいわい』で打ち合わせ”でもする気だったのか。  俺は厄介事から解き放たれた気がした。  三々五々に散って行くメンバーを見ながら、「コイツらとは、もう2度と会わないだろうな」と予測した。願望と言っても良い。  最後、会が俺に何か言いたそうだったが、無視した。  彼はこの中では、俺の“理解者”に近いが、“味方”というわけではない。別に考えたら、やはり会も武井を利用している、とも言える。  腕時計は午後8時を少し回っていた。  俺はコンビニのある場所から北に歩いて、『肉寿司』の看板を右に曲がった。  次郎にいくつもりだった。  甘ったるいサワーを、ビールと日本酒で洗い流したい気持ちだった。
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