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机の引き出しの奥に入れた一枚の写真をそっと取り出して眺める度に、わたしは何とも言えない気持ちになる。
なんてことのない、賑やかな観光地に立っている二人の女子高生が写っているだけの写真。それなのに何故か胸の奥がざわざわする。
高校二年の秋。もみじの葉が紅く色づきだした頃、修学旅行で京都に行った。わたしの学校は比較的生徒の自主的な行動に任せる方針なのか、自主行動の日が多い。その日も丸一日五、六人の班での観光だった。クラスで仲の良い子達と一緒に寺社を訪れる。コースは各々の希望を取り入れて決めた。昨日は嵐山方面、今日は慈照寺、法然院、永観堂――。寺社建築や庭園の写真を撮りながら、あれこれお喋りをする。元々お寺という空間は何となく気分が落ち着くので好きだったから、わたしはこの旅を楽しんでいた。京都の秋。社会人になったら中々休みをとれない時期だが、京都では紅葉に加え寺社の特別拝観の時期でもある。憧れていた慈照寺の東求堂同仁斎に入ることができたときは感銘を受け、友人が一緒にいることも忘れて見入っていた。永観堂では臥龍廊の美しさに見惚れたり、初めて水琴窟を見て、どんな音がするのか友人と試してみたり。今度は友人希望の清水寺へ向かう。
「萩内さん? どうしたの、こっちだよ」
「え? ああ、ごめんごめん。ぼーっとしてた」
「もう、音葉はいつも通りマイペースだなあ……。バス乗り遅れちゃうから早く行くよ!」
まただ。大好きな場所を友人達と訪れ、満喫しているはずなのに、気がつくとわたしはある同級生の姿を探してきょろきょろとしていた。
日向唯花。出席番号が近かったのがきっかけで話すようになった。しかしこの旅行では別々の班だ。
(わたしも唯花ちゃんも同じ部活の子と組んだんだし。仕方ないよね)
これは言い訳だと、心の底ではわかっていた。彼女にはわたしよりも親しい友人がたくさんいると。それでも、つい適当な理由を考えて自分に言い聞かせてしまう。何故か分からないけれど、彼女はいつの間にかわたしにとって特別になっていた。
一か月ほど前の文化祭。自分の所属する華道部のシフト中、美術部である彼女の作品を見に行こうか行くまいか、ぼんやりと考えていた。夏休みに偶然会ったとき、文化祭に向けて展示物を作っているんだと聞いたのを思い出したのだ。ふわっとしたセミロングの髪をいつもより凝ったまとめ方にして、リボンなど彼女独自のアレンジを加えたクラスTシャツを着た今朝の彼女は思わずじっと見つめてしまうくらい可愛くて、そんな彼女が今日の為に作り上げた作品はどんなものなのか、少し気になった。しかし、彼女の他には美術部の友人はいない。お世辞にもセンスがいいとは言えず、美術の授業が毎週苦痛で仕方ないわたしには、美術部の展示に行くのは少々ハードルが高かった。わたしが行って変に思われないだろうか、などと暗い方向に思考が沈んでいきかけたとき、彼女がドアから入ってきた。
「わあ! ちょうど音葉のシフトだった! ラッキー。浴衣似合ってるね」
「そんなことないよ……。来てくれてありがとう。良かったら作品見た後感想ノート書いていって」
「おっけー。音葉の作品が素晴らしかったって書いとくよー」
そう言うとにこっと笑って作品の方へと歩いていった。
さらりと浴衣姿を褒められてしまった。普段と違う格好を見られた上に褒められ、なんだかじわじわとこみ上げてくる照れくささと嬉しさを隠そうとうつむいたが、普段なら適当に梳かしてそのままにしている長い髪を、今日は浴衣に合わせて後ろでまとめていたことを思い出し、彼女のいる室内から目をそらし、ドアの方を向いた。それでも頭の中は、私の作品を見て彼女はどう思うのだろうとか、彼女のTシャツも可愛くてよく似合っていると返事すればよかったとかいったことでいっぱいで、誰が通ったか全く見えていなかった。
その日の夜、今日の彼女の可愛さを思い返しながら、他の子にも似たような事を言われたのに、彼女のときだけ何故うまく言葉を返せなかったのか、どうしてそのことがこんなにも気になっているのか、ふと不思議に思った。散々考えた結果「彼女は特別だから」という曖昧な答えには辿りついたものの、なんとなくもやもやとしたまま、明かりを消して布団にもぐりこんだ。
清水寺に行った後、三寧坂を下りながら各自好きなように土産物屋を見ていると、突然肩を叩かれた。
振り向いたところに見えた姿に、とっさに言葉が出なかった。
「やっほー。音葉も清水寺来たの?」
「……唯花ちゃん。ああ、びっくりした。そうだよ、今行ってきたところ」
「私達はこれから。こんなとこですれ違うとか、すごいタイミング良かったー」
「う、うん。ほんとだね。今日はどこらへん行ってたの?」
「んっとねー、朝二条城行って、さっき三十三間堂見てきた。音葉はー?」
「銀閣行って、哲学の道歩いて色々見た後適当なとこでバス乗って戻ってきた感じ」
「銀閣! なんか音葉っぽい」
「そうかな? でも良かったよ。特別拝観やってたし」
銀閣のどこがわたしらしいのかよく分からなかったが、彼女の姿を見つけるどころか向こうから声をかけてくれたことが嬉しくて、わたしは珍しく自分から話題を振っていた。なんでもない会話でも、彼女となら特別なのだ。
「清水寺も綺麗だったよ。坂は思ったよりきついけど」
「ほんとー? 音葉おすすめなら間違いないか! よく歴史の本とか読んでるもんね」
「そ、そんなに詳しくはないよ。清水寺は友達の希望だったし」
思わず少し下を向いてしまった。彼女が教室でわたしの読んでいる本まで見ているとは思わなかった。
「唯花ー! 先行っちゃうよー!」
「あ、ごめんすぐ行くから! ね、音葉、写真撮ろ!」
班の子に呼ばれた彼女はそう言うと、わたしが何か言う前に、近くにいた女性に声をかけてカメラを差し出した。
「すみません、写真撮っていただけますか?」
「あら、もちろん。あなたのカメラでも撮りましょうか?」
「え、あ、えっと、お願いします」
「じゃあこっちのカメラから行くわね」
「音葉、もっと寄って!ほら」
腕を引き寄せられて、彼女にぐっと近づいてしまった。柔らかい彼女の香りを微かに感じ、わたしは一瞬、笑顔をつくるどころかどこを見たらいいのかすら分からなくなった。
「ふふ、はい、撮れたわよ」
「ありがとうございました! はい、音葉のカメラ」
彼女が人懐っこい笑顔でお礼を言って、わたしにカメラを渡す。そこには楽しそうに笑いながらわたしの腕を持つ彼女と、やや慌てた様子が隠せていないわたしが写っていた。
(まさか一緒に写真が撮れるなんて思わなかったなあ……)
旅行から帰ってきた後、一枚だけ自分用にこっそり印刷した写真を見ながら思い返す。見かけることが出来たらいいな、程度の願いだったから、まさか形に残る思い出ができるとは考えてもみなかった。しかし、こんな表情のわたしの写真が彼女の手元にもあるかと思うと、もっと良い表情で写れていればと、うまく対応できなかった自分が嫌になる。自室とはいえこの写真を堂々と飾るのはどうも気恥ずかしく、かといって他の写真と一緒にアルバムに入れて積んでおく気にも、まして捨てる気にもならず、どうしようかと散々悩んで、結局机の引き出しにしまった。そして何度も何度も取り出してはあの時のことを思い出して、なんだかくすぐったい気持ちになるのだった。
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