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第10話 貫之
左京三条四坊十五町、東京極大路と三条坊門小路が交わる角に位置する山井殿。かつては、隅々にまで手入れが行き届き、趣向を凝らした庭が住む人や訪れる客人の目を楽しませた大邸宅であった。現在では、その名残はわずかにとどめる程度。最低限の手は入れられ、辛うじて庭の形を保ってはいるものの、往時には比ぶべくもないほど、質素である。
とはいえ、邸だけは維持され、主の住まう寝殿、北の方と呼ばれる通り正室が住まう北の対、元服を控えたこの家の長男に与えられた西の対、そしてもう一棟、手入れだけは怠らないものの、日頃は無人の東の対が揃っている。
その東の対に、珍しく人の姿があった。
「紀の兄様が訪ねてくださるとは、珍しい」
御簾を上げ、几帳も隅へ押しやって顔を晒しているのは、ようやく本当の里下がりをした季姫であった。昨夜は小町の邸に泊まり、今朝方、父の邸に帰ったばかりである。枝良は藤原式家の出であり、現在、権勢を振るう藤原北家とは、系統が異なる。
枝良の祖父は藤原緒嗣(おつぐ)という。山本大臣と号され、桓武帝の寵臣であった。平城、嵯峨、淳和と四代の天皇に仕えて正二位左大臣まで昇り、死後には従一位を贈られている。藤原式家、最後の隆盛を飾る人物である。
しかし、緒嗣の晩年には北家が台頭したことや、枝良には伯父に当たる緒嗣の長男家緒が早世したこと、そして薬子の変や承和の変という二つの政変によって、緒嗣やその直系ではないものの、式家に連なる人物が処罰されたことなどから、今の式家には、かつての栄華は見られない。
その上、枝良の父である春津(はるつ)には出世欲がなく、役職があっても出仕しようしなかったという。結局、従四位上刑部卿にまで昇ったものの、その後は、但馬守や備前守といった地方官である国司に任じられた。その上、任国に赴くことはなく、二十五年程前、備前守在任中に鬼籍に入った。春津の事績として知られているのは、緒嗣が手がけ、志半ばとなっていた観音寺の伽藍を、完成させたことくらいである。
春津が亡くなった当時、枝良はようやく十五を数えたところ。それでも枝良は、緒嗣の事績を誇りとし、祖父の名に恥じない生き方をしようと、有力な後ろ盾もない中で、苦労を重ねた。麻名子と知り合ったのはその頃である。麻名子は、既に内教坊を出ることが決まっており、季姫と共に小町の邸に移った。麻名子の死後、現在の北の方を迎え、季姫のことを養女として迎え入れたのだ。今年になってようやく、太皇太后少進の職を得た。
その縁で季姫に、皇太后高子への女房仕えの話が来ることにもなった。
「ちょうど季姫が、里下がりだと聞いてね。後宮は、一介の文章生の僕には敷居が高くて、行きづらいんだよ」
答えたのは、季姫と同じ年頃の青年である。実際には、彼の方が一年早くに生まれている。烏帽子に狩衣といった日常着であるが、着古されているのか、やや生地に痛みがある。青年の名は紀貫之(きのつらゆき)。祖父は紀本道(もとみち)といいい、筑前守や下野守など国司を歴任した人物であるが、父の望行(もちゆき)は早世している。母が内教坊の妓女であり、幼い頃は内教坊で育てられた。そのため、同じく内教坊の妓女を養母に持つ季姫とは、兄妹のように育ったのだ。
元服して貫之と名乗った後、寮試を受けて大学寮の擬文章生となり、その後省試に通って文章生となっている。大学寮とは、官僚を養成する機関であり、主に、中下級貴族の子弟が入学する。紀伝道(中国史、文学)、明経道(儒教)、明法道(法律)、算道(算術)の四つの学科に分かれており、文章生というのは、このうち紀伝道を学ぶ学生である。擬文章生とは、その見習いである。
元は、海の向こうの大国唐とそれ以前の歴史を学ぶ紀伝道と、文学を学ぶ文章道に分かれていた。その二つの学科が統合されたため、学科の名称には紀伝道、学生の呼び名には文章生の名が残っている。
「お気になさることなど、ありませんのに……雑色や下人達だっていますし。それで、何かご用があっていらしたのですか」
「後宮にいた季姫なら、源大夫殿のご子息の事件のこと、詳しく知っているかと思ってね」
貫之の話に、季姫は胸をどきりとさせて驚く。自分が、今まさに主命で調べていることである。季姫は、自身の動揺が伝わらないよう、慎重に答えた。
「益殿の?何故、兄様が……」
「紀君(きのきみ)のお父上に頼まれてね」
貫之は、季姫の心中には気付かない様子で、苦笑する。その答えに季姫は、心から安堵を覚えた。
「紀君、ですか」
「ああ。その父上が、僕の加冠役で恩人なんだ。母が亡くなったあと、世話になってる」
加冠役とは、男子が子供から大人の仲間入りをする元服の儀式で、子供の髪型である総角(あげまき)から、大人の髪型である髻(もとどり)へと変わった頭に、冠を被せる役である。冠親とも呼ばれ、元服した者にとって、後々までの後見人となる。これが女子なら、裳着の儀となり、裳の腰を結ぶ腰結役が相当する。
「そうでしたか。それで、紀君がどうして」
「今上のお側にいられない分、ご心配されてるそうなんだ。紀君には、今上の乳母殿がついておられるけど……さすがに、当事者のお母上だからね。相談しようにも、できないらしくて。大事なお身体だというのに……」
紀君は、后妃のいない今上の、現在のところ唯一の寵姫である。元は、今上の乳母である全子の、身の回りを世話をする女童であった。今上や益と共に育つうち、今上に見初められて寵を賜り、身籠もった。現在は、出産に備えて里下がりしている。
しかし現在に至るまで、正式な后妃として認められておらず、また女官としての官位もない。そのため、ただ紀氏の娘ということから、紀君と呼ばれている。公式の文書に名が記載されることもなく、その名はごく近しい人々にしか知られていない。だから、季姫はもちろんのこと、同族の貫之でさえ、諱(いみな)つまり本名を知らないのだ。
「それで、兄様が?」
「僕は別に、紀君本人とはお会いしたりはしていないよ。ただ、お父上に、相談されただけなんだ。それで、季姫なら、何か知ってるんじゃないかと思って……」
つまり貫之は、自身の後見人であり、恩人である紀君の父から、少しでも紀君が心安らかに過ごせるような情報が欲しいと、頼まれているのだ。
「実は、これは内密にして欲しいのですが……私もちょうど、事件を調べているところなんです。里下がりしたのもそのためで……」
季姫は、慎重に言葉を選ぶ。貫之は、かつての季姫が最も信頼し、頼りにした相手である。しかし、こうして立場を違えた今も、同じかどうかはわからない。今の貫之が、堀河の辺りつまり基経と、例え細くでも繋がっていないことがわかるまで、必要以上の情報を明かすことはできない。
「季姫が?それは助かるよ。季姫の今の主って確か……」
「それとこれとは、別の話です。それ以上突っ込んだら、協力できなくなります」
貫之が、隠さなければいけない核心に迫りそうになり、季姫は慌ててその言葉を遮った。却って怪しい行動ではあるが、貫之は、季姫のためにならないことだけはしない。季姫の、そういった種類の信頼だけは、揺らぐことはないのだ。
「ごめんごめん。別に僕には目を掛けてくれるような御方はいないし、本当に紀君のことだけだから、安心して。それで、何か、わかってるの?」
貫之が、その信頼に応える言葉を返し、季姫は安堵する。これでもし、基経とのつながりがあったとしても、貫之が季姫が受けた今回の命令の主を、表面上知らないままであれば、貫之には、基経に報告することなど、何一つないことになるのだ。
「噂されている以上に、詳しいことはまだ何も……ただ、その場にもう一人、いたかもしれません」
「もう一人?」
「はい。それを、調べてみようと思っています」
それでも季姫は、この時点で確証のないことは、必要以上に明かさないことにする。
現場に、もう一人いたかもしれない、というのは可能性の話であって、伝えても差し支えないと判断したものの、それが誰なのかについては、藤原定国(さだくに)という候補が挙がっているだけで、まだ何も確認がとれていないのだ。
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